11 Prey

 予備の弐号機用プラグスーツに着替えたカグヤは、彼女と共に弐号機のエントリープラグ内に乗り込んでいた。アスカが操縦席に座り、カグヤはその後ろで適当な所に腰掛けている。
 弐号機の内装や計器の位置は10号機と大して変わらなかった。どちらも同時期に開発された制式タイプなのだから当然といえば当然ではあるが、カグヤはなんとなくこの弐号機に親しみを覚えた。
 アスカが操縦桿を引くと、エヴァの電源が入った。画面にドイツ語のシステムアナウンスが次々と表示されていく。それを見て、カグヤは「あぁ」と声を上げた。
 
 「アスカ、思考言語を日本語にしてくれる」
 
 振り向いたアスカは怪訝そうな顔をしていた。
 
 「はぁ? なんでよ、あたしの弐号機なのよ。あんただってドイツ語喋れるんだから、あんたが合わせるのは当然じゃない」
 「無理だよ、もうドイツ語は忘れた。第一、私達は再会してから日本語しか喋ってない」
 「はぁ……わかったわよ。思考言語切り替え、日本語をベーシックに!」
 
 アスカの言葉に反応し、画面に書かれている言語が日本語へ切り替わる。しばらくして、準備完了を示すサインが点灯した。
 
 「エヴァンゲリオン弐号機、起動!」
 
 操縦席に座っていないカグヤにさえ、エヴァが起動する力強い感覚が全身に漲ってくる。心臓から送り出された血液が、指の先まで巡ってくる感覚だ。
 エヴァが起動すると同時に、ミサト達が乗っている空母との通信が繋がった。
 
 『オセロウより入電、エヴァ弐号機起動中!』
 『なんだと!?』
 『ナイス、アスカ!』
 
 ミサトの声だ。それを聞き、アスカがしてやったり、といった顔つきで「カグヤもいるわよ」と答えた。画面の向こうから、ミサトの興奮と、艦長の呆れが聞こえてくる。
 
 『カグヤちゃんもいるのね!?』
 「はい」
 「ふん、弐号機パイロットの見事な操縦、目の前で見せてあげるわよ」
 『はぁ、子供が二人……』
 『しかし、本気ですか? 弐号機はB型装備のままですよ』
 
 その言葉に、アスカもカグヤも揃ってエヴァのモニターを見つめた。確かに端の方に「Equipment type : B」、つまり陸戦用標準装備であるB型との表示が出ている。と言うことは、海中に沈んでしまえばそれで終わりということだ。
 だからと言って、撤退は許されない。ここで弐号機が戦わなければ、ミサトや加持を含んだ太平洋艦隊の全てが海の藻屑となってしまう。海に浮かぶこの数十隻の船の甲板だけを足場に、あの使徒と戦わなければならない。
 ふと横を見ると、アスカはじっと前だけを見つめ、不敵な笑みを浮かべていた。
 
 「きっと私達、今同じことを考えてるわね」
 「……それは?」
 「できるできないじゃなくて、やるしかない、ってことよ」
 
 カグヤは瞬きを繰り返したが、やがて糸が切れたかのような笑みがふっと溢れた。
 
 「その通りだ」
 
 その言葉を合図に、弐号機は獲物を狩る獣のように脚をグッと曲げ、力を溜め込んだ。
 
 「エヴァ弐号機、行きます!」
 「……!」
 
 そして、弐号機が空を駆けた。
 そのあまりの軽やかさに、カグヤは一瞬自分がエヴァに乗っていることを忘れてしまいそうになった。どこまでも飛べる翼が生えたかのようだ。自分の駆る10号機とはまるで動きが違う。 
 カグヤはしばし言葉を忘れたが、モニターに映るカウントダウンに意識を引き戻された。
 
