キーフリーの傷口が塞がり、ココが一人で図書の塔へ飛び出していった翌日。大講堂を後にする前にと、ココ達はそれぞれ分かれて買い物をしていた。
「はい、ちょうどお預かりしました。これが商品ね」
「ありがとうございます!」
とんがり帽子を被った老婦人から、ココは袋に入った品物を受け取った。中には飛靴の手入れのためのウエスやクリームが入っている。魔法がかかっていて、いつもより綺麗な仕上がりになる、らしい。
店を後にしようとしたココは、ふと棚に陳列されていた懐中時計が気になって足を止めた。
随分昔のものなのか、時計は全体的に色褪せてくすんでいた。しかし文字盤を囲む精巧な装飾は、今もなお見る者の目を惹きつける。文字盤の中央部分に空けられた穴から、細かな歯車が規則正しくカチカチと時を刻んでいて、それを見つめていると、時計を見ているというのに時を忘れそうになってしまう。
しばらくぼーっとしていたココは、やがてはっと我に帰り、店の奥にいるであろう店主に向かって頭を下げた。
「あっ、すみません! じゃあ、失礼します」
慌てて店を出たココは、しかしなんだか違和感を感じて周囲を見回した。
——私、こんな所から来たんだっけ?
いつの間に日が陰ったのか、大講堂は全体的に薄ぼんやりと暗い影が差していた。いや、景色だけではない。街を歩く人々の顔にすら、不安と恐怖がべったりと張り付いていた。
先程までは活気に満ちていたはずの露店も、今や粗末なものが一つ二つ並んでいるだけだ。魔法使いの密集地と言われても到底信じられないその光景に、ココは自分の目を疑った。
「な、なんで……?」
店を入って出ただけなのに、こんなにガラッと景色が変わることなんてあるのだろうか。初めて来た場所で迷子になったような気持ちがして、ココの全身をざわざわとした不安が包んだ。
——そうだ、先生を探さなきゃ。
ここが大講堂なら、どこかそう遠くない場所にキーフリーやオルーギオがいるはずだ。一歩踏み出したココの側を、二人の魔法使いがすれ違った。
「本当に恐ろしい話だよ。子供の目をくりぬいて、生きたまま土に埋めるなんて」
「え……?」
思わず、ココは足を止めた。その話が、自分の知っている人の話にそっくりだったからだ。
先生を探すことも忘れ、ココは彼らの後ろでこっそりと聞き耳を立てた。そして、顔色を失った。
「その上ベルダルート様はそいつを弟子にしたって言うんだから、びっくりだよな」
「ああ。知らざる者の子供なんて、放っておけば良かったのにな」
「嘘……」
それは、どう聞いても自分の師であるキーフリーの話に他ならなかった。しかも、同じような人間がこの世に、こんな狭い大講堂内に二人と存在するなんて考えられない。
もしかして、ここは過去の大講堂なのではないか。
脳内がその結論を導きかけた途端、ココは眩暈を感じた。過去にタイムスリップしてしまうなんて、ありえない。何かの間違いか、悪い夢に違いない。そうであってほしい。
ココが目をこすりながらフラフラと後ずさった、その時だった。
「うわっ」
「きゃっ!」
後ろから来た何者かと衝突し、ココはその場に倒れこんだ。そのすぐ側に、ばさばさと本が降ってくる音がする。ココはぎゅっと目を瞑ることしかできなかった。
「あいたたた……」
「あっ、ごめんなさい! 大丈夫?」
ココと同じくらいの歳の子供の声がして、ココは目を開けた。ぶつかってきた少年が、申し訳なさそうに手を差し伸べてくる。
その顔を見て、ココは息を呑んだ。
「先生……?」
銀色の髪に水色の瞳、右目を覆い隠す長い前髪。そしてココが被っているものとデザインが似ているとんがり帽子。どこからどう見ても、彼は小さいキーフリーだった。
ところが、少年はココの呟きを聞いて、怪訝そうに眉を顰めるだけだった。
「先生? 僕は君の先生になった覚えはないけど。それより、怪我は無い? 無いならもう行くね」
「え、あ……」
さっさと本を抱えて歩いていく少年の後姿を、ココは呆けたように見つめていた。
本当に、キーフリー先生の幼い頃の姿だったのだろうか。
それにしては、喋り方も雰囲気も今のキーフリーとはまるで似つかなかった。冷たいし、すごくとっつきづらい。姿が似ている別人と言われた方がしっくりくるくらいだ。
それでも、ココは彼のことが猛烈に気になった。ローブの砂を払い、彼の後を追いかける。
「見失っちゃった……」
ココは途方に暮れていた。
