キュートアグレッション

 彼女を見ていると、無性にムカつく時がある。
 
 そう言うと俺がDVを振るうクズ野郎のように聞こえてしまうかもしれないが、俺は決して愛する人に手を挙げるような真似はしていない。彼女の要領が悪いとか、あざといぶりっ子だとか、そんなこともない。
 イラッと来るんじゃなくて、ムカッと来るんだよな。
 それを以前熊谷にポロッと零したら、ドン引きされた上に「それはおかしいですよ」と冷静に諭されたので、どうやら俺が異常なだけらしい。
 
 どういう時にムカつくんだろう。考えてみたが、特に一定のタイミングはなかった。
 
 
 
 例えば、仕事から帰ってきた俺を出迎えてくれる時。
 
 「おかえりなさ〜い」
 
 玄関を開けると、明かりがついている。そのことに俺は未だ慣れない。収録で疲れ切り、眩しさを調節する機能が死んでいる俺は、薄目になってどうにか彼女の姿を捉える。
 
 ――おたま、持ってる。あ、エプロン……
 
 何の変哲もない桃色無地のエプロンは、彼女が着ると途端に戦闘用スーツへと変貌する。柔らかそうな鼠径部から腹にかけてのライン。その上にはみっちり詰まった男の夢。
 そんな時、俺の感情はどうしようもなく騒ぎ出す。まるで蜂の巣をつついた時のように、わっと駆け回る感情の制御が覚束なくなる。今すぐ彼女をもみくちゃにして、穏やかな笑みを浮かべるその顔を、両手で力強くぺちゃっと挟み込んでしまいたい衝動に駆られる。
 それを一言で要約すれば、ムカついている、ということになるだろう。
 しばらく経って、俺がどうにか「ただいま」の一言を絞り出すと、「おかえり〜」と彼女が歌うように言う。それは二度目だ。
 靴を脱ぎながら、キッチンに戻っていく彼女の後ろ姿を見つめる。「今日の晩御飯は焼き魚だよ」と、言わずとも数分後にはわかっていそうなことをわざわざ報告する彼女の後をついていく。その頃にはあの衝動的なムカつきはすっかり鳴りを潜め、俺の心には彼女のいるこの平穏な暮らしへの感謝しか湧いてこなくなる。
 
 
 
 それから、晩飯を食って、二人で酒を飲みながらテレビを見ている時も、そのムカつきはやってくる。見るのは勿論、俺の出演している教育番組、ママンとトゥギャザーの録画だ。
 幼児向けの教育番組なのに、彼女は幼児よりも熱心に画面を見つめている。特に俺がメインで出てくる体操のシーンなんて、テレビに張り付くようにして見ている。隣に本物がいるというのに。
 そのあどけない横顔を見ていると、じんわりと染み入るような幸福感の後から、例のムカつきが追いついてくるのだ。まるで悪魔がひょっこりと顔を出すみたいに、俺の腹から攻撃性が湧き出てくる。
 
 目の前にテレビのリモコンがある。
 
 この電源ボタンを押せば、彼女はどんな顔をするだろう。テレビが壊れたのではなく、俺がテレビの電源を切った。それを見て、彼女はきっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして俺を見てくるに違いない。「なんで?」と。そしてその顔は、俺の心が死んでしまうくらいに可愛いんだろう。
 そう考えたら、指がムズムズしてきた。右手がテレビのリモコンに伸びそうになるのを、俺の頭の中の天使が必死に押さえつけている。「可哀想だからやめろ」と。そして悪魔が笑うのだ。「可哀想だからしたいんだ」と。
 俺がそんなことを考えているとは露ほども知らないまま、彼女は24分の傾聴を終えて満面の笑みを浮かべる。
 
 「今日もうらみちお兄さんかっこよかったね」
 
 そうか、良かったな。でもお前の目の前にいるお兄さんは、テレビの電源を切りたくて仕方なかったよ。
 
 
 
