Something wrong with you 1

 賽は振るたびに目が変わる。

 
 
 ココは平凡な少女だった。山と草原以外には何もないこの小さな村で生まれ育ち、母親の営む仕立て屋を手伝って過ごす、ごく普通の少女だった。ただ、魔法に対する憧れだけは人並みはずれて強かった。
 大空を翔ける羽根馬車、常に透き通った水を保つ泉、暗闇の道を照らす灯火の石畳、魔法が生み出した全てのものは、いつもココの心を激しく昂らせた。幼い頃の夢は魔法使いになることだったし、魔法使いになれるのは生まれつきの才をもつごく一握りの人間だとわかっても、魔法への憧れは尽きることはなかった。
 しかし、魔法の真理に近づくことを切望しながらも、心のどこかで、自分はこのまま一生この狭い村で、仕立て屋を営んで暮らすことになるのだという諦めを抱いていた。父が病死し、他に兄弟もいない以上、母をこの村において自分が出て行くなどということはココには到底実行できるものではなかった。そう、この狭い世界で一生を終えるのだからこそ、せめて心だけは魔法への憧れに飛び立っていたかったのだ。
 
 
 
 
 青く高い空を背景に、白く美しい天馬が車を引き、速度を落として村の草原へと降り立った。天馬が緩く嘶き、中から三人の女性が出てくるのを、ココは家の屋根から落ちそうなほど身を乗り出して見つめていた。

 「お母さん! 羽根馬車が来たよ! おかあさーん!」

 羽根馬車が降り立つところなんて、初めて見た。しかもこんな辺境の村に来るなんて、夢みたいだ。
 ココは大声で母親を呼びながら作業場への梯子を駆け降りた。しかし返事はない。いつもなら「はいはい」と呆れ気味の返事が返ってくるのにな、と訝しみながら、一階の店に続く扉を押し開けた。

 「お母さん?」

 どん、と何かにぶつかる感触がして、ココは慌てて扉を開ける力を弱める。どうやら扉の外に客がいたようだ。わずかな隙間からするりと身を滑らせ、ココは客をおずおずと見上げる。

 「ごめんなさい! 気づかなくて」
 「……いや、僕こそごめんね、ドアの前にいて」

 優しそうな客で良かった。ココは穏やかな笑みを浮かべる男性を見上げた。
 銀色の髪に淡い水色の瞳、片目を黒く覆う眼鏡。背はスラリと高く、洗練された雰囲気を纏っているし、きっと街から来たのだろう。彼の存在が浮世離れしているように感じるのは、片目を髪で覆い隠しているせいか。
 なぜか目が離せなくて、ココは惚けたように男性を見つめる。その視線に気がついたのか、男性はニコリ、と愛想よく微笑んで、店内を見渡した。

 「どうやら混んでいる時に来てしまったみたいだね」

 ココもつられて店の様子を伺った。
 確かに狭い店内は普段より多くの人が詰めかけていて溢れかえっていた。実質ココの母親一人で切り盛りしている仕立て屋は、客が三人以上来るとすぐ手一杯になる。店の中央でレースを手に取りはしゃいでいる女性らは、忘れもしない羽根馬車から降りてきた人たちではないか。

 「あ、あのお客様、天馬馬車から降りてきた人だ……!」
 「ココ、いるなら手伝って! そちらの方、ご注文は?」

 ココは羽根馬車を見に行きたくてウズウズしていたが、母親に手伝いを言いつけられてしまった。注文を聞かれた男性がポケットからメモを取り出す。

 「煙色の布が欲しくて。お忙しいなら後でも構いません」
 「私、採寸してきます」

 採寸はココの得意分野だった。ココがそのメモを受け取ると、男性は意外そうにまじまじとココを見る。それを見て、母親がふふっと微笑みながら補足した。

 「ココは上手いのよ」
 「へぇ、ならお任せしようかな」

 感心だ、とでも言いたげな男性の視線を背に、ココはくるりと振り返って母親の顔を見上げた。

 「ねぇ、終わったら羽根馬車見に行ってもいい?」
 「お客様のもので遊ぶ気じゃないでしょうね? 壊しても直してくださる魔法使いはいないのよ?」
 「大丈夫、見るだけ! もう魔法使いになりたいなんて言わないから……!」

