Something wrong with you 2

 何か恐ろしいものに駆り立てられているような気がして、ココはパッと目を覚ました。目に映ったのは自室とは違う知らない小屋の天井で、さらに混乱が加速する。早まる息を抑え、ココは状況の整理をした。
 そうだ、私……とんでもないことをしてしまったんだ。
 ココは胃のあたりがぎゅっと絞られるような不快感を覚えた。
 昨晩、興奮のままに魔法を使い母親と家を石に変えてしまったココは、たまたま駆けつけたキーフリーのおかげで一命をとりとめた。絶望と悲嘆にくれるココに、キーフリーは母親を救うため魔法使いになること、そしてしばらくは彼の家で寝食を共にしつつ魔法を学ぶことを提案したのだった。
 あの恐るべき魔法から助かったのは運が良いとしか言いようがなかった。おまけにキーフリーの温情によって、本来ならば消えていたはずの記憶も保たれている。擦り切れそうなほど見返した絵本の記憶は、あの惨劇のショックを経ても色あせることを知らなかった。ココは安堵と寂寥の混ざったため息をついた。
 改めて周囲を見渡してみる。ココは寝台の上で、薄い毛布をかけて起き上がっていた。寝台以外の家具がない無機質な部屋には、魔法陣のスケッチと難しい題名の本が散らばっている。いつもなら喜んでその魔法陣を眺めただろうに、今のココにはそれが得体の知れない怪しいものとしか思えなかった。
 小さな窓から外を伺うが、鬱蒼と生い茂る木々が目に入るだけだった。部屋の外からはかちゃかちゃと食器がぶつかる音が聞こえて、ココは扉を開けた。
 
 
 「おはよう、ココ」

 台所に立っていたキーフリーは、ココの姿を認めると振り返ってふんわりと微笑んだ。ココはおずおずと挨拶を返す。

 「おはようございます……」
 「朝ごはん作ったんだけど、食欲ある?」

 食卓の上にはバタートーストが乗せられた皿が二枚あった。横には蜜のたっぷり詰まった山りんごが添えられている。焼きたてのパンの匂いが鼻をくすぐった途端、ココのお腹がぐるると存在を主張して、ココは頬を染めた。

 「い、いただきます」
 「良かった。じゃあ食べよう」

 食卓には椅子が一脚しかなく、キーフリーは手近なところにあった木箱を持ってきてそこに座った。キーフリーがパンに齧り付くのを、ココはぼーっと見つめる。
 憧れて止まなかった、雲の上の存在だと思っていた“魔法使い”のベールが急に剥がされたような気持ちだった。しかも、今日からココも魔法使いになるのだ。あまりに急なことで、まるで現実味がなかった。
 ココの視線に気づいてか、キーフリーが不思議そうに首をかしげ微笑んだ。花の咲くような笑みだった。

 「どうしたの?」
 「い、いえ! その……実感が湧かなくて。私が……魔法使いになるなんて」
 「確かに、そうだよね」

 キーフリーは特に暗い顔をすることもなく、包み込むような柔らかな表情で相槌を打ち、珈琲に口をつけていた。朝の光が差し込む小屋には、ココの心情とは不釣り合いなほどに穏やかな時が流れていた。

 「魔法は怖い?」

 パンを食べ終え、山りんごに口をつけたココにキーフリーが尋ねる。ココは昨晩の惨劇を思い出して目を伏せた。

 「少し……」

 実際は少しどころではなくだいぶ恐ろしかったのだが、ココは控えめにそう答えた。キーフリーはそっか、と優しい声で頷く。

 「それはそうだよね。でも、大丈夫。ちゃんと説明するよ」

 そう言うとキーフリーは手元の紙にメモを書きながら、魔法の歴史を語った。
 かつて魔法は誰にでも使える身近なものだったこと。
 ところが、その力のせいで何度も争いが起き、地を変え理を変えるようなおぞましい魔法が数多く書かれたこと。
 血と争いの果てに、良識ある人々は「魔法使い」として結託し、人々から魔法の記憶を奪い、秘密を守る弟子にだけ教え伝えるようにしたこと。

 「だから、魔法使いは秘密がバレるのを恐れるんだ。かつてのような無法地帯に戻ることを恐れてね」
 「そうだったんですね……」

 事実、ココは身近になった魔法を使って世にも恐ろしい悲劇を生み出してしまったのだ。ココは自分がおとぎ話に出てくる罪人にでもなったような気分だった。落ち込むココを見て、キーフリーはさらに続ける。

 「昨日の事件が起きたのは君のせいじゃない。ああいう、人に危害を加える魔法は本来ならば禁止されているはずなんだ。魔法使いではない人に魔法の知識を与えることも、もちろん魔法使いの掟に反している」
 「じゃあどうして……!」

