Something wrong with you 4

 「あなたは誰?」

 ココがそう問いかけると、もう一人のココは穏やかに微笑んだ。よく見るともう一人のココの姿はうっすらと透けて見えている。魔法で映し出された幻影なのだろうか。その幻影は、どこからともなく魔法陣が描かれた紙を一枚、ココに差し出した。

 「どういうこと?」

 幻影はココの質問には答えず、身振り手振りを繰り返した。魔法陣、自分、巨鱗竜の順に指をさし、最後にあらぬ方向を示す。その指の先には白い塔がそびえ立っていて、目を凝らすとその側面に丸いものが描かれているのが見えた。あれも魔法陣のようだ。

 「あなたをこの魔法陣で操って、巨鱗竜の注意を引いている間に、あの塔に描いてある魔法陣を消せってこと?」

 ココがそう言うと、幻影はにっこりと花が開くような笑みを浮かべて頷いた。どうやらこの幻影は本物より随分と品が良いようだ。

 「そんなこと、できるのかな……」

 視線が落ちる。幻影が手渡してきた魔法陣を見ると、ココは急に不安になった。いつも教本で眺めているものより、一段も二段も複雑で難解な魔法陣だ。自分が何か書き加えただけで、魔法陣の精密さが失われ、果ては崩壊するような気さえしてきた。
 だが……
 ココは巨鱗竜をちらりと見た。ここから生きて帰るには、幻影の言う通りにするしかなかった。

 「やるしかない、よね」

 ペンを握り、覚悟を決めた。
 
 
 
 
 唾を飲む音さえやけに大きく聞こえる。キーフリーはじりじりと剣を構えた男から後ずさったが、距離をとった分、もう一人のキーフリーも距離を詰めてきた。首筋を汗が伝った。
 ココを探さないと。そう思うのに、目の前の男から目を逸らせなかった。これほどまでの殺気を向けられたのは初めてで、自然と全身の筋肉が緊張していた。深呼吸を繰り返し、思い通りに動ける程度の平静を得る。

 「何者だ?」

 キーフリーの問いかけにも、男は答えなかった。獲物を狙う虎のように、呼吸さえせずに佇んでいる。その剣に彫られている模様に、キーフリーは見覚えがあった。

 「水裂の魔法剣か……」

 刃に触れたあらゆる液体を切り裂く剣。偶然か必然か、水の魔法を得意とするキーフリーにとって相性の悪い得物だ。
 それでもやることは決まっていた。この男を殺し、ココを探しに行く。巨鱗竜の意識がこちらに向いていない今がチャンスだった。
 魔円手帳を取り出し、あらかじめ書いてあった陣を閉じる。魔法陣から炎の渦が現れ、もう一人のキーフリーが猛火に包まれた。真っ赤な炎の中に一筋の銀の煌めきが見えて、キーフリーはそれが何かを考えるより先に後ろに跳んだ。鼻先を剣の切先が掠める。熱の匂いがした。

 「燃えてない……」

 炎を切って飛び出てきた男は、その体、果ては服に至るまで、火傷どころか煤ひとつ付けてはいなかった。魔法陣で炎の効果を弱めた様子もない。燃えない“素材”で出来ているようだった。
 体勢を立て直した男は、キーフリーの腹部めがけて鋭い突きを繰り出す。それを横に交わし、薙ぎ払うように振られた剣を跳んで避け、魔法陣を描いた。空気中の水分が瞬く間に凝縮し、水の矢が男めがけて降り注ぐ。それを事もなげに切り裂いていく男を、キーフリーは目を凝らして観察していた。魔法剣に弾かれた水飛沫が男の肌にかかる。しかしその水は吸い込まれるように消え、男の肌には水滴一つ残っていなかった。

 「砂か」

 キーフリーは小さく呟いた。滑らかに動き、燃えなくて、水を吸収する素材。水裂の魔法剣を持っているのは、大量の水に曝露することを防ぐためだと考えると納得がいった。先ほどからやたら暑く感じるのも、湿度が高いからだろう。
 砂は湿れば固まる。乾けば崩れる。男を殺すには乾かしてしまえば良い。種さえ見破ってしまえば、解法は単純だった。

