一度混ざった毒は取り除けない。
昼過ぎの空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。暖かな日差しが、レンガ造りの街並みに降り注ぐ。
「ん〜楽しかった!」
魔材屋から出たココは、上機嫌で紙袋を胸に抱いてくるりと回った。その愛らしい様子にキーフリーも目を細める。その腕にはココと同じように紙袋が抱えられていた。
第二の試験やら大講堂への招集やらで長いこと家を空けていたため、キーフリーはカルンの街に生活用品を買い出しに来ていた。ココはその手伝い兼、魔材屋の見物だ。大講堂でも様々な魔材が売られていたとはいえ、やはり馴染みの店のものは格別で、ココは満足げに鼻歌を歌いながらキーフリーの隣を歩く。
「平和だね」
キーフリーはしみじみと呟いた。ココもそうですねぇと頷く。これほど平穏という言葉が似合う光景もない。図書の塔での喧騒が嘘のようだ。
ずっとこうして、全て忘れていられたらどれだけ幸せだろう。
そんなことを考えて、キーフリーはそのくだらなさにふっと息を吐いた。
「そろそろ帰ろうか」
「はい!」
ココが幸福そうに微笑む。キーフリーも満たされた気持ちで、路地裏に足を踏み入れた。
それ以降の記憶がない。
キーフリーが目を覚ますと、そこはアトリエとは似ても似つかない一面真っ白な部屋だった。家具も窓も、不思議なことに光源すらもない。それなのに光が乱反射して妙に眩しかった。
「ここは……」
異常事態に目が冴える。
無意識のうちに腰下げベルトに手が伸びていたが、目的のものはなかった。ただ滑りの良い革の触感だけが伝わる。魔法使いの命と言って差し支えない魔墨とペンが抜き取られている——その事実に背筋が凍った。
警戒して周囲を見回すと、幸か不幸か、キーフリーの隣でよく見慣れた少女が眠っていた。白い世界の中で、彼女の若草色の髪だけがぼうっと浮いているかのようだ。境界を確かめるかのように髪を掬い上げて、その存在が幻でないことを確かめる。
ココがぴくりと身じろぎし、瞼が動いた。ゆっくりと開かれたペリドットの瞳がキーフリーを映す。たったそれだけのことなのに、キーフリーは自分が驚くほど安堵していることに気がついた。
「先生?」
ココは二、三度瞬きして目を擦り、上体を起こして部屋を見渡した。
「ここは?」
「どこだろう。僕も気づいたらここにいた」
「私達、カルンでお買い物してましたよね」
「そうだね」
ココは状況に困惑こそしているものの、心身共に特段の異常はなさそうだった。買い物をしていたという記憶からして、ココの皮を被った偽物という線も薄い。とりあえず目の前にいるのは本物のココだ。
状況を整理するために、キーフリーは息を吐く。確かに、自分はカルンの街にココと買い物に来ていたはずだった。そして帰ろうとして路地裏に踏み込んでから、ここに至るまでの記憶が一切ない。ということはやはり何か、かつて弟子達がされたのと同じように、体を直接転移させるような魔法を使われたのだろう。心当たりは一つしかなかった。
「つばあり帽の仕業か……」
その名を口にするだけで、キーフリーの心を暗い憎悪が襲った。雰囲気の変化を察知してか、ココが不安そうにキーフリーの袖を掴む。
「あの……私達、出られるんでしょうか」
「わからない。僕達以外には人の気配もないし、見ればわかるけど出口もない。部屋の狭さからして、おそらく人を閉じ込めるためだろうけど、何の為に……」
そこまで言って天井を見上げた時、キーフリーの体を猛烈な違和感が襲った。
僕はこの部屋を知っている。
正確には、この状況を知っている。
「うっ……!」
それを認知した途端、突き刺すような頭痛と激しい吐き気が込み上げてきた。急にこのどこまでも白い世界に押しつぶされそうな気がして、口元を押さえる。
この空間に対して体が拒絶反応を起こしているかのようだった。
全身から血の気が引いていく。もう無いはずの右目が疼くのを感じる。この部屋が自分の存在を消し去ろうとしているような恐怖に囚われる。
僕は何を恐れている?