 食い気味に尋ねたココの目を、キーフリーはじっと見返した。静謐さを湛えたその目の奥で何を考えているのか、ココには読み取ることができなかった。

 「つばあり帽だ」

 キーフリーは静かに、だが吐き捨てるようにそう言った。つばあり帽、とココは復唱する。

 「古の時代の帽子や仮面で顔を隠し、禁止魔法を使う危険な魔法使い達。彼らの目的は誰も知らない」
 「仮面……ってことは、私にあの絵本を売ったのも……」
 「その通り、恐らくは彼らだろう」

 彼らは悪意を持ってココにあの絵本を売ったのだ。まるで、ココに禁止魔法を描かせることを目的としていたかのように。そして自分はまんまと彼らの思惑に引っかかったというわけか。どうしてそんなことをするのかがわからなくて、ココは恐怖にぎゅっと拳を握った。末恐ろしい犯罪の一端を担ってしまった気分だった。

 「でも、希望はある」

 キーフリーの一言に、ココは目を丸くして彼を見つめた。「絵本のことですか」とココが問うと、彼は頷いた。

 「つばあり帽は必ずまた現れる。君の持っていた絵本は無くなってしまったけど、彼らはきっと同じ絵本を持っている。つばあり帽を見つけて、その絵本を奪えばそこに魔法陣が載っているはずだ。そうしたらその解き方もわかるかもしれない」
 「つばあり帽を……」

 ココは無意識のうちに唾を飲んだ。自分にそんな真似ができるだろうか? まだまともな魔法を描いたことすらないのに?
 そんなココの不安を察知したのか、キーフリーはまた微笑んで明るい声をあげた。

 「まぁ、今はそこまで深く考えなくていいよ。君が描くべきは、人を幸せにするための魔法なんだから」

 そう言うとキーフリーはメモを裏返し、なにやら魔法陣をささっと書きつけた。なにが起こるのだろう。期待か不安か、ココは胸の鼓動が早まるのを感じた。キーフリーが魔法陣を閉じると、紙が一瞬淡く光る。

 「こんな風に」
 「わぁ……!」

 魔法陣から水でできた薔薇の花が立ち上がり、ココは感銘に息を飲んだ。初めて魔法を見たときと同じ、胸の奥から湧き上がるような感動がココを包む。
 これこそがココの憧れていた魔法なのだ。「魔法は世界を彩る奇跡」、その言葉がぴったりだった。
 瞳を爛々と輝かせ、食い入るように水の花を見つめるココを見て、キーフリーはくすっと笑みを零した。

 「気に入ってくれたなら嬉しいよ」
 「はい……! すごいです、キーフリーさん!」
 「じゃあ早速勉強だ」

 そう言うと、キーフリーは本棚から本を一冊取り出して、ココに差し出した。少し色褪せた表紙には「初学者向け魔法教本」と書かれている。

 「僕はこれから街に行ってくるから、ココはこれを読んでお留守番していて。難しいところは帰ってきてから解説してあげるから」
 「はい! 頑張ります」

 ココは早速本に夢中になっていたが、キーフリーがローブを羽織って玄関に立つのが視界の端に映ると、ぱっと顔を上げた。

 「あの……行ってらっしゃい」

 それを聞いたキーフリーは一瞬驚いたような顔をしていたが、すぐにいつもの柔和な笑みを浮かべた。

 「……ああ。待っていてね」

 ローブの裾をはためかせ、キーフリーがこの小屋から飛び去っていくのを、ココは窓からぼんやりと見つめていた。
 
 
 
 
 草原に冷たい風が吹き付ける。キーフリーは跨っていた馬から降り、木の陰に隠れるようにしてそっと向こう——ココの家“だったもの”の様子を伺った。
 近隣住民の通報があったのだろう、ココの家の周りには門番茨の種が撒かれ、調査のために魔警団が数名上空を飛び回っていた。忙しなく飛び回っている様子からして、彼らもここを発見したばかりのようだ。
 キーフリーは持っていた魔円手帳に小さな魔法陣を書きつけた。集音の魔法だ。風に乗って微かに聞こえるのみだった魔警団の会話がはっきり聞き取れるようになり、キーフリーは息を殺して耳を傾ける。

 「生存者は?」
 「いや……この石にされた女しか人間はいなかった」

 そうか、という男の残念そうな声が聞こえる。もう一人の男が続けた。

 「ただ、二階の窓から部屋の中にかけて、石が抉られたような穴があった。明らかに魔法によるものだ」
 「穴……?」

 キーフリーの心臓はドクリと跳ねた。
 自分が最後に家を見たとき、家は丸ごと結晶化していて、虫の一匹さえも入れるような隙間などなかったのに。
 食い入るように魔法陣に耳を傾ける。引き続き魔警団の会話が聞こえた。