少年がこの細い路地裏に入っていったのを見たのはいいのだが、いかんせん道の分岐が多すぎて、どの道を曲がったのかが全くわからない。そして、諦めて帰るにもどの道を来たのかがわからなかった。正真正銘の迷子だ。
ココの目に涙がじんわりと浮かんだその時、背後から声がした。
「どうして僕の後をつけるの?」
「ひぇええっ!」
いつの間にか、ココの背後でさっきの少年が、本を胸に抱いてココを睨みつけている。ココは飛び上がるほど驚いた。
少年は不信も露わにココのことを頭のてっぺんから爪先まで見下ろした。
「僕に何か用? それとも、僕のことが珍しい?」
「へ……? 珍しい?」
「そうだよ。どうせ、つばあり帽に殺されかけた哀れな男の子をもっと見てみたいとか思ったんじゃないの?」
「ち、違うよ!」
思わず、ココは大きな声を上げていた。その声に、キーフリー少年もたじろいでいた。
早まりそうになる呼吸を落ち着かせながら、ココはゆっくりと言った。
「そんなんじゃなくて、ただ……貴方、私の先生の小さい頃にそっくりだから、つい気になっちゃって」
「はぁ……」
納得したようなしていないような目で、少年がココを見つめる。急にココは気恥ずかしくなって、俯いた。
「ごめんなさい。貴方は私のこと知らないわけだし……迷惑だよね」
「……いや、迷惑とかじゃないけど。まぁいいや、話すにしても場所を変えよう。ついてきて」
キーフリー少年はココの隣をすり抜けて、路地裏を進む。ココもそのあとについていった。
扉窓を抜けて、出てきたのは人の気配のない草原だった。太陽の光が草の海を黄金色に照らし、風が波のようにさざめいて草原を駆けていく。ココは一瞬、少年の存在も忘れてその光景に見とれた。
「わぁ、すごい!」
「ここは人がいないから落ち着くんだ」
平然とした少年の声色に、ココは横を見た。
「大講堂は嫌い?」
思えば、ココの知るキーフリーもあまり大講堂に寄り付きたがらなかった。大講堂にいる間は、アトリエにいる時よりもどこか表情が強張っていたように感じる。
ココがそう尋ねると、少年は苦い顔をした。
「……そうだね。あそこにいると息が詰まる感じがする」
「海の中にあるんだもんね。私も、最初来た時はびっくりしちゃった」
「最初? 君も大講堂の生まれじゃないの?」
キーフリー少年が首を傾げ、遅れてココもあっと口に手を当てた。多くの魔法使いは大講堂で生まれ育つし、生まれが違ったとしても、大講堂が海の中にあるというのは魔法使いにとって当たり前なのだ。
とはいえ、今更取り繕うのも不自然である。ココは曖昧に微笑んだ。
「うん。私が生まれたのは……もっと外れのところ。大講堂にも、最近初めて来たの」
「へぇ、僕以外にもそんな人がいるなんて珍しい」
「あ……あはは」
これ以上追及されるとボロが出てしまいそうだ。ココは慌てて話を変えた。
「それにしても、貴方、とっても難しい本を読んでるんだね! それ、上級者向けの教本でしょ?」
キーフリー少年が抱えているのは、どれもココには到底理解が及ばないような難しい魔法教本ばかりだった。ココの記憶が正しければ、目の前の少年も魔法を学び始めてそれほど経っていないはずだ。それなのに、もうこれほど難しい本を読んでいるなんて、とココは改めて師の賢さに敬服する思いだった。
少年はココの褒め言葉に嬉しそうな顔をするでもなく、ただ無愛想に手元の本をぱらぱらと捲っていた。
「調べてることがあるんだ。これくらい、大したことない」
「調べてること?」
ココがオウム返しにそう言うと、少年は頭を下げた。俯いているのか、頷いているのか、その両方にも見えた。
「……失くしたものがあるんだ。正確には、盗られたものかな。それを取り返すにはどうすればいいのか、ずっと探してる。ずっと……」
——大講堂に来てからも、あいつは己が過去を探し続けておった……そして、右目の在りかもな。
第二の試験に合格した日の夜、ベルダルートの自室で彼に言われた言葉が蘇り、ココの胸が痛んだ。
「こんな昔から、探してたんだ……」
「え?」
「あ、ううん。その……頑張ってるんだなって」
「……他の人とは賭けてるものが違うから。僕は……その探し物を見つけないと人生が始まらないんだ」
俯いて話すキーフリー少年に、ココは押し黙った。似たような立場だからこそわかるその苦しみに、言葉がうまく出てこない。