 「残り58秒!」
 「了解。ミサト、非常用の外部電源を甲板に用意しといて!」
 『わかったわ!』
 
 使徒は太平洋艦隊の群れから2kmほど離れたところを、浅瀬に迷い込んだイルカのようにうろうろと彷徨っている。電源を接続するだけの時間は残されていそうだ。重力の影響を受け、弐号機はみるみる正規空母の甲板に近づいていた。
 
 「エヴァ弐号機、着艦しまーす!」
 
 アスカが叫んだその直後、弐号機が甲板に着地した。その衝撃は相当なものであり、飛行甲板に残されていた戦闘機が次々と海に沈んでいった。
 
 「ああ……」
 「なーに勿体無いとか思ってんのよ」
 『目標、本艦に急速接近中!』
 
 カグヤは戦闘機から視線を外し、使徒がいる方向に目を向けた。鯨と烏賊を混ぜ合わせたような外見の使徒が、みるみるうちにこの空母に近づいている。
 アスカが外部電源への切り替えを終え、モニター上のカウントダウンが止まった。
 
 「来るよ。左舷9時方向!」
 「接近戦に持ち込むわ!」
 
 弐号機が肩のウエポンラックからプログナイフを取り出すのと同時に、使徒が、海中からその巨躯を現した。
 
 「で、でかい」
 
 カグヤもアスカも、そのあまりの大きさに思わず鼻白んだ。太平洋艦隊の中で最も大きいこの正規空母の上にさえ、あの使徒の体の半分も収まらないのではないかと思うほどだった。それにプログナイフ一つで対応するなど無茶だ。
 しかし、使徒との戦闘は無茶を通すのが常である。
 飛んできた使徒に、弐号機は両腕を突き出した。
 
 「っ、ぐうう!」
 「くっ、なんて、力だ……」
 
 手からプログナイフが弾け飛ぶ。伝わってくる衝撃に、二人は顔を顰めた。甲板の上に使徒を留めておくのが精一杯だ。
 甲板の上から残っていたたった二つの戦闘機が海へと滑り落ちるのが、カグヤの視界の端に映った。
 
 
 
 そして、同じものを船内の客室から見ていた男がいた。
 
 「こんなところで使徒襲来とは、話が違いませんかね」
 『そのための弐号機だ。予備のパイロットも追加してある。最悪の場合、君だけでも脱出したまえ』
 「ええ、僕としても是非、そうしたいところだったんですがねぇ……」
 
 加持は苦々しげに唇を歪めた。
 
 「使徒との戦闘により、この母艦に停留していた戦闘機は全て喪失しました。このままだと、人類の命運が弐号機に託されることになりますよ」
 『……』
 「僕としては、予備戦力を投入していただけると嬉しいのですがね」
 
 電話の向こうからはしばしの沈黙が聞こえたが、やがてため息が一つ吐き出されてきた。
 
 『良かろう。初号機をE型装備でそちらに送る』
 「感謝します」
 『全ては君の荷物のためだ』
 
 通話を切った加持は、窓の外を険しい瞳で見つめた。その先には、使徒に飲み込まれ海中へ消えていく弐号機の姿があった。
 
 「頼むぜ、アスカ、カグヤちゃん」
 
 派手な水柱が上がった。
 
 
 
 文字通り天地がひっくり返ったような衝撃に、カグヤはエントリープラグの中を二回転ほど転がって、なんとか近くの壁に掴まった。
 
 「うぐっ……アスカ、無事か!?」
 
 眩暈を堪えて操縦席に這い寄ると、アスカの微かな呻き声が聞こえた。ぎょっとして、慌てて駆け寄る。真っ赤なプラグスーツの色に混ざって見えにくいが、膝の上に、アスカが吐いたのであろう微量の血が付着していた。
 
 「アスカ!」
 「これくらい、なんともないわ……それより、状況は」
 「使徒に上体を喰われて、海に引き摺り込まれた。腰から下は水に浸かりきっててもう動かせないけど、上半身はこいつの体内だから、頑張れば動かせる……のかもしれない」
 「そう。じゃ、まだいけるってことね。ほら」
 
