ココのクリスマス

 夜のアトリエに暖炉の爆ぜる音がする。食事を終えて二時間ほどが過ぎ、リビングに残っているのはキーフリーとココだけだった。他のアトリエの面々は自室に戻っている。大方、魔法の練習をするか、数日後のクリスマスに向けてサンタへの手紙を書いているところだろう。
 ココは珍しく魔法の練習から離れて、リビングのソファから雪の降る窓の外を見ていた。外は暗くて、窓ガラスにはほとんどリビングの景色しか写っていない。雪の白さだけがぼんやりと浮いている。
 アトリエには魔法でささやかな飾り付けが施されていた。その中にはリチェの水晶リボンや、テティアの雲の魔法も含まれている。アガットが作ったクリスマスリースはアトリエの玄関に飾られている。ココが飾ったクリスマスツリーの星が、暖炉の炎の光を受けてちらちらと淡い輝きを放っていた。
 ココはため息を吐いた。ガラス窓が曇る。
 「寒くない?」
 頭上から声が降ってきた。見上げると、キーフリーが湯気の出るマグカップを持ってココの目の前に立っている。
 「あ……先生」
 いい匂いがして、ココはくんくんと鼻を鳴らした。
 「コーヒーですか?」
 「うん。ココはホットミルクね」
 「ありがとうございます」
 ホットミルクの入ったマグカップがココの目の前に置かれる。キーフリーはココの隣に腰掛けて、コーヒーに口をつけた。ココもホットミルクを飲む。ほのかに甘い味がして、気づかぬうちに冷えていた体がじんわりと温まっていった。ほぅ、と息を吐く。
 暖かさを味わうような沈黙が広がっていたが、やがてキーフリーが切り出した。
 「もうすぐクリスマスだね。ココは何か欲しいものとかある?」
 その言葉に、ココはふと視線を落とした。
 (私の、欲しいもの……)
 魔墨、魔材、魔円手帳……ココの憧れるものはたくさんあった。可愛い服や靴もほしいし、この魔法世界のことを記している本ももっと読みたい。
 (だけど……)
 それらのものに囲まれている自分を想像しても、ココはぴんと来なかった。どんな金銀財宝を手にしても、その中で自分が満面の笑みを浮かべるはずがないだろう。
 ココは目を閉じた。思い出すのは去年のクリスマス、つまりまだココが“知らざる者”だった時のことだった。
 
 
 貴婦人たちがクリスマス用のドレスに使う布地を買いに来るため、クリスマス前の仕立て屋はいつも人でごった返していた。母親とココの二人だけでは人手が足りず、この時期だけ村の大人達にも雑用を手伝ってもらっていた。
 数週間前には目の回るような混雑だった仕立て屋も、クリスマスが近づくにつれ客の入りはだんだんと落ち着いていき、当日には誰も来なくなる。多くの布地がはけていき、店内の赤や緑、白といった鮮やかな色合いが消えていく。そうして物も人も少なくなった仕立て屋に、母親が満面の笑みを浮かべて帰ってくる。
 「ココ! ケーキ買ってきたわよ!」
 その声が、ココにとってのクリスマスを告げる鐘だった。ココは店の片付けを終え、目を輝かせて母親の元へ駆け寄る。
 「今年も手伝ってくれてありがとうね、ココ。さぁ、今夜はご馳走よ。食べましょう」
 「うん!」
 テーブルの上には一年で今日この日にしか食べられないような料理がたくさん並ぶ。全て母親の手作りだった。「こんなにいっぱい食べきれるかなぁ?」ココは笑いながら言う。そう言って毎年デザートまできっちり完食し、はち切れそうな胃を抱えて笑い合うのが常だった。
 ココにとってクリスマスは特別だった。クリスマスのプレゼントという洒落た文化はなかったが、仕事をめいいっぱい頑張った後に、母親と笑いながら囲む食卓が好きだった。魔法を見ている時と同じぐらい、心が温かくなる瞬間だった。
 
 
 今、母親は寒い冬の外でひとりきりだ。ココの魔法で石にされた母親は凍りそうなほど冷たくなっているだろう。雪が積もるような地域ではなかったが、それでも冬は冷えた。今の母親はもう何も思うことがないとはわかっているのに、ココは荊の奥でひとり佇む母親がどんなに寂しいことだろうと思わずにはいられなかった。
 
