Something wrong with you 5

 カルンから帰った次の日、キーフリーは一日中寝込んでいた。慣れない肉弾戦をしたことに加え、酷い眼痛と頭痛で目を開けるのさえ苦痛だった。
 数ヶ月ぶりに再発した左目の痛みは、ココと出会ってからキーフリーが忘れていた“タイムリミット”を、残酷なほどにまざまざと思い出させた。
 あとどれくらいこの世界を見ていられるのだろう。瞼に載せられた濡れタオルが左目の熱を吸収し、みるみるうちに温くなっていた。自分の見る景色が、この濡れタオルを乗せたときと同じ、何もない暗闇になるのもそう遠くないうちだと感じられた。
 失明することへの恐怖はなかったが、魔法が使えなくなって、つばあり帽も追えなくなったら自分は何のために生きるのだろう、と何度も思い、その度にロモノーンの崖から身を投げる自分の姿がありありと思い浮かんだ。
 時間がない。つばあり帽の方から接触してきたのは好都合だったが、敗北しては意味がない。もっと鍛えないと、もっと学ばないと……
 
 
 
 「先生、大丈夫ですか?」

 その言葉に意識が現実へ引き寄せられる。タオルが取り除かれ、ココの心配そうな顔が目に入った。
 左目をうっすらと開けると、もう夕方だった。まだ光が目に入ると痛むが、帰ってきたばかりの時よりは幾分かましになっていた。

 「タオル、温くなってるので取り替えますね」

 器に水を汲み、ココがタオルを濡らす。その姿を見つめながら、キーフリーは口を開いた。

 「あの魔法はココが描いたの?」
 「あの魔法って……カルンで私が使った魔法ですか?」
 「そう」
 「あれは貰ったものをなぞったんです。私の所にも、先生が戦ってたような、もう一人の私みたいな子がいて。その子が魔法陣をくれたんです。まだ持ってますよ。貰った魔法陣も、私が描いたものも」

 キーフリーは飛び起きた。急な血圧の変化に目の前が一瞬暗くなるが、そんなことに構っている場合ではなかった。興奮に全身が粟立つ。

 「見せて」
 「ええっ、今ですか? でもまだ休んだ方が……」
 「見せて」

 見せないのならココを押さえつけてでも見るつもりだった。その圧が伝わったのか、ココはタオルを傍に置き、渋々といった表情で机の上から二枚の紙を持ってきた。

 「これです。こっちが貰った方、こっちが私が描いた方です」

 魔法陣に目を通す。貰ったと言う魔法陣はおそらくつばあり帽が描いたものではあるが、禁止魔法の禍々しい香りはしなかった。どちらも術者の姿を模した水人形を作る魔法だ。つばあり帽が描いたものにだけ、見慣れぬ二本の矢が描かれていた。キーフリーはその矢を図書の塔で見たことがあった。
 一つは魔法を自動で動かす矢だ。戦時中は兵器に対してよく使われていたが、取り扱いが困難なので使用機会は厳しい規則によって限定されている。もう一つは術者情報を変更する矢で、この水人形の姿が魔法を描いたつばあり帽ではなくココになっているのはこの矢の効果によるものだ。未だ効果のメカニズムが解明されておらず危険なので、こちらもほとんど使われることはない。
 どちらの矢も、あの場でココが描いていたらほぼ確実に魔法の暴発を引き起こしていた。まるでそれを見抜くかのように、ココの描いた魔法にはその二本の矢だけが省かれている。キーフリーは信じられない思いで口を開いた。

 「どうしてこの二本の矢を描かなかったの?」
 「描かないほうが良いかなって思ったんです。教本でも見たことがなかったから」
 「教本に何が載っているか覚えていたの?」
 「なんとなく」

 キーフリーは感嘆のため息をついた。まだ彼女が魔法に触れてから1週間と少ししか経っていない。それなのに、もう教本の内容を一通り覚えていて、かつそれを実行に移したのか。
 ココが「駄目でしたか?」と身を固くするが、その逆だ。キーフリーの口から知らず笑みがこぼれた。

