SHEEP

 やってしまった。
 ナイトテーブルの引き出しを開けたキーフリーは目的の物が無いことを確認すると溜息をついた。時刻は午前一時、いつもキーフリーが睡眠薬を飲んでいる時間だ。弟子達はもうとっくに眠りについていて、真夜中のアトリエはしんと静まり返っていた。

 キーフリーが眠れなくなったのはそう最近のことではなかった。子供の時、つまりベルダルートの世話になっていた時から既に自分が熟睡したという記憶はなかったし、眠くないからと夜中まで起きては彼に怒られたこともしょっちゅうだった。
 元々長時間の睡眠を必要とする体質ではなく、昼間に眠くなるようなこともないので、キーフリー自身はそこまで眠れないことを苦には思っていなかった。むしろ夜の長い時間を、魔法を学んだりつばあり帽について調べたりと有意義に使うことができるので便利に思っているくらいだった。
 ただ、歳を重ねてくるとだんだん体に支障が出るようになってきた。徹夜した次の日は頭が冴えないし、陣を描く精度も落ちる。そんなわけでキーフリーは眠らざるを得なくなった。しかし気付いた時には自然に眠れなくなっていたので、眠らせる効果のある物質に頼るようになっていた。アルプ茶などという生易しいものではなく、意識を強制的に遮断させるような薬だ。自分で調合したそれを飲んでから寝る、もとい気を失うのが常だった。
 その薬を切らしてしまった。
 困ったな、と眉を顰め、キーフリーは明日の予定を確認する。もし屋外で授業をする予定があれば、睡眠不足の体で外へ行くのは危険なので今すぐにでも薬草を取りに行くつもりだった。しかし明日は何もない。ならばわざわざ暗い中、目を凝らして探しに行く必要もないだろう。
 そんなわけで、キーフリーは久々に徹夜することにした。

 本を読んでいると時間はあっという間に過ぎていった。カーテンから零れ落ちた朝日にキーフリーが顔を上げると、そろそろ弟子達が起きてくるような時間になっていた。たまには手の込んだ朝食でも作ってあげようと思い、台所に立って袖を捲る。
 最初に起きてきたのはやはりというべきか彼女だった。若草色の髪が朝日を受けて眩しく光る。
 「おはようございます、キーフリー先生」
 「おはよう、ココ」
 眠い目を擦りながらココが階段を降りてくる。吸い寄せられるように台所まで来て、彼女はくんくんと鼻を鳴らした。
 「良い匂い。オムレツですか?」
 「うん、そうだよ」
 ココはキーフリーの隣までやってくると、ひき肉と玉葱と卵がオムレツになるまでの過程を輝きに満ちた目で見つめていた。胡椒の芳ばしい香りに混ざって、ふわりと彼女の髪の匂いがする。この子にとっては料理も魔法の一つなのかもしれないな、と思い唇を綻ばせた、その時だった。
 「……あれ」
 急に瞼が重くなったような気がして、キーフリーは目を何度か瞬かせた。うまく思考が回らず、頭に靄がかかったような感覚に陥る。
 この感覚はなんだろう。
 思わず料理の手を止めたキーフリーを、ココが心配そうに見上げていた。
 「先生、どうかしましたか?」
 「……ううん、なんでもない」
 ココの言葉で我に返ったキーフリーは、弟子に心配をかけるまいと気丈に微笑んで首を振った。あまり気を抜いていると卵が固くなってしまうため、急いで皿に出来上がったオムレツを移す。
 「これ、運んでもらってもいいかな」
 「任せてください」
 オムレツが乗った皿を渡すと、ココは心配を浮かべた顔を崩して嬉しそうに頷いた。そんなにオムレツが好きならこれからはもっと作ってあげよう、とキーフリーは弾む彼女の後ろ姿を見つめる。
 実際不調をきたしたのはその一瞬だけで、その後朝食を食べている時も、弟子に魔法を教えている時も、あの料理を作っている時のような変化は起きなかった。単純に徹夜したせいで疲れているのだろうと思い、徹夜が堪えるなんてもう年だなと苦笑いするような気分になる。