そう自分に問いかけてみても、ただ肉体の苦しみの前に儚く消え去っていくだけだった。どんどん視界が狭く、白く、消し飛んでいく。
息が上がる。酸素が足りない。溺れて死んでしまいそうだ。
——あの時のように。
「はぁっ、はっ……!」
ぐらり、と。
倒れるようにバランスを崩したキーフリーの肩を、小さな手が支えた。
「……!」
彼方から声がする。最初は小さく、遠く、それが波のように段々と押し寄せてくる。
「……ぃ、先生……!」
「う……」
「先生、しっかりして!」
明瞭なその声は急速にキーフリーの意識を引き戻した。
「大丈夫ですか!?」
声のする方を見ると、木漏れ日のように鮮やかな黄緑が眼に飛び込んできた。ぼやけていた視界がピントを取り戻していく。
キーフリーは少女の名を呼んだ。
「っ……ココ……」
こくこく、と少女が泣きそうな眼をして何度も頷いた。
そうか、僕はもう一人ではないのか。
深い息を吐く。頭痛も吐き気も、狂いそうなほどの恐怖もどこかに霧散してしまった。代わりに、雪崩のような疲労感が押し寄せる。
しばらく座り込んで息を整えていると、脈拍も呼吸もすぐに落ち着いていった。一時的な恐慌状態だったのだろう、とキーフリーは分析する。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だから」
「良かった……」
キーフリーがそう言うと、ココは安心したように笑った。ぐすん、と鼻をすする音が聞こえる。その頭をぽんぽんと撫でて、キーフリーは立ち上がった。
この部屋から出る手段を見つけなければいけない。
まず部屋を物色することにした。壁も床も、ツルツルとした馴染みのない素材でできている。大理石などの自然物ではなさそうだ。注意深く壁面を触ってみたものの、凹みや継ぎ目のようなものは存在しない。そもそもこれが部屋と呼べるのかどうかも怪しくなってきた。空間の切れ端と言われた方がしっくりくるかもしれない。
「本当に真っ白で何もないですね」
困り顔でココが言う。まさしくその通りだった。部屋には壁と床と天井以外何もない。
これはまずい。じわじわとした焦りがキーフリーを蝕んだ。
この部屋には水も食料もない。キーフリーとココは文字通り身一つでこの部屋に放り出されている。もしここから脱出する手段が見つからないとなれば、待っているのは脱水と飢えによる死だ。
いざとなれば自分の体を捧げてでもココだけは……そうキーフリーが悲痛な覚悟を決めていた時だった。
突然、白い壁の一部分に色がついた。
その色はくっきりと平面的な像を形どり、やがて一人の男を映し出す。つばの広い帽子を被り、素顔のほとんどを影に隠している。その姿を見て、キーフリーは腹の底から怒りが湧き上がるのを感じた。
「つばあり帽……!」
「ごきげんよう、キーフリー、ココ。居心地はいかがかな」
「ここから出せ!」
叶うものなら確実に手が出ていた。行き場のない怒りを噛み締め、殺気のこもった声でキーフリーが怒鳴る。怖い怖い、とつばあり帽子を被った男がのんびりした声で笑い、キーフリーの神経を一層逆撫でした。
「安心してほしい。君たちは私の大事な実験道具だ。殺しはしない」
「実験?」
背後のココから声が上がる。その両手は不安そうにキーフリーのローブを握っていた。
「私は人の心に興味があるんだ」
そう語り出したつばあり帽の声は、不気味なほど静かで穏やかだった。
「出口のない真っ白な部屋に人を閉じ込めた時、人はどういう反応をするのか。一般的には錯乱する。君の反応には少々引っかかるところもあるが、まあお手本のようだったと言えよう」
「……じゃあこれでもう満足だろう。早く僕たちを解放しろ」
苦虫を噛み潰したような顔をしてキーフリーが言う。この男の話を聞けば聞くほど、腸が煮えくり返ってどうにかなりそうだった。
「まあそう焦らないでほしい。まだメインディッシュが残っている」
「そんな……」
まだこれ以上の試練があるとでも言うのだろうか。震える声で呟いたココの肩を抱き寄せ、キーフリーはつばあり帽を睨みつけた。
「一体何が目的なんだ。禁止魔法をこの場で書けば良いのか?」