 「賢いな」
 「えっ?」

 ココが不思議そうに首を傾げるのにも構わず、キーフリーは彼女の描いた魔法陣を握りしめた。真っ暗な胸の奥に、一筋の希望の光が降って湧いてきた。
 自分でつばあり帽を追えないのなら、誰かに追わせれば良い。
 世界が見えなくなれば、誰かに見てもらえばいい。
 カルンでの一件を始め、もはやココはただの「つばあり帽に関する情報提供者」には留まらないほどに成長していた。彼女の知性、記憶力、機転、魔法への情熱、その全ては今よりもっと活用されるべきだった。彼女はキーフリーの手足となりうる、そしていつか失われる光への代替たりうる人物なのだ。何より、ココはキーフリーと同じくつばあり帽への因縁を持っている。キーフリーの意志を継ぐ者として、彼女以上に相応しい人物がいるだろうか?

  「最高だ……最高だよココ」

 ——彼女は僕の最高傑作となるべくして生まれてきたのだ。
 もっと彼女を鍛える必要があった。つばあり帽と渡り合えるほど強く、そして、何があってもキーフリーに従うほど“弱く”する必要がある。
 そんな邪な期待をかけられているとも露知らず、ココは褒められたのだと認識して、照れ臭そうに微笑んでいた。
 
 
 
 
 キーフリーの体調が回復してココが安心していたのも束の間、彼の指導はどんどん厳しさを増していた。魔法は中級レベルのものを教わるようになり、さらに魔法の訓練だけではなく、対人を想定した格闘術や武器の扱いも教わるようになった。その中でも、ココは特に格闘術が苦手だった。

 「魔法使いって、みんな護身術を習うんですか?」

 キーフリーの足払いを避けられず、草むらに尻餅をついた状態で、ココは息を切らしながら尋ねた。キーフリーは汗もかかずに涼しげな顔で隣に座り、水筒から茶を汲んでココに手渡した。

 「そんなことはないよ。ただ、つばあり帽は物騒な連中だからね。犯罪者集団と戦うわけだから、こっちもそれなりの準備は必要だ。カルンの時のように、いつ命を狙いにくるとも限らない」

 ココは茶に映る自分の顔を見つめた。確かに、カルンでは自分の幻影が協力的だったから命拾いしたものの、彼女が襲いかかってきたらひとたまりもなかっただろう。
 そう思うと、武器を持った相手に対して互角以上に立ち回った師のことが途轍もない実力の持ち主に思えてくる。魔法に関しても、教本に載っていないことがスラスラと彼の口から出てくることから、その知識は並大抵のものではないのだと推測できた。
 キーフリーはココが初めての弟子だと言っていた。これほどの魔法使いがなぜ今まで弟子を取らなかったのか、身寄りのないココを拾って指導してくれるのはなぜか、彼について考えれば考えるほどよくわからなくなっていく。思えば、ココは彼について何一つ知らないも同然だった。

 「先生は何者なんですか?」

 そう尋ねると、キーフリーは飲んでいた茶を噎せた。聞くタイミングが悪かったと反省していると、キーフリーが苦笑いしながら答える。

 「何者って、ただの人だよ。神様でも宇宙人でもないさ」
 「じゃあどうして、私にここまで優しくしてくれるんですか?」

 キーフリーは眉を上げ、それからぼんやりと何か考え込むような仕草を見せたが、やがて困り顔で微笑んだ。

 「君は物覚えが良いから、教えるのについ夢中になってしまう。僕の全てを託しても良い、と思えるほどにね」
 「あ、ありがとうございます」

 ココはつい破顔してしまう。キーフリーほどの魔法使いに全てを託しても良い、と言われるのは素直に嬉しかった。
 しかし、本当にそれだけなのだろうか。教えるのが楽しいというだけで、ここまで入れ込むのだろうか? 何も知らない教え子を、つばあり帽と渡り合えるまで強くさせるほどに?
 ココは腑に落ちない思いを抱えたまま、何を考えているのかわからない師の横顔を見た。すぐ側にいるのに、何故か遠く感じた。
 
 
 
