スターライト

 ごろごろ、ごろごろ。
 何度も寝返りを打つ。その度に巻き込まれる毛布の皺を引っ張って、私は目を開けた。
 
 「……眠れない……」

 カーテンから零れる星明かりが、やけに眩しく見える。隣でフデムシが心地よさそうに丸まっているのが少し恨めしい。
 どうして眠れないのか、その心当たりはいくつかあった。一つは、銀夜祭に出店する件。つばあり帽のことも引っ掛かるけれど、それ以上にそのお祭が楽しみで仕方なかった。魔法が集まるお祭なんて、そんなのすっごく素敵に決まってる。その光景を想像するだけで、胸が興奮にそわそわしてしまう。
 もう一つは、そしてこちらの方がより気にかかっているのだが、キーフリー先生の様子がどこかおかしいことだった。

 「先生、どうしたのかな……」

 目を閉じると、星の渡る空の下で、寂しそうな笑みを浮かべていた先生の顔が蘇ってくる。
 あんな顔は見たことがなかった。
 大講堂から帰ってきて、夕方にオルーギオ先生と二人で話に行ってから、キーフリー先生はどこか様子がおかしくなった。夕ご飯の時もどこか上の空だったし、ずっと寂しそうな、ふらっとどこかに消えてしまいそうな目をしていた。その顔を見ていると、私は居ても立ってもいられない気分になって、訳もなく先生のローブを掴みたくなる。

 先生が悲しそうな顔をしていると、私まで胸が痛くなるのだ。

 初めて会った時から、先生のことが好きだった。すごく優しくて、なんでも知っていて、教えるのがとても上手で、そんなところを尊敬していた。だけど、大講堂でベルダルート様にキーフリー先生の過去を聞いてから、そして図書の塔で先生に助けてもらい、二人で一緒に大講堂に帰ってから、その“好き”はただの好きではなくなっていた。もっと複雑で、難解で、そしてはるかに強力なもの。それに名前をつけることは難しいけれど、ただ一つはっきりと理解できることがある。

 ——私と先生は、よく似ている。

 かつては“知らざる者”でありながら、魔法の秘密を知ることになったところ。つばあり帽の被害に遭って、人生がまるごと変わらざるを得なくなったところ。それでいて、魔法が大好きなところ。
 そう考えるたびに、キーフリー先生が私の先生になったことは、きっと運命だったんじゃないかって思ってしまう。
 もし私の先生がキーフリー先生じゃなかったら、私はそう遠くないうちに禁止魔法を使ってしまっていたかもしれない。先生の言葉一つ一つが、不安に震える私の心をじんわりと照らしてくれる。心が折れそうになった時、先生はいつも私の側にいて、ぎゅっと抱きしめてくれる。「一人じゃないよ」って、全身で伝えてくれているのを感じる。

 私には先生がいる。
 だけど、先生には?

 先生には私がいるのだろうか。

 私は先生にこんなに助けられているのに、こんなに愛情を与えられているのに、私は何も先生の役に立てていない。夕方に見た先生の寂しそうな顔を見ると、どうしてもそう思ってしまう。そして先生も、誰の助けも得ようとしないまま、一人で悩んで苦しんで、そのうち消えてしまうのではないかとすら思ってしまう。
 先生が何に悩んでいるのかは知らない。私が自分の不安をやすやすと他人に打ち明けたくないと思うのと同じように、先生も誰かに話そうとは思わないのかもしれない。
 話したくないのなら、それはそれで構わない。
 だけど、せめて先生のことを少しでも癒すことができたなら——

 「……よし」

 枕元の時計を見ると、まだ先生が起きている時間だった。ささやかな決意を胸に、私はベッドから抜け出した。
  
 
 
 リビングで眠っているタータくんの隣をひっそりと通り抜けて、私は先生の部屋の前に立っていた。手には、さっきキッチンで作ってきたばかりのホットミルクが入ったマグカップを持っている。
 多分、先生の抱えている重荷はこんなものでは癒せないだろう。それでも、私にできることといえばこれくらいしか思いつかなかったのだ。まだたったの十数年しか生きていない私には、豊富な人生経験があるわけでもないし、暖かな包容力があるわけでもない。ホットミルクを差し入れて、先生の安眠をわずかばかり助けることくらいしかできない。
 ドアの隙間からはうっすらと灯りが漏れていた。まだ先生は起きているみたいだ。片方の手で控えめに扉をノックすると、扉の向こうから足音が近づいてきた。僅かに開けられたドアから、先生の驚いたような顔が覗く。