 一生に一度のお願い、と言わんばかりに目を潤ませると、母親がため息をついた。

 「仕事が早く終わったらね」
 「やったぁ!」

 憧れの羽根馬車を間近で見られるなんて!
 ココはとびきりの笑顔を浮かべた。早く見に行きたいと浮き足立つ気持ちを抑えながら、テキパキと煙色の布を探し、採寸の準備をする。机の上に布を置いて、手早く採寸道具を取り出し、皺ができないように布を広げた。そして、一旦羽根馬車のことを頭から消す。この作業には集中が必要だ。
 目を閉じ、息を吸う。頭の中は一度完全な無になる。そして目を開くと、引くべき線が自然とココの目には見えていた。それに従うように、呼吸を止めて彩色石をまっすぐに引く。
 布には1ミリのブレもない正確な直線が引かれ、ココはふぅ、と溜めた息を吐き出した。
 ふと見上げると、男性が腕を組みながらまじまじとその手際を見ていた。

 「上手だね。まるで魔法みたいだ」
 「魔法!?」

 その言葉にココの心臓がどきりと跳ねる。ココはぶんぶんと音が鳴るほど速く手と首を振った。

 「ちちち違います! 魔法っていうのはもっと不思議で、キラキラしてて、価値があって……!」

 自分の持てる限りの語彙力で魔法の素晴らしさを解くと、男性はそこまでの反応が返ってくると思わなかったのか目を丸くしてココを見ていた。また暴走してしまった、しかも初対面の男性に、とココは顔を真っ赤にして俯いた。男性はふぅん、と納得したのかしていないのかわからないため息をつく。

 「そんなに魔法が好きなの?」

 がくがくがく、と首が外れそうなほど頷くココを見て、男性はクスッと微笑んだ。

 「どうしてか聞いてもいい?」
 「……小さい頃、お城のお祭りに連れて行ってもらったんです」

 ココは幼少の頃の思い出を話した。
 城の祭りで暗い小道の先に、魔法使いが絵本を売っていたこと。
 身近にある便利で美しい事象は魔法によって生み出されているのだと、魔法は世界を彩る奇跡なのだと、そう言われ魔法が好きになったこと。
 家に帰って絵本を開くと、そこには不思議な模様だけが載っていて、どこにも魔法の使い方は書かれていなかったこと。
 魔法は生まれつきの才能がないと使えないと知った今でも、魔法への憧れを捨てきれないことを。

 「きっと私に魔法使いの素質があれば、その模様がなんなのかわかるんでしょうね……」

 話し終えて、ココは少し自嘲気味に微笑んだ。

 「でも、不思議なことがあって。その魔法使いさん、気持ち悪いお面を被ってたんです。いくらお祭りだからって、目玉の仮面なんてどこも売ってなかったと思うんですけど。自作なのかな」
 「目玉の仮面……!」

 男性が息を飲む。先ほどまでの穏やかな表情とは打って変わって、何か興奮したような、緊張した様子の彼に、ココは自分が何かまずいことを言ってしまったのではないかと不安になった。

 「その話、詳しく聞かせてもらえないかな。君は……」

 その時、体全体を轟音が包んだ。
 何か質量のあるものが倒れ、丘を転がっていったような音がする。
 ココは男性から離れ、窓の方へと向かった。
 
 
 
 店の作業場で、キーフリーは羽根馬車の底板を見下ろしていた。見たところ底板そのものに異常はなく、ただ途切れている魔法陣を書き直せばいいだけだ。しかし、ペンを取る彼の手は震えていた。
 まさか、こんなところにつばあり帽の手がかりがあったなんて。
 先ほど少女の口から目玉の仮面という言葉が出たその時から、キーフリーの心臓は密かに早鐘を打っていた。“正しい”魔法使いは顔を隠すことが禁じられている。つまり、少女に絵本を売りつけたのは間違いなくつばあり帽の一味だ。大講堂で燻らずに出てきて正解だった、と口の端が釣り上がる。
 もはやキーフリーの思考は底板から遠く離れていた。
 どうやって少女からつばあり帽の話を聞き出そうか。つばあり帽の姿を全く覚えていない自分と違って、あの少女は確かにその姿を記憶している。もっと親しくなって聞き出せばさらに詳しい情報が手に入るかもしれない。
 それに、絵本の中身も気になった。少女は不思議な模様が描かれていると言っていたが、それは魔法陣に違いなかった。そしておそらく、そこには禁止魔法の魔法陣も描かれている。彼らがその絵本に自らの“研究成果”を載せないわけがない、とキーフリーは直感でそう感じていた。
 できれば絵本と少女、両方が欲しかった。絵本は盗むという比較的容易な手段があるものの、人を攫うのはかなり大変だ。絵本を盗むにしても、もう少し少女と仲良くなって本の場所を教えてもらわなければいけない。こんな作業場には置いていないだろうし……
 キーフリーは底板から顔を上げ、作業場を見渡した。その時ふと、足元に落ちている手鏡に目がいった。