「ありがたい申し出だが、それはまたの機会にしよう。私がなぜ“君達”を選んだのか? それは君達二人の間の強い絆に興味があったからだ。どうも君達の関係性には、師弟としての絆以上のものを感じる。運命か、宿命か……はたまた偶然かはわからないが」
ココがキーフリーを見上げる。その視線をキーフリーは黙って頰に感じていた。
そんなことはない、とは言えなかった。確かに自分は、境遇を同じくするココに特別な思い入れを抱いているかもしれない。しかしそれをこの男に言い当てられるのは非常に癪だった。
つばあり帽は両手を広げ、勿体ぶるように話し出した。
「師弟の絆は美しいね。私は美しいものが好きだ。その純粋な結び付きに、人間の欲の醜さが入り混じり、汚れていくのもまた趣深いものだ」
「何が言いたい……!」
男の絡みつくような口調に言わんとしていることの見当がつき、キーフリーの体を激しい緊張が包んだ。もし想像していることが当たっているならば、それは絶望でしかなかった。男の帽子のつばが動き、口元がうっすらと見えるのを、キーフリーは半ば逃げ出したい気持ちで見つめている。
そして、男の死刑宣告が耳に届いた。
「ここから出してほしければ——」
男が次の言葉を言うより早く、キーフリーはココの耳を塞いだ。ココが腕の中でもがいているが、その拘束を外すわけにはいかなかった。突然の行動に、ココが困惑しきった声を上げる。
「せ、先生……!?」
「正気か!? 僕達にそんなことをさせて、お前に何の得がある!」
「言っただろう、私は美しいものが好きなんだ。これほど強い絆で結ばれている君達が“師弟”でなくなる瞬間など、この世のどんな宝石よりも美しいだろう」
「悪趣味な……!」
キーフリーが吐き捨てるように呟くと、腕の中で小さな悲鳴が上がった。どうやら耳を塞ぐ力が強すぎたらしい。慌ててぱっと手を離すと、ココが少し恨みがましそうな目でこちらを見上げてきた。
いつもならその目を素直に見返すことができるのに、今は見られそうもない。その様子の変化を察知してか、ココがまた不安そうな顔をして、つばあり帽に向き直る。
「先生に何を言ったんですか……?」
「ココ、ダメだ。君は知らなくていい」
「やれやれ、君の先生は頑固だね。……今言ったことがどうしてもできないのなら」
まるで駄駄を捏ねる子供を相手にしているような、呆れの混ざった口調でつばあり帽が言う。今度はキーフリーも耳を塞がなかった。
「相手を殺せば出られるようにしてあげよう」
ココがひゅっと息を飲む音が聞こえた。彼女の体が崩れ落ちそうになるのを支え、キーフリーは男を睨みつける。
「……そんなことは絶対にさせない」
「それは良かった。私も君達をこんなところで殺してしまうのは本意ではないのでね。それでは」
ふっと無音を立てて映像が途切れる。不安に怯えるココと、絶望に黙り込むキーフリーだけがその空間にぽつんと取り残された。
痛いほどの静けさが沈殿している。
「ここから出るには何をすればいいんですか?」
立ったままおし黙るキーフリーに、ココはそう問いかけた。
つばあり帽が最初に告げた要求は、キーフリーが咄嗟にココの耳を塞いだせいで全く聞き取れなかった。その後の彼の動揺ぶりからして、相当に無茶な要求を突きつけられたのだろう。もしかしたら、ここを出る頃には自分の手足が一本ぐらい無くなっているかもしれない。
それでもココは構わなかった。どんな苦痛でも、師と共にこの空間から生きて出るためなら喜んで受け止めるつもりだった。この先に待ち受ける苦難よりも、今のキーフリーが一人で悩み苦しんでいることの方がココには辛かった。
「図書の塔で私、言いましたよね。私が正解の魔法を書いた時には、先生に隣で見ていてほしいって」
「……うん」
微かな声でキーフリーが頷いた。その瞳は苦しげに閉じられている。
ココは祈るような気持ちで続けた。
「私、先生と一緒にこの部屋から出るためならなんでもします。どんなに痛くても、苦しくても、我慢します。だから、その出る方法を試しましょう。……それとも」
自分が師を殺すことなどありえない。