本当は、「わかるよ」と言って手をとって、その苦しみだけでも分かち合ってあげたかった。でも、そうすればココが未来から来たことが露呈してしまう。ココが本当に未来の自分の弟子だと知っても、今のキーフリー少年を混乱させるだけだろう。だから、ココは黙っているしかなかった。
少年は本の背表紙をなぞり、溜息をついた。
「でも、多分この本にも僕が知りたいことは載ってないんじゃないかな」
「どうして?」
「僕が探してるのは、きっとこの世界の禁忌だから」
「禁忌……」
その言葉を呟くだけで、ココの心に暗い影が落ちる。少年は続けた。
「大講堂にあるような、誰にでも見られる本には載ってないと思う。図書の塔ならあるかもしれないから、早く第三の試験を受けないといけないんだけど……」
確かに、少年が探しているものが失くした自分の記憶と右目だとしたら、それは普通の魔法では到底埋められないものだろう。つばあり帽を追うにしても、通常の手段ではその情報を得ることはできない。だからこそ、全ての書物が収められている図書の塔へ行かなくてはならない。
言葉を切った少年は、ココの前で初めて感情の一欠片を浮かべた。
「本当に見つかるのかな。もし図書の塔に行っても見つからなかったら、僕はどうすればいいんだろう」
「あ……」
同じだ、と思った。
先日、一人で図書の塔を飛び出して、助けに来てくれたキーフリーに不安をぶつけた自分の姿と、目の前の少年の姿がそっくり重なった。
その姿を見ていると、ココの胸壁を心臓が一際強く叩いた。
「なんてね。君に言ってもしょうがないよね」
わざと明るく言ってみせたキーフリー少年の両手を、ココはぎゅっと握った。
「大丈夫だよ」
「え……?」
目を丸くした少年と、ココの目があった。
「図書の塔で、貴方が欲しいものがそのまま見つかるかどうかはわからないけど……でも、もし見つからなくても、絶対に希望はあるから! そこで終わりじゃないから!」
ココの知っているキーフリーは、過去の記憶がないし、右目も失くしたままだ。ということは、キーフリー少年は図書の塔で有用な手がかりを得られなかったに違いない。
自分の探しているものが、しかもそれがなければ人生が始まらないとまで言うほどのものが、禁忌に手を染めなくては得られないと知った時、キーフリーをどれほどの絶望が襲ったことだろう。その絶望の一端に触れたココだからこそ、彼の苦しみは手に取るように理解できた。
でも、ココは知っている。
未来のキーフリーが、優しくて聡明な先生になっていることを。誰よりココ達のことを思ってくれて、何かあった時には絶対に守ってくれることを。なにより、同じ絶望に苦しむココに、立ち直らせるための力強い言葉をくれることを。
「だから……」
続けようとした言葉は、ふいに途切れた。消えた言葉の代わりをするかのように、ココの両目から、大粒の涙が流れ落ちる。
それを見て、少年が笑った。初めて見る笑顔だった。
「ありがとう。僕のために……泣いてくれるなんて」
「……!」
その言葉に、ココはぶんぶんと首を振った。
これからきっと訪れる少年の苦しみに、ココは何もしてやることができない。ココは未来のキーフリーにたくさん助けられているのに、だ。仕方ないことだとわかっていても、自分の無力さに胸が張り裂けそうになる。
肩を震わせるココに、少年は問いかけた。
「ね、君、名前なんていうの?」
「ココ……」
「ふぅん、ココね」
名前を言ってはまずいのではないか、と躊躇するだけの余裕はココにはなかった。キーフリー少年がなにか納得したかのように頷くのを、ただ鼻をすすりながら見つめている。
「ココ、きっと僕達、また会えるよ。約束してもいい」
「……! うん!」
また会えることは、ココもよく知っている。それでも、ココは今目の前にいるキーフリー少年と、どうしても約束したかった。
——だって、また会えるってことは、絶望に負けないってことだから。
ココは涙に濡れた顔で微笑んだ。
「約束しよう……!」
そう言った途端、ココの体を眩いばかりの光が包んだ。もう元の世界に帰る時間なのだ。
掴んでいたはずの少年の手が消えていって、ココは両目を固く閉じた。
暗闇に街の喧騒が飛び込んでくる。ココは目を開けた。
「あれ……ここ、大講堂……?」
ココは再び、先程品物を買ったあの店の中に立っていた。大講堂はすっかり明るさを取り戻している。きょろきょろと辺りを見回すが、あのキーフリー少年の影はどこにもなかった。