 「反撃とさせてもらおうか」

 そう言った瞬間、男はキーフリーが何を描こうとしているのかを察知したのか、音速に迫るほどの速さでこちらに迫ってきた。
 突きを横に転がって避ける。足に壁がぶつかり、その壁を蹴った勢いで男の横腹を左肩でどつく。男の上体がぐらりと揺らいだかと思うと、再び剣を構えてこちらに向かってくる。首を狙って剣を薙ぎ払ってくるのを見切り、素早くしゃがんで足払いを繰り出した。バランスを崩し前方に転倒した男の背後に素早く回り、距離を取る。あとは陣を閉じるだけだった。
 男と目が合った。
 そこからの動きは時の流れに細工が仕掛けられたかのようだった。男が地に着いた左膝を軸にして、上半身をぐるりと回転させる。右腕がまるでボールを投げるかのような滑らかな挙動を見せ、男の右手から水裂の魔法剣が離れる。剣は真っ直ぐな軌跡を描き、キーフリーの左目を狙って飛び込んでくる。

 「……!!」

 咄嗟に体を左に捻った。刃にキーフリーの顔が映ったかと思うと、辺りは急速に動き出し、0.1秒後には壁に魔法剣が突き刺さる音がした。頭から血の気が引くと同時に、心臓がドクドクと力強く胸壁を叩いた。
 剣を投げてくるとは予想していなかったが、追い詰められた自分がまさにやりそうな事だ。キーフリーは自分の姿を真似た人形に半ば感心しながら、陣を閉じた魔法陣を翳す。

 「終わりだ」

 灼熱の風が男を包む。砂の城が風で崩れ落ちるように、男の姿も消えていった。
 砂粒一つさえも残っていなかった。
 
 
 
 
 ひらりひらり、と巨鱗竜の前で踊る幻影を見つめ、ココは唾を飲んだ。
 とりあえず幻影の操縦には慣れてきたものの、操縦に気を取られて周りの景色を見る余裕がない。先ほどから壁にぶつかったり、転んだりばかりしているので、ココの体にはどんどん打ち身や擦り傷が増えていった。壁も床も真っ白で距離感が掴みにくいし、やたら暑くて集中力が削がれる。コンディションは最悪だった。
 どうにか巨鱗竜を離れた場所へ誘導し、ココはやっとの思いで魔法陣の描かれた塔にたどり着いた。もうすぐここから出られる。巨鱗竜から注意を逸らさぬまま、半ば這いずるようにして階段を登っていると、あるものを見つけた。

 「先生……!」

 見覚えのある灰色のとんがり帽子が白い迷路の一箇所で揺れていた。そして、それと全く同じ形をしたものが、相手に剣を向けて立っている。どちらかは先ほどのココと同じ幻影なのだろう。ただ一つ明確に違うのは、ココの幻影はココに対して協力的だったのに対し、キーフリーの幻影は明確にキーフリーを殺そうとしていることだった。
 鏡のようにそっくりな二人は、一方が剣を持ち、一方がペンを持ち、舞うような戦いを繰り広げていた。剣の猛攻の合間に魔法による反撃が繰り出される。ペンを持っている方が本物の先生だ、とココは直感的にそう思った。

 「どうしよう、助けないと」

 果たして師の実力が助けを求める程なのかはわからなかったが、ココはどうしてもキーフリーを助けに行きたいと思った。それに、塔に描かれているこの魔法陣を本当に消しても良いのか、キーフリーに確認を取りたかった。
 だが戦闘経験のないココが生身で加勢に行っても足手まといになるだけだ。巨鱗竜の誘導もしなくてはいけない。体がもう一つあれば良いのに。そこまで考えて、ココは息を飲んだ。

 「魔法陣を、もう一つ描く……?」

 ココは手元の魔法陣を見た。
 直径は20センチ程度、水の紋を取り囲むようにして、覆い、反射、収束、様々な種類の矢が描かれている。空気中の水分を凝集させて作り出した水の人形に、術者の姿を投影する魔法のようだ。その精巧な魔法陣の隙間に埋まる拙い浮遊の矢は、ココが描いたものだった。

 「でも……」

 これを自力で書くのは到底無理だ、とココはひしひしと感じていた。水の柱を作るのでさえ精密なバランスが必要なのだ。それを移動させるとなれば、どれだけの修行が必要だろう。今のココにはとてもできなかった。
 せめて先生が勝てますように。
 ココは祈るような気持ちでキーフリーを見つめていた。
 師は丸腰だったが、それでも武器を持った相手に対して一歩も引けを取らなかった。炎が、水の矢が、そしてキーフリーの直接攻撃が彼の幻影を襲う。幻影による剣の射出をすんでのところで避けると、キーフリーの乾燥魔法が炸裂した。幻影が跡形もなく消し飛んでいく。幻影を構成していた砂粒が吹き飛ばされ、そしてまたキーフリーの背後に集まっていくのを、ココの目が捉えた。