ココは胸元のローブを握りしめ、ほとんど呻くような声で言った。
「私を殺しますか」
「っ、そんなことするわけないだろう!」
悲痛な声とともに、キーフリーがココの両肩を強く掴んだ。つばあり帽との会話以来、初めて視線が合う。その瞬間、ココは息を呑んだ。
師は今までで見た中で一番辛く、悲しそうな顔をしていた。
「僕が……僕が嫌なんだ。君を傷つけたくない。今だけじゃない、これからもずっとその傷は君を苦しめる。君を傷つけるくらいなら死んだ方がマシだ」
「そんなこと言わないでください!」
今度はココが悲鳴をあげる番だった。本人の言う通り、ココを助けるためならばキーフリーは自死さえ厭わないだろうという予感がココにはあった。それだけはどうしても避けたかった。
「傷なんかじゃない! 先生になら私、何をされても……」
「君は僕の光なんだ」
「え……?」
キーフリーの唐突な言葉に、ココは思わず黙り込んだ。
「つばあり帽に全てを奪われたあの日、“僕”は死んだ。右目も、過去も、そして希望も失った。僕はずっと、死にながら生きていた。海の底で、溺れるようにして」
その目はどこか遠くを、過ぎた地獄を見つめているようだった。ココもそっと目を伏せる。
ベルダルートから粗方の内容を聞いたとはいえ、実際に本人の口から過去を語られると、ココは胸が張り裂けるような息苦しさを感じた。
「でも……君が現れた。君は僕の過去への手がかりだ。それだけじゃない……僕の現在の苦しみへの救済、希望ある未来への道標でもある。君の存在は僕にとっての光、やっと現れた希望なんだ。だからこそ……君から輝きが失われるなんてあってはならない。ましてや、君に最も救われている僕が、その輝きを奪うなど」
「せ、先生……」
どんどん暗くなるキーフリーの口調とは対照的に、ココの気分はどんどん明るく、力強く、そして勇気を漲らせていった。
ああ、私、先生の役に立ってるんだ。
キーフリーはいつでもココに希望と勇気を与えてくれた。ココの道を照らし続けてくれた。そんな師が、自分の存在によって救われている。ココにとってこれほど嬉しい言葉はなかった。その言葉さえあれば、ココはどんな想像を絶する苦しみにも果敢に飛び込んでいけるという確信があった。
「大丈夫です!」
ココはキーフリーの手を両手で握った。その声の力強さに、キーフリーが目を丸くしてココを見つめる。
「私は……私は絶対に負けません! たとえ腕を切り落とされたとしても、それでもまた笑ってみせます。ずっと貴方の光であり続けます! だから……だから、出ましょう。二人で、一緒に」
「ココ……」
互いの視線が交わった。しばらく二人は無言で見つめあっていたが、やがてキーフリーが視線を外し、深い溜息をついた。
「本当に、いいんだね」
「もちろんです」
食い気味にそう答えると、力が抜けたような顔をしてキーフリーがふっと微笑んだ。
良かった、これで二人でここから出られる。
ココがほっと胸を撫で下ろしていると、キーフリーがもう一度ココの肩に手を置いた。真剣な眼差しがココを貫く。
「わかった。僕が全て責任を取る。だから……」
「……はい」
ごくり、と唾を飲む。
とうとうこの時が来た。
ココは神妙に頷くと、奥歯を噛み締め、震えが出ないよう全身に力を込めながら二、三歩後ずさった。
「……え?」
「さぁ、どうぞ」
震える声でそう言い、その場で大きく四肢を広げた。
どれくらい痛いんだろう。自分の耳に入れることすら戸惑われるほどの苦痛だ、きっと言葉にするだけでもおぞましいに違いない。
恐怖に膝が崩れ落ちそうになるのを、ココは必死でこらえて立っていた。
「ひ……一思いにやってください!」
今にも悲鳴をあげるほどの痛みがその身に降りかかることを想像し、ココは身を固くしてぐっと俯いた。腕か足かそれとも爪か、どこかはわからないがどうか痛みが一瞬で終わってほしい。
しかし、降ってきたのは痛みではなく、キーフリーの笑い声だった。
「っふ、あはははは!」
「……?」
予想していた痛みは来ない。おずおずとキーフリーを見上げると、その手には何の刃物も鈍器も握られていなかった。
痛いことをするんじゃないの?