首を傾げるココの元に、店主の老婦人が近づいてきた。
「お嬢ちゃん……もしかして、見たのかい?」
「え? 見たって、じゃあ、あれは……」
老婦人は陳列棚に置かれた懐中時計を手に取ると、懐かしそうに微笑んだ。
「この懐中時計には魔法がかかっているのさ。と言っても、この50年発動したところを見たことがなかったんだがね」
「どんな魔法なんですか?」
「なに、大したことはない。過去の出来事を元にした、現実そっくりの白昼夢を見せてくれるのさ。あんたが心の奥底で気にかかっていることを、この時計が見せてくれる」
「白昼夢……ですか」
夢、と言われるとなんだか寂しいような心地がして、ココは視線を落とした。あんなに激しい感情の動きが、夢、というたった一文字で終わってしまうなんて、味気ない。
気落ちしたココの様子を察してか、老婦人がココの手に懐中時計を握らせた。
「これも何かの縁だろう。この時計を持ってお行き。もう魔法は発動しないが、きっとあんたの心の支えになってくれるさ」
「えっ、良いんですか?」
「ああ。あんたが持っていた方が、この時計のためになるってもんだよ」
老婦人の言葉に、ココは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
ココは改めて、自分のものになった懐中時計を見た。最初は気がつかなかったが、確かに文字盤の周りにうっすらと色褪せた魔法陣が描かれている。一部が擦れて陣が途切れているから、もう魔法が発動することはないだろう。
時計を胸元にしまい、ココは店から出て歩き始めた。そしてすぐ、何かにぶつかった。
「きゃっ!」
「うわっ、すみません……って、ココか」
「あ、先生!」
背が高くて穏やかな笑みを浮かべた、ココのよく知るキーフリーが目の前に立っていた。その姿を見た途端、ココの心中を暖かな安堵が包み込んだ。
あの少年は、絶望を乗り越えられたのだ。もう一度会うという約束も、ちゃんと守ってくれた。それが夢の中のことにすぎなくても、ココにはなにより嬉しかった。
ココがキーフリーの顔を見ていると、キーフリーもココを見た。
「どうかした?」
「いえ……あの、先生」
「ん?」
キーフリーが少し屈み込んで、ココの顔に耳を近づける。
ココはその袖を掴んだ。
「先生は……その、すっごく辛いことがあった時、どうやって乗り越えましたか?」
ぼかして言ったが、キーフリーには図書の塔にまつわる自分の過去の話のことだと伝わったらしい。彼はしばらく考えた後、懐かしいものを思い出した、とばかりに微笑んで言った。
「内緒」
「えーっ!」
まさかそう答えられるとは思わず、ココは思わず大声を出してしまった。すれ違った通行人の生暖かい視線に、頰が熱くなる。
「私には教えたくないような方法なんですか?」
ココが尋ねると、キーフリーは笑いながら「違うけど」と否定した。
「あまりうまく説明できないんだ。しかも、現実味に欠ける」
「大丈夫です、私、信じます」
今のココは、どんな非現実的な出来事も信じられる気分だった。だって、夢とはいえあんなにリアルな過去の追体験をしたのだから。
そんなココの顔を見て、キーフリーは少し照れ臭そうに口を開いた。
「妖精に会ったんだ」
「妖精?」
「うん」
見上げたキーフリーの横顔は、とても嘘を言っているようには見えなかった。
「どんな絶望的な状況でも、必ず希望はあるから諦めないでって、そう言われた。その妖精に会ったのは随分昔で、もう顔も名前も覚えてないけど、辛い時、ふっとその言葉が湧いてきたんだ。不思議だよね」
「それって……」
ココは心臓がどきりと弾むのを感じた。胸元にしまっている懐中時計の辺りを、そっと握りしめる。
——夢じゃ、なかったの?
店主の老婦人は夢だと言っていたが、本当はそうではないのかもしれない。ただ、あまりにも非現実的な話だから夢だと思われていただけだったのかもしれない。
「ほんと、なんだったんだろうなあ」
キーフリーがぼんやりと呟いた。その言葉に、ココは思わず口角が緩むのを感じる。
「その妖精、私なんですよ」
——そう言ったら、先生はどんな顔をするだろう。
それを考えるだけで楽しくて、ココはにっこりと笑った。
「さ、みんなを探してアトリエに帰りましょう!」
「うん……どうしたの、ココ。なんかすごく嬉しそうだけど」
「ふふ、なんでもありません!」
海の底にある大講堂に、うっすらと太陽の日差しが差し込んだ。