生まれた時から当たり前のように体操選手になる夢を持たされていた俺は、物心付く前から当然のように体操を習わされていた。
その体操教室に、あの子がいた。
俺と同じ育成コースに通っていたあの子は、年齢も通う幼稚園も違ったが、教室で毎日顔を突き合わせているせいで自然と仲良くなった。「うらみちくん、うらみちくん」と何かあるごとにすぐ寄ってくる彼女に、幼いながらに男心が刺激されていたのかもしれない。
あの子を見ている時の感情は、妹を見ている時と似ているようでちょっと違った。その違いをうまく理解することもできないくらいの初恋だった。
あの子は死ぬほど楽しそうに体操をやっていた。
幼児の体操とはいえ、育成コースだからやっていることはそれなりの難易度だし、もちろん辛いことも多々あるのだが、彼女は何をやっていても楽しそうだった。「もっと真剣にやれ」とよく怒るコーチでさえ、彼女に対しては毒気を抜かれたような笑顔で接していた。
マット運動、跳び箱、鉄棒、トランポリン。退屈な筋力トレーニングや、苦痛しかない柔軟でさえ、彼女にかかれば楽しい遊びの一つになる。
俺だって、体操は嫌いではなかった。ただ、彼女のようにまっすぐに好きだと言うには、俺にとって体操は重すぎた。
俺にとって、体操は文字通り”全て”だった。
なのに、あの子にとっては、ただの”好きなこと”の一つに過ぎないんだ。
たまにそれが憎たらしくてたまらなくなる時があって、わざとあの子を無視したりした。そんな時、彼女は決まってこの世の終わりみたいな顔をして、俺の周りを落ち着きなくうろちょろと駆け回るのだ。幼いあの子に俺の鬱屈とした気持ちがわかるわけもなく、ただ置いていかれた犬みたいな顔で俺の周りをうろついて、その顔を見ると俺はなぜか無性に泣きたくなった。
子供同士が仲が良いので、親同士もそれなりに交流があった。
ある日、教室が休みの日に、俺と母親が揃ってあの子の家へ招かれたことがあった。特に豪邸というわけでもない普通の戸建てだったが、玄関先のプランターに花が咲いていて、女の子の家なんだとしみじみ感じたのを覚えている。
休日のあの子は動きにくそうなスカートをはいていた。
母親同士がリビングで談笑している間、俺はあの子に手を引かれて家を案内されていた。ここはパパのへや、ここはねるへや、ここはわたしのへや。
「うらみちくん、なにしてあそぶ?」
おもちゃ箱を引っ張り出しながら、輝きに満ちた目で聞いてくるあの子に、俺はきょろきょろと首を動かしながら尋ねた。
「たいそうのへやは?」
「え?」
「どこでれんしゅうしてるの?」
俺の家にある体操の部屋が、あの子の家にはなかった。それどころか、自宅用の鉄棒もトランポリンもマットも、倒立ができそうな広い壁とスペースも、家中のどこにもなかった。
あの子は怪訝そうな顔をしていた。
「おうちではれんしゅうしないよ?」
「え?」
「だってきょうしつでれんしゅうしてるもん」
俺は、その言葉が信じられなかった。
彼女は練習してないのか? 嘘だろ。俺は教室が終わって家に帰っても毎日毎日、暇さえあればずっと練習してるのに。
こんなおもちゃなんて一回も買ってもらったことないし、体操選手にはこんなものいらないんだって言い聞かされてきたのに。ちょっとでも練習を嫌がると、怒った父さんにマットに投げ飛ばされるのに。
そう言うと、あの子は怯えたような顔をした。
「うらみちくんのパパ、そんなことするの? うちのパパはそんなことしないよ」
「うそだ」
「ほんとだよ」
「うそだ!」
俺は気分が悪くなってくるのを感じた。
俺の家がおかしいのか? 普通の父親は、体操サボったからって子供をマットに投げたりしないのか? 普通の母親は、子供に好きなおもちゃを買ってやるものなのか?