 不敵に笑うアスカが、くい、と顎で前を指した。カグヤはそこにあるものを見て、はっと目を見開いた。
 
 「コア!」
 「これを壊せば、私たちの勝ちなんでしょ?」
 「でもプログナイフが……」
 「素手でやるしかないわ」
 
 アスカはコアに近付くために匍匐前進しようとした。その途端、カグヤの腹部に鈍い痛みが走る。使徒の歯が弐号機の腰部に突き刺さっているのだ。弐号機とさほどシンクロしていないカグヤでさえ痛みを感じるのだから、アスカの痛みは相当のはずだった。
  
 「くぅっ……! こんなところで、止まってらんないのに……」
 「アスカ……」
  
 弐号機がコアに手を伸ばしたその時、急に使徒が暴れ始めた。
 苦しみにのたうち回るというよりは、釣りで引き上げられまいと抵抗する魚のような動きだ。弐号機は振り落とされないようしがみつくので手一杯だった。
 
 「何が起きてるの!?」
 『まずいわ、使徒が外部電源のケーブルを引きちぎろうとしてる!』
 「えぇっ!? あっ、うわっ!!」
 
 ミサトの言葉にカグヤが反応した直後、機体に大きな加速度がかかった。
 使徒は本当にケーブルを噛みちぎるつもりのようだ。
 抵抗しようにも指先すら自由に動かせず、そのうちブチッと嫌な音がして、モニター上に再び「1:00:00」というカウントダウンが表示された。
 
 『外部電源の断線を確認!』
 「まずいな、内蔵電源じゃ保たないぞ……!」
 「うるさいわね、なんとかしてやるわよ!」
  
 しかし、アスカやカグヤがどんなにもがいたとしても、内蔵電源のたった1分で手の届くずっと先にあるコアまで辿り着き、あまつさえそれを破壊することは、無茶を通り越して不可能としか思えなかった。
 絶望的な状況に、あのアスカでさえ顔色を悪くしたその時だった。
 
 『上空より飛行物体の接近を確認!』
 『まさか……あれは、初号機!?』
 「えっ!?」
  
 予期せぬ報告に、カグヤは思わず耳を疑った。しかしモニターを通じて聞こえてきた音声は、紛れもなく初号機パイロットであるシンジのものだった。
  
 『カグヤ、それにセカンドチルドレン! 無事か!?』
 「シンジ……! 助けに来てくれたのか!」
  
 シンジの声を聞いた途端、カグヤの全身を途方もない安堵が包んだ。まさしく強力な援軍が到着したような気分だった。まだ油断ならない状況であるとは分かっているが、それでも先ほどまでの絶望的な状況からは脱したのだ。
 一方隣のアスカは、驚愕と混乱をないまぜにしたような表情を浮かべていた。
 
 「サードチルドレン!? なんであんたがここに来るのよ!」
 『時間がない、とにかくカグヤ達はどうにか使徒の口を開けて! 僕が中に入って使徒を倒す!』
 「あんたに命令される筋合いなんて……」
 「アスカ!」
 
 敵愾心を滲ませたアスカを、カグヤは厳しい顔で見下ろした。シンジの言う通り、もう時間がなかった。モニター上のカウントダウンは残り40秒を切っていた。
 アスカもそれをわかっているのだろう、食い下がることはせずに前へと向き直った。
 
 「カグヤ、邪魔しないでよ」
 「もちろん」
 
 カグヤは操縦桿を握るアスカの手に、そっと自らの掌を重ねた。
 まるで全身の細胞一つ一つが、弐号機を通じてアスカのそれと呼び合っているような感覚を覚える。
 
 「「さぁ……心を一つに!!」」
 
 エヴァンゲリオン弐号機の瞳が、赤く輝いた。
 
 *   *   *   *   *   * 
 
 「シンジ、助けに来てくれてありがとう!」
 
 無事使徒を倒し、新横須賀の港に到着した後、カグヤは弐号機から降りるなりシンジの元に駆け寄った。シンジは照れ臭そうに頭を掻いている。アスカはと言えば、カグヤの後ろをむくれ顔でついてきていた。
 