 再び月の光がアトリエを照らし、星が天を埋める。今日も退屈で幸福な一日が過ぎようとしていた。昼間に薬草を手に入れた帰り、たまたまリビングに出ていたオルーギオと目が合った時は肝が冷えたが、特に何か聞かれることも無く、キーフリーは無事に眠る手段を確保することに成功した。
 日が沈んでから数時間が過ぎ、弟子達はもう全員自室に戻っていた。きっと今頃は夢の中だろう。弟子達は毎日当たり前のように何時間と眠っているのに、自分は一日徹夜してなお一切の眠気を感じていないことを思うと、可笑しいような寂しいような、奇妙な気分になる。
 徹夜しているからといって早く眠るような気分にはならず、キーフリーは暖炉の前のソファに座って本を読んでいた。中ほどまで読み進めた頃、階上から「あの」という囁くような声がして、キーフリーは肩を回して振り返った。
 「先生、今、良いですか?」
 申し訳なさそうな顔をしたココが、魔法教本を胸の前で抱えて立っていた。こんな時間まで勉強していたのだろうか。熱心な彼女を見ているとこちらも暖かい気分になって、キーフリーは「なに?」と柔らかい声色でココに隣に座るよう促した。普段履きの靴が床を踏んで、ぺたぺたと軽い音がする。
 「寝る前にどうしても気になっちゃって。このページなんですけど」
 隣に掛けたココは膝の上で教本を広げ、質問のある箇所を指で示した。
 「どうしてこの魔法陣がこういう効果になるのかわからなくて……」
 「ああ、これね」
 昼間にキーフリーが薬草を取ってくる間、自習を命じていた範囲だった。本の解説を確認しようと顔を寄せたキーフリーは、ふと良い匂いがすることに気づいて動きを止める。
 「炎の紋と収束の矢だから、……な効果になると思ったんですけど」
 甘く優しい匂いだ。色で例えれば淡いクリーム色のような、音で例えればゆったりとしたピアノの旋律のような、包み込まれるようなその匂いに、解説に目を通していたはずの焦点がぼやけていくのを感じた。
 ——でも、説明にはこう書いてあるんです。
 不思議そうなココの声が、四方八方から響いてくるかのように聞こえる。それはまるで世界の謎を発見した子供のように眩しく、微笑ましい響きを伴っていて、もっとその声を聞いていたいような気分になる。もっと彼女のもたらす安寧と平穏の世界に浸っていたい気分になる。
 今までにないほど穏やかな心地だ。
 気づけばキーフリーの体は緊張を失い、ぐらりと横に傾いていた。
 「先生?」
 慌てたココの声は、キーフリーの耳には届いていなかった。

 ココは膝の上で横向きに倒れている師を見下ろした。教本に顔を近づけたと思ったら、そのまま糸が切れたように倒れてしまったのだ。突然のことで、ココも何が起こっているのか把握できなかった。
 「せ、先生? キーフリー先生」
 恐る恐る呼びかけるが、返事はない。まさか急病かと思って体を仰向けにさせると、キーフリーは思ったより安らかな顔で、規則正しく穏やかな呼吸をしていた。
 「寝て、る……?」
 どうやら病気の類ではないとわかり、ココはホッとする。しかし同時に、この状況をどうするべきかという問題も湧いてきた。こんなところで眠っていては寝心地も悪いだろうし、体を痛めてしまう。どうにかベッドまで運びたいが、ココの膝の上で眠っているこの成人男性を運ぶのは困難極まれるように思われた。
 「あの……先生……起きてくださーい……」
 ココは囁き声でそう呼びかけるが、キーフリーは依然としてすうすうと寝息を立てるばかりだった。もっと本気で起こしにかかった方がいいのだろうか。困惑したココはキーフリーの顔を見つめ、そしてはっと手を止めた。
 隈が出来ている。
 (先生……寝不足だったのかな)
 昼間に授業をしていた時は疲れている様子など微塵も見せていなかったが、それは気を張っていたのだろう。いつもは理想の師として振舞っているキーフリーが、こうして自分の膝の上で無防備な寝顔を晒しているのを見ると、ココはなんとなく自分が気を許されているような気がして嬉しくなった。
 もう起こすのはやめよう。このまま寝かせてあげよう。そう思ったココは近くにあった肌掛けをキーフリーにかけ、自分もソファの背もたれに体を預けて目を閉じた。真っ暗な世界に師の穏やかな呼吸音だけが聞こえてくる。吸って、吐いて。吸って、吐いて。寄せては返す波のようなその音を聞いていると、ココもあっという間に睡魔に襲われ、いつの間にか深い眠りの世界に沈んでいた。

 やってしまった。今度こそキーフリーは腹の底から絞り出すような深い溜息をついた。
 夜中にうたた寝から目を覚ましたキーフリーは、自分がココに魔法を教えている最中に眠ってしまったことを思い出して頭を抱え、さらにあろうことか彼女の膝枕の上で眠っていたことを理解して死にたくなった。そのココは先程までキーフリーに折り重なるようにして眠っていて、今はキーフリーが慌てて掛けた肌掛けに包まってスヤスヤと眠っている。
 いくら徹夜していたとはいえ、自分が睡眠薬の補助も無しにあれほど眠ってしまうとは思いもよらず、キーフリーは愕然とした。眠気を感じるのが久々だったせいで、眠りに落ちる直前まで自分が眠いのだということすら理解できていなかった。
 しかし思い返してみれば、朝台所でオムレツを作った時に感じたあの違和感も、体の不調ではなく眠気だったのだとわかる。キーフリーの中で「自然な眠気」というのはもうとっくに死んだものだと思っていたのだが、まさか生きていたというのか。眠ってしまう直前に何かとても良い匂いがしたという記憶だけはあったが、一体なんの匂いだったのだろう。
 とりあえず、考えるより先にココを寝室に運ぶべきだ。横抱きにするため彼女の膝を抱えた、その瞬間だった。

 「……!!」

 もう一度漂ってきたその匂いに、キーフリーは全てを理解した。全身を雷に打たれたような衝撃が走り、およそ夜中に似つかわしくない動悸が駆け足で訪れてくる。

 (嘘だろ、そんな、まさか)

 ——ココの匂いを嗅いで眠くなったとでも言うのか。
 俄かには信じられない気分で視線を落とす。
 その睡眠薬は、キーフリーの腕の中で安らかな寝息を立てていた。