 「ココ?」
 「はい、お休みのところすみません」
 「どうしたの、こんな時間に。もしかして、また寝付けない?」

 以前私が不眠に悩まされ、挙句の果てに熱まで出したことを思い出したのか、先生が心配そうな顔をした。そんな顔をさせるはずではなかったのに! 私は慌ててマグカップを先生の前に差し出す。

 「ち、違うんです。あの、これ、良かったら飲んでください」
 「僕に?」
 「はい」

 先生が目を丸くして、私の顔とマグカップを交互に見つめる。「急になぜ?」と思っているのだろうか。そのほんの少しの沈黙でさえ気まずくて、私はどうにか言葉を続けた。

 「あの、なんていうか……今日の先生、元気ないような気がして。私の気のせいかもしれないんですけど、その、どうしても先生のことが気になってしまって……私にできることといえばホットミルクを作ることくらいしか思いつかなかったんですけど、もしかして、ご迷惑だったでしょうか……」

 緊張しすぎて、自分でも何を言っているのかよくわからなかった。喋っているうちから、先生の元気がないのはやっぱり気のせいだったんじゃないか、とか、こんな夜遅くにホットミルクを差し入れても迷惑だったのではないか、という考えが次々と浮かんでしまい、恥ずかしさに顔が熱くなる。
 先生の顔が見られないまま俯いていると、「ふっ」と張り詰めた空気を吐くような声が降ってきて、私ははっと顔を上げた。
 見上げた先生は、いつもと何も変わらない、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

 「迷惑なんて、全然そんなことないよ。すごく嬉しい。ありがとう」
 「あ……はい!」

 先生に喜んでもらえた。そのことが嬉しくて、思わず頰が緩んでしまう。
 良かった、これで私も安心して眠れる。
 そのまま辞去しようとした私は、しかし先生に手を引かれ、立ち止まった。

 「先生……?」

 振り返ると、感情の見えない、透き通った青色と目が合う。
 心臓が飛び跳ねた。
 その瞳はしばらく私を見つめたかと思うと、不意ににこりと柔らかく細められた。

 「まだ渡り星が見えるんだ。外に出ない?」
 「……!」

 一緒に星を見ようって言われた。
 先生が私を必要としてくれた。
 そのことが嬉しくて、私は体の内から溢れそうなほどの喜びを噛み締める。

 「ぜひ!」
 「良かった。じゃあ、行こう」

 先生に手を引かれ、私は外に出た。
 
 
 
 
 みんなが寝静まっている真夜中、私と先生はアトリエの屋根に並んで座っていた。真ん中には私の作ったホットミルクが置かれている。

 「綺麗……ですね」
 「うん」

 私達は空を見上げ、しばらく言葉を忘れた。
 たくさんの星々に照らされて、真夜中の空はほんのりと青みを帯びていた。ところどころに薄い雲がかかって、星々の影が斑に濃くなっている。その中で時々、思い出したかのように星が尾を引いて空を渡る。夕暮れに見た時よりは渡り星の数が減っていたものの、その少なさがかえって夜の静けさによく合っていた。
 隣で先生がホットミルクを飲む音がして、私は顔を横に向けた。

 「どうですか?」
 「……ああ、すごく美味しい。蜜を入れたの?」
 「はい。昔、よく母がそうやっていたので」
 「そうなんだ。道理で、優しい味がするわけだ」

 そう言って先生は、ホットミルクよりも温かい笑顔を私に向けた。
 良かった、先生、喜んでくれてる。
 ほっと胸をなでおろした私に、先生はカップを差し出した。

 「一緒に飲もう」
 「はい! いただきます」

 カップに口をつけると、魔法のおかげで冷めることのないミルクの湯気が顔を温める。口にミルクのまろやかな味が広がったかと思うと、蜜の甘い香りが鼻に抜けた。これは我ながら、かなり美味しくできたと思う。
 カップを戻しながら、先生の横顔を伺い見た。

 ——こうしていると、いつもの先生に見えるんだけどな……。

 ホットミルクを美味しいと言って、こうして美しい夜空に見とれている先生は、私の知っている先生と何一つ変わらなかった。夕方の時のように、どこかに消えてしまいそうな頼りない笑みを浮かべることもない。
 もう元気になったということなのだろうか。
 それなら私としても嬉しいのだけど、でもそれで片付けてしまうには、まだ私の心に引っかかるものが多すぎた。
 