 「この家に住んでたのは母親と娘だけだって話だろ? やっぱり娘が禁止魔法を書いて、逃げ出したのかねぇ」
 「しかし、一体どこで禁止魔法を知ったんだ。そもそもこの村は知らざる者しかいないはずだろう。娘の部屋と思しき場所にも、魔法の道具は一切残っていなかった。持ち出して逃げたのか……?」

 話を聞くごとにキーフリーの心拍数はどんどん上がっていった。もっと聞きたいと身を乗り出したその時だった。

 「仕方ない、辺りをもう一度探すか。付近の森もしらみつぶしに探せ」
 「っと……戻るか」

 魔警団の視線がこちらに向いた。これ以上は留まっていられなかった。彼らが動き出すよりも早く、キーフリーは馬に跨り颯爽と来た道を引き返した。
 その間も、キーフリーの頭の中を魔警団の言葉がずっと鳴り響いていた。冷静になるべく、キーフリーは澄んだ高原の空気を胸に吸い込んだ。状況を整理する必要があった。
 まず、昨晩キーフリーがココを助け出した時点では、家は丸ごと石になっていて、勿論穴など空いていなかった。絵本も家と共に凍りつき、キーフリーは仕方なく絵本の回収を諦めたのだ。そして言わずもがな、他に不審人物の影などなかった。あの場で一番不審な人物はキーフリーだった。
 それが一晩明けた今朝では、家に謎の穴が開き、ココが魔法を描いた全ての痕跡が消されていた。自然現象でないことは明確だ。誰かがその証拠を消したのだ。
 一体誰が証拠を消したのか? 考えるまでもなく、答えは明白だった。

 「つばあり帽か……」

 口にしておきながら、キーフリーは己の背を冷や汗が伝うのに気がついた。
 ココが禁止魔法を使ってからまだ半日も経っていない。つまりつばあり帽はこの世界のどこかから、わずか半日も経たないうちに禁止魔法が描かれたことを感知し、そして証拠隠滅に動いたことになる。幾ら何でも早すぎる。
 そしてキーフリーの頭にもう一つ、ある可能性が閃き、その眉間に皺が寄った。
 ——まさか、ココの居場所も知られている?
 ココを連れて小屋に戻る時にはしつこいほどに周囲の確認をし、誰も追跡者がいないことは確認した。しかし、つばあり帽の手札は未知数な上、ココを失って計画が振り出しに戻ってしまうリスクを考えると、その可能性を切り捨てることはできなかった。
 キーフリーは唇を引き結ぶと、小屋に向かって全速力で馬を走らせた。
 
 
 
 小屋に戻ってきた。キーフリーは手早く手綱を木にくくりつけると、大股で玄関の戸を開けた。一見して誰かが入ってきたような跡はなかった。

 「ココ?」

 返事がない。キーフリーは焦りを覚えつつ、もう一度目を凝らして部屋を見渡した。彼女の姿は存外すぐ見つかった。窓のそばでうずくまり、小刻みに肩を震わせていた。
 負傷しているのかと思ったが、押し殺したような嗚咽が聞こえてキーフリーは考えを改めた。泣いているのか。どうせホームシックと言ったところだろう。やれやれ、とキーフリーは内心でため息をつく。
 とりあえずココが無事だとわかったはいいが、慰めるという別の任務が降りかかってきた。泣いている女性を慰めるのは面倒だが、放っておくわけにもいかない。キーフリーはココの肩に手を伸ばした。

 「どうしたの?」

 ココはそこで初めてキーフリーの帰宅に気づいたかのように顔を上げた。彼女の涙に潤んだ瞳がキーフリーを捉える。彼女はやや動揺していたが、それは留守中に襲撃にあったからという類のものではなく、単にキーフリーの帰りが予想以上に早かったからだと見受けられた。

 「あ、お、お帰りなさい……早かったですね」
 「君の服を買おうと思ったんだけど、サイズがわからなくて。それより、何かあったの?」
 「いえ……なんでもないです」

 明らかになんでもなくはないようにココが眉を下げた。強がっている、というよりはキーフリーに迷惑をかけるのが嫌で遠慮しているようだった。とはいえ、ここで「家が恋しくて」とか、「自分の行いを悔やんでいて」などと正直に理由を述べられても、彼にはどうしようもない。
 彼女は涙を拭いて立ち上がると、努めて明るい声を出して微笑んだ。