 「トウジ達と遊んでたら、父さんから直接電話がかかってきたんだ。新横須賀で弐号機が戦ってるから、救援に向かえって。間に合って良かったよ」
 「本当に助かったよ。シンジ、紹介するね。彼女はエヴァ弐号機のパイロット、惣流・アスカ・ラングレー。アスカ、こちらは……」
 「ふん、あんたがサードチルドレンね」
 
 カグヤの紹介も待たず、アスカはツカツカとシンジに詰め寄った。彼女の性格からして、自分がピンチに陥り、まして他人にそれを助けてもらったというのがよほど気に食わないのだろう。
 アスカの性格を知らないシンジは、なぜ自分がここまでの敵意を向けられているのかわからない、とでも言いたげに首を傾げていた。
 
 「そうだけど……」
 「いい、今回はあんたに貸しを作ったけど、本来の弐号機の実力はこんなもんじゃないのよ! 今回はたまたまポンコツカグヤと二人乗りしてたからこうなったのであって、次はあたし一人で使徒に勝ってみせるんだから! あんたの出る幕なんてどこにも、…………」
 「アスカ!?」
 
 勢いよく捲し立てていたアスカは、急に糸が切れたかのようにふらりとよろめいた。戦闘での負傷が響いているのだ。慌ててカグヤは手を出したが、その前にシンジがアスカをその身で抱きとめた。
 
 「大丈夫!?」
 
 透けるように白いアスカの瞼がぴくりと動き、青い瞳がシンジの姿を映した。
 その途端、病人のように青白かったアスカの頰が、真っ赤に色付いた。
 
 「っだぁああああ!!!」
 「アスカ、どうしたの?」
 
 バネのように身を起こしたアスカは、一瞬でシンジから飛び退いた。再び倒れてしまわないようにと、その肩をカグヤが支える。
 シンジはアスカを抱きとめていた体制のまま、呆然と彼女を見つめていた。
 
 「あんた何考えてんのよ! 乙女の体に触るなんて、信じらんない! サイッテー!」
 「はぁ!? そっちが倒れてきたから受け止めただけじゃないか!」
 「たかが貧血なんて、あんたに受け止めてもらわなくたって平気よ! 余計なお世話だわ!」
 「助けてもらっておいてその言い草はないだろ!?」
 「うるさいわね! あんたの助けなんていらないって言ってるの!」
 「ああ……」
 
 カグヤは思わず嘆息した。
 アスカの性格には難があるとは常々思っていたものの、まさか来日早々シンジと喧嘩するとは思っても見なかった。しかもこれでは、喧嘩というよりアスカが一方的につっかかっているだけだ。
 
 「本当にこんなんでうまくやっていけるのかな……」
 
 自分が、ではなくアスカが、である。
 使徒を倒したという達成感も忘れ、カグヤはどっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。その日の晩、カグヤはいつもより早く、泥のような眠りについていた。
 
 *   *   *   *   *   *  
 
 うみは、きらい。
 
 どうして?
 
 うみをみてると、さみしくなるの。ひとりぼっちになったきがするの。
 
 そんなことはないさ。ママもパパも、こうして手を繋いでいるだろ? ずっと側にいるよ。
 
 ほんとに? ずっと、カグヤのそばにいてくれる?
 
 もちろん。ほら、約束だ。
 
 
 ——嘘つき!! ママの嘘つき!! ずっと側にいるって言ったくせに!! 約束してくれたくせに!!
 