当惑しているココをよそに、キーフリーはおかしさを堪え切れないという風に笑った後、ココに近づいてその頭を撫でた。
「ふふ、そういう痛みではないかな」
「えっ?」
ふわ、とココの体が軽々抱き上げられる。その状態でキーフリーは数歩歩き、壁に背をつけて座り込んだ。彼の膝の上で、ココは正面を向いて向かい合う姿勢になる。この姿勢では特に痛いことはできそうにない。
何をするつもりなんだろう?
ココは表情の読み取れないキーフリーの顔を見つめた。
「これじゃあ何もできないですよ?」
「うーん、どうかなぁ」
そう言いながらキーフリーはばさりとマントを広げ、ココと自分の体を覆い隠した。安心感が強まる代わりにますます可動範囲が狭くなり、もしかしたら痛いことはされないかもしれないという期待が芽生えそうになる。
「これで見えないだろう」
「あの……?」
「いいかい、ココ」
キーフリーが真っ直ぐココを見つめた。先ほどと同じ真剣な目に、ココは口を噤んで次の言葉を待つ。
「少しでも嫌だと思ったら抵抗するんだ。いいね」
「は、はい」
ココはごくりと唾を飲んだ。
これから何をされるのかはわからない。だが、師と一緒にここから出るためならなんでもすると誓ったし、実際その覚悟は十二分にあった。何をされるかという想定が違っただけだ。
不安と緊張で胸が高鳴る。それを宥めるかのように、キーフリーの温かい手がココの頰に伸ばされた。目と目が合い、まろやかな沈黙が漂う。なんだか時が止まったかのようだった。
「……ずるい大人で、ごめんね」
その真意を聞く前に、ココの唇にキーフリーのそれが重なった。
胸元にもたれかかって安らかな寝息を立てているココの姿は、年相応の少女らしさを感じさせた。側から見れば、遊び疲れた子供が保護者に抱かれて眠っているようにも見えるだろう。
キーフリーはココの項に顔を寄せ、溜息をつく。息を吸うと彼女の甘い匂いが鼻腔をついた。胸に広がっていく空虚さを埋めるように、息を吸っては吐き、ココで肺を満たしていく。思いがけず訪れた安堵と幸福で緊張が緩み、自然と瞼が下がっていった。
こうしてココを抱きしめて二人でくっ付いていると、外の世界からどこまでも隔絶されたような気持ちになる。まるで白い棺桶に入ったみたいだ。そう、棺桶……
「あぁ、そうか」
この部屋に入った時なぜあんなにも嫌な気持ちになったのか、今になってようやく理解した。自分が“死んだ”時のことを思い出すからだ。キーフリーは天井という名の棺桶の蓋を見上げる。
昔自分が入った棺の方が何倍も狭かったが、この閉塞感は間違いなく同じものだった。あの時何を感じていたのかは思い出せない。心が壊れないように、本能的に封じ込めているのかもしれない。先程取り乱したのはそれを思い出しそうになったから、と考えると納得がいく。
だが、今再びこの部屋の天井を見上げても、もう息は上がらなかった。凪いだ水面のように穏やかな気持ちだ。ココを抱いたからなのだろうか。疲れ切って未だ目を覚まさないココの頭を撫でる。
しばらくそうして微睡んでいると、再び空間が歪む音がして、対面の白い壁に目玉の男が映し出された。キーフリーの筋肉に緊張が走り、ココを抱きしめる腕が固くなる。しかし先ほどのように激しい敵意を剥き出しにすることはしなかった。そんな気分でもなかった。
「おや、随分落ち着いたね」
「……これで満足か?」
「そうだね。想定以上だ」