 「……」

 キラリ、と光が反射して、鏡が天井の隙間からわずかに覗く人の顔を写す。闇に紛れて見えづらいが、微かな光を受けて若草色が一瞬だけ煌いたのを、キーフリーは見逃さなかった。
 あれは少女の髪の色だ。
 見張りを命じていたはずだったが、と考えてキーフリーははたと思い直す。確かにあれほどの魔法好きの少女が、魔法をかけるその瞬間を黙って見過ごすはずがない。彼女は屋根裏から息を殺して、キーフリーが魔法をかける瞬間をその目に焼き付けるべく、今か今かと待ち望んでいるのだ。
 このままだと少女に魔法使いの秘密が露呈する。秘密を守る、という掟を破ることに対してさほど抵抗は無かったが、少女が周囲に秘密をベラベラと話し、公然と魔法を使うと面倒臭いことになる。どうしようか、と顎に手を当てたところで、キーフリーの頭に妙案が浮かんだ。
 少女を攫うのではなく、少女の居場所を無くしてしまえばいい。
 その手段を、キーフリーは痛いほどによく知っていた。
 
 「……さて、始めるか」

 ペンにインクをつけるその手は、もはや震えてはいなかった。
 
 
 
 
 昔から罪悪感を感じることがなかった。それを告げた時、友と呼べる男が困ったような顔をしていたのを覚えている。
 つばあり帽のことを調べるために夜毎大講堂を抜け出していた時も、そして誰にも告げず大講堂から行方を眩まして旅に出た時も、心の痛みを覚えたことは一度もなかった。つばあり帽は自分の片目と記憶と、おまけに人並みの良心まで奪っていったのだろうか。
 今まさに、己の悲願のために、幸福だったはずの少女を絶望の淵に陥れようとすることに対しても、キーフリーの良心は一度も存在を主張することなく沈黙を貫き通している。
 無事に羽根馬車を直し、店で商品を買った後、キーフリーは少女の家からほど近い雑木林に身を潜めていた。彼女は非常にわかりやすいもので、魔法の使い方を“無事に”知った途端、すぐにキーフリーから不自然なほどに距離をとった。まるで知ってしまったことを責められるのではないかと怯えているようだった。実際はキーフリーが彼女に魔法を“見せた”と言っても過言ではないのに。

 「……」

 キーフリーは彼女の家の二階の窓が一瞬仄かに光ったのを見た。大方初級魔法を発動したのだろう。あの魔法好きの少女がそのような低級な魔法で満足するとは思えない。彼女はきっと禁止魔法を使うはずだ、という確信めいた予感にキーフリーは突き動かされていた。
 もうすぐだ。
 足元の木の枝を踏み折りながら、キーフリーは一歩ずつ歩みを進める。月明かりが照らす林を抜け、彼女の家へと続く道を、足音も立てずに進んでいく。
 彼がやるべきことは二つ。まず第一に、彼女が使うであろう禁止魔法から彼女の身を守り、自らの手元に引き入れること。手段は問わない、と言いたいところだが、少女を怯えさせては意味がない。あくまで、自分は禁止魔法を解く手がかりを共に探す味方だと信じ込ませなければならない。
 窓の明かりが、赤くチラチラと動く。あれは火の魔法か。キーフリーは地面を蹴り、窓の方にゆっくりと飛んでいく。
 第二に、彼女が持っている絵本を確保すること。しかしこれは努力目標だ。子供に渡す絵本なのだから、自分が探し求めているような、直接人体にかける禁止魔法はグロテスクすぎて載っていないだろう。あくまで禁止魔法の分析に使うだけで、無理に持って来る必要はない。
 二階の窓のそばまで来た。こっそりと中を覗くと、少女が魔法陣の書かれた紙を床に並べていた。机の上には絵本が置かれている。少女は魔法陣を並べて何か閃いたのか、絵本の上に紙を置いた。魔法陣を透写するつもりなのだろう。キーフリーが目を凝らして絵本の右側の頁を見ると、そこには水晶のような石がいくつも連なって生えている絵が描かれていた。

 「……なるほど」

 おそらくあれは周囲一帯を結晶化する魔法だろう。発動者を逃がすため、魔法の完成から発動にはラグがある可能性が高い。触れたものから結晶化していく可能性もあるので、魔法陣の下にある絵本の回収は困難だ。キーフリーの脳内に一瞬でシナリオが組み込まれる。そしてこれは想定していた幾多のケースの中で、絵本を手に入れられないことを除けば最もベストに近いものだった。
 少女の背後に音もなく忍び寄る。少女が魔法陣を完成させた瞬間、素早くその体に手を回し彼女を抱きかかえる。魔法陣から一際強い光が放たれると同時に、キーフリーと少女は窓から夜空へと駆け出した。