 
 
 「はっ!!」
 
 心が張り裂けそうなほどの悲しみに襲われて、カグヤは咄嗟に目を覚ました。そして初めて、その悲しみは夢によってもたらされたのだということに気が付いた。
 眠っている間のものなのか、目尻を涙が伝っていた。それを拭おうとして、指に砂がついていることに気が付いた。
 ——砂?
 不思議に思い顔を上げると、そこは南極だった。
 
 「またか……」
 
 もう南極にいる夢を見るのには慣れていた。いつもと違うのは、カグヤが一人ぼっちだということだ。何かにせき立てられるようにしてカヲルの姿を探すと、彼は少し離れたところでカグヤに後ろ姿を向け、海に入っていこうとしていた。
 カグヤの手の届かないところに行こうとしていた。
 
 「カヲル!」
 
 血の気が引くほどの焦燥が、カグヤの心臓を突き刺した。
 
 「待って!」
 
 声が聞こえていないのか、彼は振り向かなかった。カグヤは裸足で白い砂を散らし、無我夢中で走った。赤い海水が足を濡らし、足首を包み、カグヤの行く手を阻んだ。バシャバシャと水を叩く音が無闇にやかましかった。
 
 「カヲル!!」
 
 何度か呼びかけると、カヲルはやっと気づいたのか、不思議そうにカグヤを振り返った。もっと沖に近いところにいるものだと錯覚していたが、実際には彼は膝が浸かるくらいの深さのところで、ただじっと立っていた。
 
 「カグヤ?」
 「はぁ、はぁ、やっと追いついた……」
 
 カヲルの元に辿り着き、カグヤはしばらく膝に手をついて息を整えるのに必死だった。たかが数十メートルを全力疾走しただけにしては、いやに息が上がっていて、心臓が早鐘を打ち続けていた。指先が凍りそうなほどに冷たかった。
 
 「心配、したんだから……」
 「ふふ、僕が溺れると思ったのかい?」
 
 顔を上げると、カヲルは悪戯をした子供のような顔でにこにこと笑っていた。その表情に、思わずカグヤは目を丸くした。
 
 (こんな顔、するんだ)
 
 初めて会った時や、その次に会った時に交わした会話の印象から、カグヤはなんとなくカヲルをレイと似たような人間だと捉えていた。レイがふらりと消えてしまいそうな儚さを持っているように、カヲルも目を離せばいなくなってしまいそうだった。だから海に入っていくカヲルを見つけた時、あれほど動揺したのだ。
 だが、今こうして笑っているカヲルを見ると、まるでレイとは似ても似つかなかった。人間離れした美しさや厭世的な雰囲気などはよく似ているのだが、その根底にある性質が違うように思われる。
 
 「どうしたの?」
 
 まじまじと顔を見つめられているのに気づいてか、カヲルが首を傾げた。
 
 「……いや、なんでもないよ」
 
 カグヤは上体を起こすと、わざとらしく溜息をついて、カヲルの手を掴んだ。
 今度はカヲルが目を丸くする番だった。
 
 「ほら、もう上がろう」
 「どうして?」
 「どうしてもだよ」
 「海が怖いから?」
 
 カグヤははっとして、掴んでいた手を離した。カヲルを見れば、にやにやとした笑みを浮かべるでもなく、ただじっとカグヤの反応を伺うかのように黙っている。
 それを見て、頭で何かを考えるより先に、かっと顔に血が上っていた。
 
 「……!」
 
 どうして海が嫌いなことを知っているのか。海が嫌いだとわかっていてこんなことをしたのか。
 一度に二つのことを尋ねようとした口が、上手く回らなかった。しばらく魚のように口をぱくぱくとさせ、出てきたのは先ほどより更に深い溜息だった。
 
 「私をからかったのか?」
 
 それでも、カヲルはいつものようにただ静かに微笑んでみせるだけだった。
 本当にからかったつもりだったのだろうか。人がこんなに心配したというのに。
 いよいよ頭に来て、カグヤはそっぽを向いた。
 
 「もう知らない! カヲルが本当に溺れても、助けてやらないから」
 
 そう言って足を踏み出したその時、背後で水が動く音がした。
 
 「嘘だ」
 
 背中に人の体温を感じる。胸と腹に、腕が巻きついている。
 抱きしめられているのだと気付くまでに、時間はかからなかった。そしてそれに気付いてすぐ、カグヤの顔が怒りとは異なる意味で赤くなった。
 
 (近い近い近い!)
 