つばあり帽の満足したような笑い声が聞こえる。こっちは否応なしに彼に服従させられたというのに、怒りで頭がどうにかなりそうだった。キーフリーは壁の奥に映る男を眼光で射殺せる程に強く睨みつけたが、それすら意に介さず、なおもつばあり帽は楽しそうに続けた。
「光か。言い得て妙だね。生きていくのに必要不可欠であり、失われれば人は狂う」
「聞いていたのか。どこまでも悪趣味だな」
「こんな実験ができることもそうそう無いからね。これから君達の関係がどう変化していくのかが楽しみだ。もはや君が、そう簡単にあの子を手放せるとは思えない」
「もう喋るな」
これ以上男に語らせると何か自分の中の恐ろしいものが露わになってしまう気がして、キーフリーは反射的に叫んだ。胸に一瞬恐れのような感情が去来したかと思うと、それは瞬く間に不快さへと色を変える。つばあり帽には尋ねたいことが山程あったが、もう今はこれ以上話す気にもなれなかった。
「ふふ、癇性なことだ。さて……これ以上君たちを閉じ込めておく意味はない。解放するとしようか」
つばあり帽が手を叩くと、ビシッと大きな音がして白い空間に亀裂が走った。その音に目を覚ましたココが、腕の中で身を強張らせる。
亀裂はどんどん細かく広がっていき、まるでガラスの箱が割れるかのように部屋全体が砕け散った。崩壊する世界から守るように、ココをきつく抱え込む。ココもぎゅっとキーフリーのローブを握りしめた。
「……ここは」
潮風と食事の匂いが鼻に届いた。閉じていた目を開くと、白一色に慣れた目に、レンガや木々や空の様々な色彩が飛び込んでくる。そこは元いたカルンの街の路地裏だった。
ドサッ、と音がして魔材屋の紙袋が足元に落ちる。2人の帽子が傍に転がっていた。
「カルンだ!」
キーフリーの腕の中から抜け出たココが、きょろきょろと周囲を確認した。
「よ、よかった……帰ってこれた……」
ココが安心してその場にへたり込む。その光景を見て、先ほどの一連の流れは白昼夢ではなく現実だったのだとキーフリーは改めて理解した。安堵のような、落胆のような、何とも言えない苦い感情が広がっていく。その苦さを喉奥に押し込んで、キーフリーは溜息をついた。
「本当に……生きて帰ってこれて良かったよ」
つばあり帽の命令次第ではどちらかが死ぬことも十分にありえた。両方死んでいた可能性もある。失ったものもあるとは言え、あの場から2人揃って生還できたのは奇跡に近かった。
ローブの埃を払いながら、ざっと周囲を確認する。路地裏の壁全体に目を凝らしてみたものの、特に魔法陣のようなものは見当たらなかった。こちらが魔法陣を破ったのではなく、術者が自ら魔法を解除している以上、魔法陣ごと消去されている可能性が高かった。
禁止魔法の痕跡がないことを確認し、さぁ帰ろうとキーフリーが荷物を拾い上げたその時だった。
「先生」
くい、とココがキーフリーの袖を引っ張る。
思わずキーフリーは息を止めた。
「あの……このことは二人の秘密にしてください」
ココが顔を赤らめて目をそらす。その姿を見て、キーフリーの脳裏に先程の情事の光景が鮮明に蘇った。
ああ、と心の中で嘆息する。つばあり帽の男が言っていた言葉の意味が、じわじわと毒のように沁み込んでいく。
純粋で美しかったはずの僕達の絆が、汚い大人の欲によって濁っていく。
せめて表面だけは美しく取り繕っていたくて、キーフリーは薄い笑みを浮かべた。
「……もちろん」
言うわけがない。言えるわけがない。
胸の奥に芽生えたどす黒い感情を、キーフリーは奥歯で噛み潰した。