違う、そんなことない。
俺がおかしいんじゃない。あの子がおかしいだけなんだ。
育成コースにいるのなら、辛い練習を頑張らなきゃいけないんだ。失敗してもあんなふうにへらへら笑ってるのはおかしいんだ。休みの日に練習しないこいつが悪いんだ。
それは、彼女に対する憎しみが爆発した瞬間だった。
俺はあの子の両肩を掴んで、無理やり引っ張り立たせていた。
「ほら、たて! いますぐれんしゅうするぞ!」
立たされた彼女は一瞬動揺を浮かべたが、すぐに嫌そうな顔をした。その甘えた顔と態度に、ますます苛立ちがつのっていく。
「えぇ、でもせっかくあそびにきたのに……」
「いいから、れんしゅうするんだよ!」
「いや! あそぶの!」
俺の右腕に力が入る。暴れたあの子がバランスを崩す。
気づけば、彼女の体がピンクのカーペットの上に転がっていた。
「うぅっ、うぇえーん」
あの子が泣きだして、俺はようやく自分のやったことを理解した。
俺は父さんと同じことをやったんだ。
その時、比喩ではなく、本当に世界が暗くなった。存在を押し潰してきそうなほどの大きな絶望に、俺も泣いた。謝ることができなかったというよりは、自分のしでかしたことがあまりにもショックすぎたのだ。
子供の泣き声を聞きつけて母親達がやってきても、あの子は一言も俺が悪いとは言わなかった。俺の沈み込んだ表情を見て母親達は何か感づいたかもしれないが、あの子もあの子の母親も、何も言わないままだった。
その事件があってからも、あの子は何事もなかったかのように体操教室にやってきたし、いつものように俺にまとわりついていた。ただ、俺の方はなんとなく応対がぎこちなくなった。
練習が終わり、母親の迎えを待つ間。あの子にもらったバレンタインチョコのお返しを、あの子の隣で考えている時に、その知らせは降ってきた。
「ひっこし?」
「うん」
あの子は感情のわからない顔でそう言った。
父親の仕事の都合で、進学を機に引っ越すことになったらしい。それは国内ではあったが、幼い俺でもわかるくらいに遠い場所で、「引っ越してもこの教室には通えるだろうか」という俺の期待を一瞬にして木っ端微塵に打ち砕いた。
教室からあの子がいなくなる。
それを想像するだけで、やる気や活力や情熱といったものがみるみる奪われていくのを感じた。体操はチームスポーツではないのだから、女子一人が去ったところで俺の体操人生には何の影響もないはずだったが、一人で鉄棒を回っている俺が酷く虚しい人間のように思えた。
急に、俺も体操をやめたくなった。
そんなことを言ったところで父親に殴られるのがオチだし、その頃には俺もそんな馬鹿げたことは言い出さないほどの分別を持っていた。ただ、人生の全てとも言えるはずの体操を、心底やめたくなったのは事実だった。
その日から、俺は眠るのが怖くなった。寝ると一日が終わってしまう。あの子が教室をやめる日が近づいてしまう。
教室に行く度に、あの子と体操ができるのは後何回だと数えるようになってしまって、片手の指で収まる頃には彼女とうまく話せなくなった。そのくせ彼女が別の友達と話していると猛烈に不機嫌になって、競技の調子もコーチに呆れられるほど最悪だった。
両親には「そんな調子でどうする」と怒られたが、その時の俺には何も響いてこなかった。俺が怒られるくらいであの子がずっと側にいてくれるなら、一生怒られたって良かった。
なのに、俺が恐れていたその光景は、驚くほどの勢いで現実になった。
ホワイトデー、それは奇しくもあの子が教室へ通う最後の日でもあった。いつもより寒々しい体操教室の玄関で、俺は「はい」というぶっきらぼうな言葉と共に、ホワイトデーのプレゼントを渡した。あまりにも悲しすぎて、彼女の姿さえまともに見られなかった。
あの子はプレゼントを受け取ると、潤んだ瞳でまっすぐ俺を見つめた。
「うらみちくん、たいそうがんばってね。それで、テレビにでてね。そしたら、ぜったいみるから」
「テレビ?」
テレビに出る体操選手と言えば、まずオリンピックの日本代表のことだろう。そう理解した俺は、「絶対にオリンピック選手になるんだ」という単純だが固い決意を抱き、そっと小指を差し出した。
「わかった、やくそくする」
「うん! ゆーびきーりげーんまーん……」
幼い体温が小指から離れていく。それでも、不思議と寂しさは湧かなかった。後部座席の窓に張り付いていつまでも手を振る彼女を、俺はまっすぐに見つめ返すことができた。
体操を頑張ろう。それで、オリンピックに出よう。
あの子が教室からいなくなっても、あの子との約束が俺を奮い立たせた。
いつしかあの子の存在は俺の中で薄くなっていって、俺が体操をやるのはあの子のためでもなく自分のためでもなく、何だかよくわからないもののためになっていった。結局、俺はオリンピック選手にはなれず、苦い挫折を飲み込んで、子供の時には想像もしなかったほどの平凡な人生に落ち着いている。
ただ、テレビに出る人にはなった。子供向けの教育番組だけど。
絶対見る、と言ってくれたあの子は見てくれているんだろうか。二十何年も前の約束だから覚えていないかもしれないけど、とりあえずどこかで元気にしてくれていればいいなと思う。
もっとも、こんなこと今の彼女には口が裂けても言えないが。
「どうかした?」
「いや、なんでも」
「そう?」
小首を傾げて、目の前の彼女が楽しそうににっこりと微笑む。
その顔がなぜかあの子と重なって、俺は瞬きを繰り返した。