 「お買い物ですよね、行きましょう!」
 「そうだね。一緒に行こうか」

 目を離すよりは手元に置いておく方が安全だ。それにキーフリーが買い物をする間も無く帰宅してしまったのも事実だった。
 キーフリーは彼女の手をとると、外に繋いであった馬に乗せた。

 「わぁ、私馬に乗るの初めてなんです!」

 ココは馬上で嬉しそうに笑う。今泣いた烏がもう笑うとはこのことか、とキーフリーは感心した。
 
 
 
 
 “知らざる者”が集まる街に来た。服屋への用事があるココには金を渡して必要なものを買うように言い、その間キーフリーは食料品の買い付けに来ていた。
 赤、黄、茶、緑、様々な色が並ぶ市場を、キーフリーは買うべきものだけを考えて無感情に歩いていた。生来食事に対する興味が菲薄だった。一人で暮らしている時は食事に気を遣うこともなく、気を抜くと食事を抜いていることもザラだったが、流石に成長期の少女に同じ生活を強いるのは虐待だ。以前本で見た「栄養バランスの良い食事」の絵を思い出しながら、次々と食材を購入していく。
 と、甲高い声がキーフリーの耳についた。みすぼらしい服を着た少年が萎れかけた花を売っている。周囲の露店の店員からは冷ややかな目で見つめられているが、彼はそれを気にも留めなかった。

 「お兄さん、この花買っとくれよ……! 今日の飯が掛かってるんだよ」

 懇願するような物言いだった。いつもならそのような手合いには一瞥もくれず歩き去っていたのだが、籠に入った霞草の花束が、何とは無しにキーフリーの目を惹きつけた。
 これを渡せばもっとココと親密になれるかもしれない。直感的にキーフリーはそう思った。ココが家恋しさに泣いていたことも気にかかった。——尤も、それは同情や憐れみの類ではなく、彼女の信用を得るための執念によるものだったが。
 キーフリーが銅貨を少年に渡すと、少年は自分で売ったというのに信じられないようなものを見る目でキーフリーを見た。

 「え……!? か、買ってくれるのか!?」
 「自分で売ってるんじゃないか」
 「あ……ありがとう! おい、お前達! 売れたぞ!」

 少年が背後に向かってそう叫ぶと、彼よりももっと幼い子供達が物陰からひょこっと顔を出した。子供らが嬉しそうに少年の元へ走ってくるのを、キーフリーは見向きもせずに歩き去る。
 魔法使いに売り物の鮮度など関係ない。
 キーフリーは誰もいない物陰で繰り返しの魔法陣を描き、それを花束に向かって翳した。花はみるみるうちに生気を取り戻し、あたかも咲いたばかりのような美しさを誇っている。
 それを見つめながら、キーフリーはため息をついた。

 「人の体にも使えたらな」

 魔法の真理を追い求めているキーフリーにとって、禁止魔法は自らを傷つけた殲滅すべき対象であると同時に、半ば憧れでもあった。つばあり帽は見つけ次第、彼らへの用を果たしてから殺そうと常々思っているが、禁止魔法の知識が失われてしまうのは惜しかった。
 キーフリーが禁止魔法に手を染めないのは、つばあり帽への復讐が終わった暁には魔法界に腰を据えたいと思っているからだ。禁止魔法なしで片目と記憶を取り戻す方法については未だ研究中だが、魔警団という公的権力を敵に回すと大変面倒臭いことになるのはわかりきっている。人殺しの痕跡よりも、禁止魔法の痕跡の方がよく目立つのだ。
 そう物思いにふけっていると、視界の端を若草色がふらふらと通り過ぎていった。キーフリーはその後姿に声をかける。

 「おーい、ココ?」
 「あっ、キーフリーさん! 用事が済んだので探していたんです」

 通りを歩いていたココが振り返り、笑みを浮かべて駆け寄ってきた。紙袋には最低限度の衣料品しか入っていなかった。遠慮を弁えている娘で良かった、とキーフリーは安心する。

 「買い物は終わりましたか?」
 「うん、お待たせ。それと……これ」

 キーフリーはココに先程の花束を渡した。ココは目を丸くしてそれを受け取り、花束とキーフリーの顔を交互に見た。

 「私に?」
 「道で売ってたから。君に元気を出してほしくて」

 キーフリーがそう言うと、ココは魔法を見たときと同じくらい嬉しそうな顔をして、その花束を胸に抱きしめた。

 「嬉しい……ありがとうございます!」

 そう言って彼女は、純粋無垢を絵に描いたような顔で笑った。やはり単純な娘だと思ったものの、その笑顔を見ていると悪い気はしないのだった。