 その晩、ココはなんとなく目が冴えてしまってベッドから起き上がった。喉の渇きを覚え、台所で水を飲む。読書灯が点いているのが目に入り、ココは居間の方へ目を向けた。
 長椅子でキーフリーが本を読んでいる姿勢のまま眠っていた。眼鏡も外していないし、灯りも消し忘れている。呼吸は穏やかで、目を休めているわけでもなく本当に眠っているのだとわかった。
 側に寄ってみると、眼鏡が少しずり落ちていた。寝返りを打って割れてしまったら大変だ、とココは眼鏡にそっと手をかけ、起こさないようにゆっくりと外す。そして、師の顔と眼鏡を交互に見つめた。
 キーフリーが右目を遮光レンズで覆っているのは知っていたが、どうしてそうしているのかは知らないな、とふと思う。初めて会った時も、片目を隠しているのが妙に印象に残っていた。
 どうなっているんだろう。
 それはほんの出来心だった。眼鏡を机に置き、そっと師の前髪に手をかける。その瞼がぴくりと痙攣した、気がして、
 
 視界が反転した。
 
 「!?」

 ばさり、と本が落ちる音がする。ココは素早い瞬きを繰り返した。遅れて、キーフリーに押し倒されているのだと理解する。
 小屋の天井を背景に、師の美しい顔が目に入った。月明かりに彼の銀色の髪が光り、澄んだ青い左目にじっと見下ろされていると、まるで今が現実ではないかのような感覚に捉われる。その目が緩やかに細められ、唇が開かれるのを、ココは夢見心地で見つめていた。

 「夜這いだなんて、ココは随分大胆な女の子だね」

 その言葉に、ココは突然ハッと我に返った。頰と耳に血液が集中して熱くなる。確かにそんなつもりはなかったとはいえ、寝込みを襲ったと解釈されても仕方ないなと思った。そして、キーフリーの意識がないのを良いことに、その右目を見ようとしてしまったことにバツの悪さを覚え、ココは目を伏せる。

 「ごめんなさい。そんなつもりはなかったんですけど、あの」
 「僕の右目が気になる?」

 そう直球で聞かれると、ココは言葉に詰まった。気にならないと言えば嘘になるが、キーフリーが黙っていたいのならそれを無理に聞き出すことはしたくなかった。
 そんなココの葛藤を見透かしたのか、キーフリーがふっと緩んだように笑う。なんとなく許された気がして、ココは師の目を見た。そして、続く言葉に、ココは自分の耳を疑った。

 「取られたんだ」
 「えっ?」

 取られた?
 誰に?
 その疑問を見透かしたかのように、キーフリーは口を開く。

 「つばあり帽が、僕の右目と記憶を奪ったんだ」

 ココは言葉を失った。
 世界からは他の全ての音が消え、キーフリーの言葉だけがココの頭を支配する。
 つばあり帽が、先生の目を……

 「僕も、昔は“知らざる者”だった。つばあり帽に虐げられ、生きたまま埋められていた僕を拾った師の慈悲で、僕は魔法使いになったんだ」

 あくまでも穏やかに、静かに、だが根底に確かな憎しみを漂わせ、キーフリーはそう言った。
 あまりに酷いその内容に、ココは絶句する。彼が受けたであろう、想像も及ばないほどの苦痛に思いを馳せ、胸がぎゅっと苦しくなる。それと同時に、キーフリーとの距離が急速に縮まったような、親愛とも同情ともつかない不思議な感覚を覚える。一体感とさえ言ってよかった。氷が溶けていくように、師への疑問が解けていく。
 だから、先生は私を助けたのか。
 私も、先生と同じつばあり帽禁止魔法の被害者だから。
 淡い月光を受けて、キーフリーの瞳が細波のように青く光る。もうココはその輝きから目が離せなくなっていた。
 無意識のうちに彼の頰に手が伸びる。その手にキーフリーの手が重なり、そっと包み込まれる。慈しむように微笑まれ、その美しさにココは息を呑む。師の額がそっと自分の額に重ねられ、手と手が固く繋がれるのを、ココは半ば恍惚としながら見つめている。

 「僕達は同じなんだ」

 唇が近づく。同意するように目を閉じる。触れられた所から二人を隔てる境界が消え失せ、文字通り一つになっていくのを、ココは黙って受け入れていた。

 きっとこうなる運命だったのだ。