 ——先生、何を考えているのかな。

 夜空を仰ぎ見る先生が何を考えているのか、私にはさっぱりわからない。なにかに悩んでいるのか、それとも何も考えていないのか、それさえもわからなかった。
 すると私の視線に気づいたのか、先生が微笑を浮かべて顔を私に向けた。

 「どうしたの? 何かついてる?」
 「い、いえ! なんでもないです」

 じろじろ見すぎてしまった。顔中に血液が集まるのを感じながら、私は星を見るでもなく前を向く。
 ふと、先生のしみじみしたような声が降ってきた。

 「大講堂では色んなことがあったね」

 その声に、私も大講堂で起きた一連の出来事を思い返す。
 第二の試験に合格したこと。ベルダルート様から先生のことを、そして魔法の限界を聞いたこと。大講堂から逃げ出した私を、先生が迎えに来てくれたこと。
 つい先日にあった出来事だというのに、この静かなアトリエに帰ってくると、あの喧騒がなんだかすごく遠い昔のことに思える。

 「ココが図書の塔に飛び出して行っちゃった時は、本当にどうしようかと思ったよ」
 「すみませんでした……でも、あの時先生が助けに来てくれて、嬉しかったです」
 「そうだね。僕も……まさかココが助けに来るとは、思ってもみなかったよ」

 そう言って、先生は静かに目を閉じる。私も、黙って前を向く。
 本当に、色んなことがあった。
 先生も物思いにふけっているのか、しばらく互いの存在の重みを確かめるような沈黙が広がった。

 「ココは優しいよね」

 ふと、真剣な声で先生がそう言った。隣を見ると、その顔が夕方に星を見た時と同じであることに気づき、私の胸に漠然と不安が広がった。

 「そんなこと……ないですよ」

 先生の声のトーンにつられ、自然と声が低くなる。褒められているはずなのに、なぜか素直に喜べなかった。

 「図書の塔で僕を救ってくれたことだけじゃない。君は今日の夕方からずっと……僕を心配してくれている」

 そんなところまで、わかっていたんだ。
 先生は何でもお見通しなんだ、という尊敬と、心配しているのを見透かされてしまって妙に恥ずかしい気持ちが、不安と緊張の彼方にうっすらと感じられる。何も言えないでいる私に、先生はなおも続けた。

 「銀夜祭に出店するか相談してた時、僕の手を握ってくれたのも……こうして僕にホットミルクを作ってくれるのも、君がすごく僕のことを思ってくれているからっていうのが、伝わってくるよ」

 私の気持ちは、先生に届いていたらしい。
 それなのに……どうしてなんだろう。全く嬉しいと思えない。
 多分それは、きっと、

 「ココ……君は本当に優しい子だ。だけど……」

 きっと、先生が——
 
 
 「もう僕に優しくしてはいけないよ」
 
 
 泣きそうな顔をしているからだ。

 「どうして……ですか」

 張り上げてしまいそうになる声を抑えてそう尋ねると、先生は私の方を見ないまま、口元だけうっすらと笑って答えた。

 「僕には優しくされる資格がないんだよ、ココ」
 「なっ……そんなことはありません!」
 「僕の何を知った上でそう言うの?」
 「え……」

 突き放すような物言いに、思わず言葉を失う。
 もう一度見た先生の目は、今までに見たことがないほど冷たい光を帯びていた。

 「ベルダルートから僕の昔の話を聞いただろう。僕はつばあり帽に何もかもを奪われた。右目、記憶、それまで生きてきた世界……文字通り、何もかもだ」
 「…………」

 それはベルダルート様から聞いていた話と同じ内容だったが、実際に本人の口から言葉を聞くと、その重さがまるで違った。その想像も及ばぬほどの苦しみに、うまく呼吸ができなくなる。

 「僕はつばあり帽を追わなくてはならない。それは僕の使命なんだ。そのためなら僕は自分の全てを犠牲にすると、そう誓った。必要であれば、他者を傷つけるのだって厭わない、とね」

 先生が自分の手を見つめる。その手についた魔墨の汚れが一瞬血に見えて、私は思わず瞬きを繰り返した。
 人を傷つけるなんて、先生がするはずない。
 そう信じたいと願う一方で、先生がそう言うのであればそうなのだろうと妙に納得してしまう自分もいた。