 「何をしたんだ」

 空の上、怯えてキーフリーのマントを掴む少女に、キーフリーは少し息が上がった声で尋ねた。

 「何を描いたんだ、ココ」

 我ながら白々しいとは思ったが、腕の中の少女はキーフリーの思惑など露知らず、蒼白な顔で震えていた。 

 「わ、わからない、私……絵本にあった模様をなぞっただけで……!」
 「絵本……昔魔法使いから貰ったって言ってた、あの?」
 「そ、そうです!」

 まだ中にあると思うんですけど。そう言って身を乗り出した少女は、しかしはっと息を飲んだ。

 「お母さん!」

 彼女の家の扉から、カンテラを掲げた母親が心配そうに少女を見上げていた。少女がとっさに母親の方へ身を乗り出そうとするのを、キーフリーはどうにか抱きかかえて止める。まるで誘拐犯だな、などと考えるが、あながち間違いではない。
 そうこうしているうちに、彼女の母親が踏みしめた足元が、パキキと小気味良い音を立てて石化していく。あぁ、と少女が無力なため息を吐く。夜中の静寂を切り裂いて、瞬く間に母親を、そして彼女の家全てを飲み込んで巨大な結晶が出来上がるのを、キーフリーは特に感慨を抱くこともなく見つめていた。
 全ては計算通りに進んでいた。
 
 
 
 「ご、ごめんなさい……」

 腕の中の少女はしばらくは眼下に広がる惨状を受け入れられないかのように黙り込んでいたが、やがて震える声でそう言った。謝罪の言葉を口にするやいなや、ボロボロと堰を切ったように涙が溢れだす。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も呟いては泣きじゃくるその姿は、まるで神に対して許しを乞うかのようだ。

 「私、何も知らなくて。こんな……こんなことになるなんて……」
 「……知らなくて当然だ。こうならないために隠されていたんだから」

 キーフリーは“良識ある親切な大人”の仮面を被り、少女の頬を伝う涙を親指でそっと拭った。そして少女の両脇を持ち上げ、その顔を正面から見据える。悪いことをした子供を叱るときのように。

 「魔法は才能なんかじゃない……使い方を覚えさえすれば誰にでも使える、いや使えてしまう。だからこそ魔法使いはその使い方を隠し続けてきた。悲劇を起こさないために」

 そこで言葉を切ると、キーフリーは努めて残念そうな顔を作り、悲しげに目を細めて少女を見つめた。

 「知られたからには、君の記憶を消す。それが魔法界のルールだ」
 「そ、そんな……」

 少女の顔が絶望に歪むのを、心の奥のキーフリーは半ば冷笑しながら見つめていた。彼女の記憶にこそ価値があるのに、それをむざむざ消すなどという真似をするはずがない。そんな思惑も知らず、ただ彼の言動に振り回されて涙し、絶望する少女が滑稽で、哀れで、いっそ可愛らしいとさえ思えた。

 「私、お母さんを助けなきゃいけないのに……記憶を失ったら、お母さんはどうなっちゃうの?」
 「それは……どんな魔法陣かわかれば、解き方もわかるかもしれないけど」
 「ま、魔法陣はわからないけど、絵本の内容なら暗唱できるぐらい覚えてます。どんな本かも、どのページに書いてあったかも覚えてる……お願いです、キーフリーさん!」

 少女はキーフリーの腕に縋りついた。まさしく悪魔の腕をとった瞬間だった。

 「私、なんでもします! 絶対に同じ本を見つけてみせます! お母さんを助けるためなら、なんだってします! だから、記憶は消さないで……!」
 「……そう、か」

 絶望に震えながら、キーフリーの首元で少女が咽び泣く。その背を抱きしめる手に、わずかに力がこもった。
 計画は成功だ。
 少女を、つばあり帽への手がかりを手に入れた喜びに口の端が釣り上がりそうになるのをなんとか堪え、キーフリーは少女と目線を合わせる。その目は彼女の将来を心配する善良な大人そのものだった。

 「知ってしまった事実は消えない。記憶を失いたくなければ、母親を助けたければ……秘密を持つ側に回るしかない」

 少女の目が見開かれる。涙に濡れた瞳が、暁の光を受けて哀しく煌いた。

 「ココ、君はこれから……魔法使いになるんだ」

 山間から登りだした太陽は、瑠璃紺の空を曙の色へと染めていく。静寂と陰謀の夜が明け、生と希望に満ちた朝が来るのを告げるように、清涼な風が草原を吹き抜けていった。
 救われるのは、君か、それとも。