 後は、風呂から上がって、彼女がなんとなく赤い顔をしながらもじもじしている時とか。
 さっきまではくだらないバラエティー番組を見てけらけら笑っていたのに、俺が髪を乾かして隣に座ると、しきりに俺の方をちらちらと気にしてくる。飲み物を取ろうとちょっと動いただけで、彼女の気配が固くなるのがわかる。
 でかいフランスパンのクッションを抱きしめながら、耳を赤くしてこちらを窺ってくる彼女は犯罪級に可愛い。何を考えているのか、何を期待しているのか、手に取るようにわかってしまう。
 だから俺は、彼女の要望をすぐには叶えてあげない。
 カーペットに落ちてる埃をスペアテープで掃除したり、ちょっとした筋トレを始めたり、「なあ」と急に話しかけて至極どうでもいい要件を伝えたり、その度に彼女がぴくっと動くのを、心の中でニヤニヤしながら観察している。
 俺に振り回されている彼女を見るのがたまらなく幸せだ。
 そうして彼女が警戒するのに疲れてきた頃に、俺は何の脈絡もなく彼女にのしかかる。「わぁっ」と驚いたような、でもどこか待ち望んでいたような悲鳴が上がる。耳元で名前を呼ぶと、彼女はぴたりと動きを止める。息すら止めて、俺に食べられるのをじっと待っている。
 
 「寝よっか」
 「うん……」
  
 大人しく寝るつもりなんて無いのは明白なのに、彼女は毎度毎度テレビと部屋の電気を消して、律儀に就寝の準備をする。暗くなった部屋には月明かりだけが差し込んで、潤んだ目でじっとこちらを見つめる彼女と目が合う。今度は俺の息が止まる。
 
 
 
 
 可愛い。
 可愛い。
 俺の彼女は世界一可愛い。
 可愛いはずなのに、俺は素直に慈しんでやりたいと思えない。ずっと守ってやりたいと思っているのに、一方では彼女の笑顔を傷つけたい自分がいる。
 
 ふっくらとしたその頬をつねりたい。いつも笑っているその顔を引っ叩きたい。白くてむちっとしたその肌を齧りたい。細くて貧弱なその腰をへし折りたい。
 彼女の驚く顔が見たい。彼女の困った顔が見たい。彼女の怯えた顔が見たい。彼女の泣いた顔が見たい。
 
 実行に移せば傷つくのは間違いなく俺の方だというのに、俺はその衝動がもたらす甘美な想像から目を背けられないでいる。こうして俺に全幅の信頼を寄せて、体中の弱点という弱点を晒している彼女が、恐怖と苦痛に顔を歪める瞬間。その時、俺は間違いなく人生で一番興奮しているだろう。そしてそのコンマ1秒後には、果てしない後悔と絶望に苛まれているだろう。
 彼女を失うなんて死んでも嫌だから、俺は想像だけに留めている。軽い意地悪をすることはあっても、彼女が本気で苦しむような真似は絶対しないと心に決めている。何も起こらない、この平穏で幸福な日々を守ろうと思っている。
 
 だから、俺の側から離れないでほしい。
 俺にはもったいないくらいの彼女だけど、ずっと側にいてほしい。
 俺がこんなに愛していることは、彼女には半分も伝わっていないだろうけど。
 
 「ん……」
 
 腕の中でうとうとしていた彼女が、いかにも眠そうに目を開ける。寝顔を見ていたと思われるのが恥ずかしくて、俺は慌てて目を逸した。
 
 「なに、どうしたの」
 「おやすみなさい……」
 「……ああ、おやすみ」
 
 就寝の挨拶をして満足したのか、今度は深い眠りに落ちた彼女に、俺は肩まで毛布をかけてやる。
 この幸せが一秒でも長く続きますように。できれば、俺が死ぬまで続きますように。
 
 
 この幸せが続かないのならば、せめて俺の手で壊せますように。