 「数え切れないほどの嘘をついた。掟すれすれのことだって、片手に余るくらいやった。何も知らない善良な人を巻き込むことさえあった。時には……“知らざる者”をも」
 
 そう言って、先生の目が私を見つめた。
 ロモノーンで私の手を掴んだ時と同じように、私が知らない先生の顔をしていた。

 「君ならもうわかるだろう、なぜ僕が君を引き取ったのか」

 ——言わないで。

 そう言おうと思ったのに、私の喉は声の出し方を忘れたようだった。
 先生は一瞬の躊躇のうちに、言葉を続けた。それは、まさしく私を傷つけ、退けるために発せられた言葉だった。

 「僕が君を引き取ったのは、つばあり帽に関する手掛かりになると思ったからだ。君に魔法を教えたのだって、優しくしたのだって、君が僕の元から離れないようにするためだ。現に、君はベルダルートの誘いを断って僕の方についた……あのまま彼の元にいた方が、結果的に早く君の願いを叶えられたかもしれないのに。
  君は……君は本当に……愚かだ」
 「…………先生」
 「軽蔑しただろう。見損なっただろう。でもこれが真実なんだ。僕は決して立派な師なんかじゃない。君の大好きなキーフリー先生なんて、最初からどこにも……!」
 「先生!」

 一歩踏み出した足元で、マグカップの倒れる音がする。それを気にも留めず、私は弾かれるように立ち上がり、先生の頰を両手で包み込んだ。
 掌に、冷たい涙の感触が伝わる。

 「……ココ……?」

 私を見上げる青い瞳が、星を映して揺れていた。

 「泣かないで……」

 先生の瞳が、はっと見開かれた。まるで、やっと自分が泣いていることに気づいたかのように。

 「先生が泣いてると、私も悲しいです……」

 そう言った私の頰にも、なにか冷たいものが流れ落ちた。
 胸が苦しくて仕方なかった。
 それは、先生が言った言葉のせいではなかった。先生から発せられる、声にならない悲しみ、痛み、苦しみが、私の感情を共鳴させていた。先生が何に苦しんでいるのかは知らないが、何かに苦しんでいるということだけは、自分のことのように理解できた。
 先生は、私を傷つけるための言葉で、自分を酷く傷つけていた。

 「私が何かして先生が辛くなるのなら、何もしません。だから……!」

 どうか泣かないで。
 そう言おうとした途中で、背中がぐっと引き寄せられた。バランスを崩した私は、屋根の上に膝をついた。

 「先生……?」

 急に近づいた先生の体は、苦しみに耐えているかのように震えていた。きつく抱き締められて、息が出来ない。強く掴まれて、肩と腰が痛い。
 それでも私は、私にしがみつくこの腕を振り解こうという気には微塵もならなかった。

 「どうして……」

 ほとんど吐息のような声がする。
 それに答える代わりに、私はそっと背中に腕を回した。先生の体が一瞬びくりと震えて、その後、腕の力がより強まった。

 「聞いてなかったのか……僕は、君が思うような人間じゃないんだ」
 「はい」

 聞いていた。先生の声にならない言葉まで、私は全部聞いていた。

 「君が慕っているのは、本当の僕じゃない。僕はもっと汚くて醜い……とても君の目に見せられるようなものじゃない」
 「そう……かもしれません」

 先生が何をしたのか、見ていない私にはわからない。
 それでも、先生がそんな自分を酷く憎んで、嫌っていることはわかる。

 ——自分のことが嫌いだから、自分を慕う人わたしのことも遠ざけたくなってしまうんでしょう?

 それなら、離れるわけにはいかない。
 たとえ私を利用していたって、先生の優しさが嘘だったって構わない。
 だって、あの時、一緒に学ぶって決めたから。ずっと一緒にいるって、そう決めたから。

 「わかっているなら……僕から離れていってくれ、ココ……」
 
 私を抱きしめたまま涙声でそう言った先生の胸に、私は顔を埋めた。
 いつもと何も変わらない、私が大好きな先生の匂いがした。私が不安な時、苦しんでいる時、必ず私を抱き締めて安心させてくれる、そんな先生の匂いだ。
 今度は、私が安心させる番。
 
 「それでも、私はずっと側にいます」

 私がそう言うと、先生はもう何も言わなくなった。ただ、どこまでも美しい星空を背に、肩を震わせているだけだった。