 
 「……ココ」
 
 キーフリーの言葉で急速に意識が引き戻された。頰に冷たいものが流れ、それが涙だと認識すると同時に、キーフリーがココの涙を拭った。
 「あ、ごめんなさい、私……」
 「お母さんのこと、考えてたの?」
 まるで心を見透かしたかのようなキーフリーの言葉に、ココはぎゅっと唇を噛む。気を緩めれば涙が溢れてしまいそうで、はいともいいえとも言いがたくて、悲しい気持ちを押し流そうとホットミルクを飲み込んだ。
 「……胸が、苦しいんです」
 ミルクを飲んだ後の暖かい吐息を吐き出しながら、ココは呟いた。暖炉の炎がぼんやりゆらめいている。
 「お母さん、寒そうだなって……寂しくないかな……いつもクリスマスは一緒だったのに、私が、私が……」
 それ以降は続かなかった。
 まるで心臓を紐で縛られたかのように苦しくなって、ココは言葉に詰まった。言葉の代わりに、大粒の涙が溢れてココのスカートに落ちていった。拭っても拭っても視界はより一層滲むばかりだ。横隔膜が痙攣して、ひっ、という布を裂くのにも似た音が口から漏れる。
 「ココ」
 そう呼ばれると同時に、隣でキーフリーが動く気配がして、ココは顔を上げた。
 急に視界が黒くなって、ココの鼻腔がキーフリーの匂いで埋まった。どくん、どくんと穏やかな鼓動が聞こえて、ココの全身にキーフリーの体温が伝わった。
 抱きしめられている、と気づくのに時間はかからなかった。視界が黒いのはキーフリーの服だ。
 「大丈夫だよ」
 優しくて力強い声が降ってくる。
 「大丈夫」
 ココは目を丸くして師を見上げた。キーフリーが穏やかな顔でココのことを見下ろしていた。
 あのね、と彼は続ける。
 「お母さんのことを忘れないのも大事だけど、僕はそれ以上に、君にこの魔法の世界の素晴らしさをもっともっと知ってほしいと思ってる。自分の気持ちに素直になって、色んなことを吸収して育ってほしい。楽しいこと、嬉しいことを大事にしてほしい。そうすればきっと、君が求める答えに近づけるから」
 
 からん、と。ココの氷が溶ける音がした。
 ずっと母親のことを気にしていた。心のどこかで、母親を石に変えておいて、自分だけがアトリエでのうのうと楽しんでいる、と責める声がしていた。その声は次第に強くなっていて、悪夢を見る頻度も増えていた。
 (そっか……)
 ココは目を閉じる。楽しんでいい、その言葉を心の中で唱えた。胸の中に透き通った風が入り込んでいく。久々に息を吸ったかのような不思議な気分だった。心の底から自然と笑顔が浮かんでくる。笑ってももう心は痛まなかった。
 「……はい!」
 そう言ってキーフリーを見上げると、彼も安心したような、眩しそうな笑みを浮かべていた。
 「うん、ココには笑ってる顔が似合うよ」
 師にぽんぽんと頭を撫でられる。頰が自然と赤らんでいくのを感じて、ココは照れ混じりに微笑んだ。
 (笑っていいんだ)
 先ほどまでの暗い気分が嘘のように、心の中が暖かい。
 ココはキーフリーの腕の中から離れ、キーフリーに向き直った。
 「……キーフリー先生、ありがとうございます」
 「ううん。ココが元気になって良かった」
 キーフリーがコーヒーカップを手に取ったので、ココもホットミルクを飲む。魔法のおかげで冷めることのないミルクの水面を見つめながら、ココは呟いた。
 「先生は、本当に魔法使いなんですね」
 「どうして?」
 師が笑う。
 「だって……」
 ココは続けた。
 「私が困ってる時、辛い時、いつも先生が助けてくれる。先生の言葉が、私のランプになって、道を照らしてくれてる。先生は、言葉にも魔法をかけられるんですね」
 言い終えてからしばらく反応がないことに気づき、ココは何か変なことを言っただろうかとキーフリーを見上げた。
 「……先生?」
 彼はコーヒーカップを手に持ったまま固まっていたが、ココの視線に気づくと、ありがとう、と言って小さく微笑んだ。カップをテーブルに置き、「僕もね」と続ける。
 「僕も、ココには助けられているんだよ。僕だけじゃない。他の子にもココは良い影響をいっぱい与えてる。だから、僕もみんなも、ココの力になりたいって思ってるんだ」
 「本当ですか!? 私、みんなの役に立ててますか!?」
 「うん、本当」
 ココは嬉しくて、少し照れくさいような気もして、満面の笑みを浮かべた。今の自分を鏡で見たら、全身から嬉しいオーラが漂っているに違いなかった。
 そんなココを見てキーフリーも目を細めていたが、時計を確認すると「おや」と声を上げた。
 「もうこんな時間だ。良い子は寝る時間だよ」
 時計を見るともう夜中にさしかかっている頃合いだった。ココは元気よく返事をして、ソファから立ち上がる。
 「おやすみなさい、キーフリー先生」
 「おやすみ、ココ。いい夢を」
 今夜はきっとぐっすり眠れるだろう、とココは思った。寝室へと向かう足取りは軽やかだった。