 あまり他人との物理的接触を好まないカグヤにとって、他人が、しかも同年代の異性がこれほどの近距離にいるのは考えられないことだった。同性とでさえ、軽いボディータッチはあるもののなかなか抱き合うことまではしない。
 咄嗟に抜け出そうと藻搔いたカグヤの耳元に、カヲルが囁いた。
 
 「助けてやらないなんて嘘だ」
 「…………は?」
 
 ——カヲルの発言が、ではなく、私の発言が、嘘?
 混乱するカグヤの耳を、カヲルの言葉が蝕んだ。
 
 「助けない、なんて言いながらも、君は誰かが目の前で倒れていたら、手を差し伸べずにはいられない。そういう信念なんだろう」
 「……どうかな。それ以上ふざけたことしてると、本当に助けないかもよ……っ!」
 「僕は知りたいんだ」
 
 胸の辺りにあった手がするりと動いて、カグヤの顎を撫で、骨を捉えた。それは言外に、カグヤの反論を許さないことを物語っていた。反論だけでなく、この腕の拘束から逃げようとすることさえきっと許されないだろう。体を抑えられ、背後を取られ、本能がこの男への勝ち目はないと訴えていた。
 
 「……何を?」
 
 カグヤの背を、冷たい汗が伝った。
 
 「どうすれば、君の特別になれるのか」
 「特別?」
 「そう。僕にとっては、君は既に唯一の存在なんだ。でも君にとっては違う。君の心には僕の他にもたくさんの人がいて、僕はその中の一つ、ごく微小な存在に過ぎない。そしてきっと現実で目覚めた時、君は僕のことを覚えてすらいないだろう」
 「そんなことは……」
 
 ない、と言おうとしたが、できなかった。
 この夢を見ている時は、今までにも見たことがあるということを覚えている。カヲルと会ったことも、そこで何を話していたかもよく覚えている。
 だが、言われてみれば、起きている時にこの夢の内容を思い出せたことは一度もなかった。前回あれだけ長くカヲルと過ごした後でさえ、目覚めてからは夢を見ていたという意識すらなかったのだ。
 カグヤの胸に罪悪感が湧いた、その時だった。
 急にカヲルの纏う雰囲気が変わった。
 
 「だから、教えてほしいんだ」
 
 それはまるで秋波を送る美女のように艶やかでありながら、底知れぬ闇のような恐ろしさを湛えていた。
 今度は、何を、と聞くことすらできなかった。否、その続きを聞きたくないとさえ願った。
 しかし、神がその願いを聞き届けることはなかった。
 カヲルのほとんど吐息に近い声が、鼓膜を揺らした。
 
 
 「君が恐れるものはなに?」
 
 
  
 
 「あああぁっ!!!」
 
 カグヤは悲鳴をあげて飛び起きた。目覚めて目に入ったものが見慣れた自室の天井とベッドであることに、涙が出そうなほどの安堵が全身を包んだ。
 
 「ゆ、夢か……」
 
 そう呟いた直後、カグヤははっと口を抑えた。
 何の夢を見ていたのか、思い出せなかったのだ。
 悪夢の内容なんて早く忘れた方がいいに決まっている。だからこれほどまでに恐ろしかった夢の内容を思い出せないのは、願ってもないことのはずだった。思い出そうとする努力さえしないほうがいいだろう。
 それでも、カグヤの胸はなぜか罪悪感のようなものにギリギリと締め付けられていた。
 
 「また、忘れたのか……」
 
 恐怖でも安堵でもない不思議な涙が、カグヤの頰を伝った。