 「あ……!」

 師は気づいていない。ここからでは声も届かない。今から走っても到底間に合う距離ではない。
 ドクン、とココの心臓が跳ねた。

 「描かなきゃ」

 この魔法陣を描かなきゃ。でも、どうやって? ココはもう一度手元の魔法陣を見た。その時、脳裏にある光景が思い浮かんだ。キーフリーと初めて会った日の記憶、つまりココが禁止魔法を描いた時の記憶だった。
 そうだ、写せばいいんだ。
 ココは懐から紙を取り出し、魔法陣の上に重ねた。目を凝らせばなんとか手本が透けて見える。ペンを魔墨につけ、紙につけようとしたところで手が止まった。
 脳裏に石になった母親の姿が蘇った。

 「……どうして、こんな時に……!」

 ココが魔法を“写す”のはあの晩以来だった。しかもこれは禁止魔法も混ざっているかもしれないのだ。またあの惨劇を繰り返すのでは、という恐れが抜けなかった。
 ちらりとキーフリーの方を見た。何かを探している。後ろの砂はみるみるうちに集まり始め、人ほどの大きさになっている。師がそれに気づく様子はなかった。

 「せ、先生……!」

 ココの心臓が早鐘を打った。早く描かないと、早く助けないと、先生が死んじゃう。だが魔法陣を描く手は恐れに震え、硬直していた。
 いつの間にかココの横にはキーフリーが座っていて、ココの前に紙を差し出していた。驚くが、それはただの脳の悪戯、つまりは回想だった。
 
 
 
 『最初は簡単なものから描いていこう。これは光の魔法だ。ランプとかによく使われてる。さぁ、描いてごらん』
 『はい』
 『……………………。どうしたの?』
 『…………ご、めんなさい。腕が、動かなくて。怖くて……』
 『そうか。無理もないね。魔法を描くのはあれ以来初めてなわけだし……でも、もう大丈夫だよ。君はもうあの夜と同じ君じゃない。だって、正しい魔法を学んだんだから』
 『正しい、魔法……?』
 『そう。言っただろ?』
 
 『君が描くのは、人を幸せにする魔法なんだ、って』
 
 
 
 「人を、幸せに……」

 回想が終わる。思考の霧が晴れ、小屋の机が殺風景な塔の階段に、簡単な光の魔法陣は難解な水の魔法陣に変わり、隣にいたキーフリーは微笑みを残して消えた。
 魔法陣をもう一度見る。先程より遥かによく見えた。矢の一つ一つが、自らの持つ意味を語りかけてくるようだった。私は反射、私は破砕、私は収束……
 その中で、たった2本の矢だけが沈黙を貫いていた。不気味な存在感を放つ見知らぬ矢、これが、これこそが“つばあり帽”の筆跡なのだ、とココには手に取るようにわかった。
 ならば、この矢を描かなければいい。

 「待ってて、先生……今助けに行くから」

 キーフリーの背後の砂は再び相手の姿を象り、今しがた壁から抜いたばかりの剣を振りかぶっている。その剣が振り下ろされると同時に、ココの手元から、水の妖精が飛び立った。
 
 
 
 
 男が跡形もなく消し飛んだことを確認し、キーフリーはため息を吐いた。
 先ほどの戦闘でずっと目を凝らしていたこともあって、左目の奥が疼くように痛かった。最近は落ち着いていると思ったのに、再発したのか。苛立ちを堪えながら、キーフリーは周囲を見回す。白ばかりの景色が余計に目に眩しく、吐き気を覚えるほどだった。

 「……!」

 どこからか声が聞こえ、キーフリーはそちらに顔を向けた。白い塔を取り囲む階段に、ココが座り込んでいた。

 「ココ!」

 どこか怪我でもしたのか。そう思い、キーフリーは塔の方へ一歩踏み出す。しかしココは鬼気迫る表情で何かを描いていた。何を? さらに近づこうとして、足元に伸びる不自然な影に気がつき、振り向き、息を飲んだ。
 ああ、油断した。
 背後でもう一人の自分が再び現れ、水裂の魔法剣を振りかぶっていた。もう防御のための魔法陣を描いている暇も無かった。そうか、砂だから、また集まったのか。そんなことにすら気づかず気を抜いていた自分に落胆し、そしてその生が呆気なく終わることにもまた落胆する。こんなものか。
 ココを巻き込んだ意味がなかったな。
 そんなことを思いながら、降ってくる絶命の痛みに目を瞑る。
 
 バチャッ。
 
 「……?」

 肉を斬るには軽い音がした。頰に跳ねた泥の感触で、キーフリーは目を開けた。
 目の前で、自分と全く同じ形をした男がココに抱きしめられていた。その肌が触れ合うところから男とココが泥となって溶けていき、文字通り一つになって泥塊と化していくのを、キーフリーは呆気にとられて見つめていた。
 質の悪い幻覚でも見ているのだろうか。
 剣が地面に落ちる金属音がして、キーフリーの目が覚めた。これは幻覚じゃない、現実だ。あれはココではなくて、ココの形をした水人形だ。あれほど高度な魔法を教えた覚えはなかったが、と塔にいる本物のココに顔を向ける。
 巨鱗竜がココの方へ飛んできていた。

 「危ない!」

 即座に水柱の魔法陣を描き、巨鱗竜の方へ向ける。巨鱗竜が突如出現した滝に押し潰されるのと同時に、キーフリーはココの元へ飛び立った。間近でココを見ると、顔には泥がついていて、その細い手足には擦り傷や打ち身をいくつも作っていた。

 「先生! 無事で良かったです」
 「君のおかげだ。とにかくここを出よう。出る手段は見つけた?」
 「はい。あの魔法陣を消せば、多分出られると思います」

 ココは塔の頂上付近に描かれている魔法陣を指差した。確かに、見た事もない怪しげな魔法陣が描かれている。紋の種類はわからなかったが、矢の種類と形からして、この空間を閉じている魔法陣のようだった。

 「行くよ、捕まって」
 「はい!」

 ココを抱きしめ、巨鱗竜の攻撃を交わしながら魔法陣の元まで飛んでいく。水の矢で魔法陣を削ると、突如空間が歪み始め、空をも揺らすほどの地響きが響いた。いや、実際に空が揺れている。もはや飛んでいるのも困難だった。

 「ココ、絶対に離れないで!」
 「は、はい……!」

 崩壊の衝撃から守るように、自分とココを水の壁で覆う。浮遊感が内臓を包み、キーフリーの視界が暗転した。
 
 
 『よくできました』
 
 
 
 
 足が地面につく感触がして、キーフリーは目を開いた。見覚えのある景色、すなわち元いたカルンの街並みが目に入る。腕の中で気を失っているココを壁にもたれさせ、キーフリーは周囲を見回した。

 「逃したか…」

 足元にタイルが散らばっていること以外は、最初にこの路地裏に入った時と何も変わっていなかった。つばあり帽がこの場から逃げたような痕跡もない。実際、空間を丸ごと創造したり、砂人形を自律的に動かしたりできるほどの魔法使いが逃亡の痕跡を残しているとも思えなかった。
 収穫なしか、とキーフリーは口の中で呟く。予想外の襲撃であったことを考えれば、無事に帰れただけでも御の字なのかもしれない。

 「うぅ……」

 呻き声を上げて、ココが目を覚ました。焦点の合わない目をして立ち上がったかと思うと、瓦礫に足を取られて壁に手をついた。

 「探さないと……仮面の魔法使い……」
 「待って、ココ」

 そのまま表通りの方へ歩き出そうとするココの腕を捕まえる。ココはそこで初めてキーフリーに気づいたかのように、ビクリと体を硬直させた。血の気を失ったようだった頰に赤みがさし、ココとキーフリーの目が合った。

 「あ……先生……」

 はっ、とココが正気を取り戻したような声をあげた。

 「先生、私本当に見たんです。私に絵本を売った人、仮面のつばあり帽を……なのに見失っちゃって、あんなことに巻き込んでしまって、私、私……!」
 「わかってるから、落ち着いて」

 まるで幽霊を本当に見たとでも言うかのような必死さだった。泣き出しそうになるココの背を撫で、宥める。軽度の恐慌状態にあるのかもしれなかった。無理もない。買い物に来ただけで、異空間に拉致され襲撃されるとは誰も思いつかないだろう。

 「つばあり帽の方から接触してきたんだ。またそのうち会えるさ」
 「でも……」
 「もしこの近くにつばあり帽がいたとしても、僕達は戦えない。僕も君ももうボロボロだ。一度帰って休もう」

 ココはしばらく黙っていたが、やがて悔しそうに頷いた。その姿に、夜な夜な大講堂を抜け出しては帰ってくる昔の自分の姿が重なり、キーフリーは無意識のうちに彼女の頭を撫でていた。