その日、僕は母さんに頼まれて駅前のデパートまでやって来ていた。母さんの好きなパン屋が期間限定で出店しているので買ってきてほしいとのことだ。
お目当ての品を手に入れた僕は、ふとエスカレーターの広告で見かけたチョコレートフェアの文字に吸い寄せられるようにして催事場までやってきていた。
「いらっしゃいませー! こちら限定品のチョコレートケーキでございます!」
「本場ベルギーの超有名店が特別出店しています! いかがですかー!」
はぁあ……ここは天国か。
すっかり忘れていたが、今日は2月13日、つまりバレンタインデーの前日だ。四方八方どこを見てもチョコレートしか売られていないこの空間は、まさに年に一度の祭りと呼ぶにふさわしいだろう。
漂ってくる甘い香りにうっとりしていると、ふと聞き覚えのある声がした。
(はぁ……チョコどうしよう……もう1時間も悩んでるのに決まらないよ……)
バレンタインあるあるな心の声だ。だが1時間も悩んでいるのは大概だな。知り合いだとは思うのだが、誰だろう。周りに人が多すぎて特定できない。
しかし、その後に続く言葉に、僕は心臓がひっくり返りそうなほどの衝撃を受けた。
(斉木くんに何渡せばいいだろう? 光輝に相談しても全然頼りにならないし、本当に困ったな……)
え、佐取さん?
間違いない、この声と話の内容は絶対に佐取さんだ。
慌てて周囲を見回すが、彼女らしい人の姿は見つからない……と思ったらいた。ここから一番遠い区画の売り場だ。ここから50m以上200m以下、つまり佐取さんは僕の心の声を聞けないが僕からは聞こえてしまう距離にいる。
これは……僕はここにいない方が良いのではないか。
そうはわかっているのに、僕はその場から足に根が生えたかのように動けなかった。僕が棒のように突っ立っている間にも、佐取さんがうむむと考え込んでいる声が聞こえてくる。
(斉木くんには本当にお世話になったから、どうしても何か渡したいんだけどな。この前なんて、斉木くんの前で泣いて迷惑かけちゃったし……)
あぁ、この前の話か。僕は1週間近く前のことを追想する。
日本のどこかの砂浜に瞬間移動してクレープを食べる、という奇妙な事件が起こり、そこで僕は佐取さんが転校する前のことを聞いた。語りながら涙を流している佐取さんの姿を見た途端、僕は何かが堪えきれなくなって、彼女のことを抱きしめたのだった。
あれは決して下心があったわけではなく、例えば戦地から満身創痍で帰還してきた親友を迎え入れるようなものだったのだが、帰ってから僕はあれがセクハラにあたらないだろうかと心配になった。だが翌日何事もなかったかのように話しかけてくる佐取さんを見て、僕も何もなかったことにしようと決めたのだった。
しかし、やっぱり気にしてたのか。別に僕に迷惑なんて1ミリたりともかかってないんだが、佐取さんはそういう遠慮がちなところがある。
あの件のお詫びにチョコを、だなんて、佐取さんらしいというか何というか。
ずっと立っているのも疲れるので、僕は近くにあったカフェコーナーでソフトクリームを買って食べることにした。相変わらず、BGMに佐取さんの心の声が聞こえている。
(最初はコーヒーゼリーにしようと思ったんだけど、チョコ売り場に押されて高級コーヒーゼリーの売り場なくなってるし、かといって安いコーヒーゼリーいっぱいあげるのもなんか違うし……)
そうか? 別に僕は佐取さんからもらえるものなら何でもいい。って、今言っても届いてないんだよな。
チョコレートとバニラのミックスソフトが、火照った僕の頬を冷やしていく。味も……悪くない。うん、全然嫌いじゃない。
(値段帯もどうするか迷うなぁ。あんまり高いのあげても困っちゃうだろうし、でもそこそこちゃんとしたやつ渡したいし……)
値段か。確かにあまり高いものを渡されると困るな、主にホワイトデー的な意味で。
いつもなら佐取さんの心の声を聞いて、僕がそれに応答しているわけだが、こうしてひたすら彼女の声を聞き続けるのは新鮮だ。文字通り佐取さんの心の内を覗いているような、くすぐったい気分になる。
(そもそもどんなチョコ渡すかも決めてないんだよね……オランジェットとか、生チョコとか、トリュフとか……流石にお酒入りのはだめだよね? うーんどうしよう、こんなことならどんなチョコが好きか聞いとけばよかったかな……)
なるほど、さっきからずっとこんな調子で考えているわけか。それは確かに1時間も悩むことになるだろう。僕なんかのためにここまで悩ませてしまうなんて、逆に申し訳なくなってくるな。
あまり決まらないようなら、テレパシーを使ってそれとなく誘導するか。
そう考えていると、佐取さんがふと何かに目を留めたようだった。
(あ、このお店のとか美味しそう。へぇー、あっちのカフェコーナーでソフトクリームも売ってるんだ)
僕はソフトクリームのコーンを噎せそうになった。大丈夫だ、佐取さんが僕を発見した様子はない。
そうか、ここの店はチョコも出品しているのか。ソフトクリームの味からして、チョコの方も期待できるはずだ。もらえるものなら食べてみたいと思う。
そんな僕の願いが通じたかのように、佐取さんが上機嫌で頷く声が聞こえた。
(うん、値段も丁度いいし、これにしよう! ついでに疲れたからソフトクリームも食べちゃおうかな)
良かった、佐取さんが納得行くものを選べたようで。
僕はコーンの最後の一欠片を口に放り込むと、足早にその場を後にした。
翌日の放課後、僕はテレパシーで佐取さんに呼び出されていた。
普段はがらんとしている放課後の校舎も、今日ばかりはチョコを渡し渡される男女の群れでいっぱいだったので、帰り道の途中にある小さな交差点を指定された。彼女曰く、「他の人に見られたら困るから」とのことらしい。
僕より少し遅れてやってきた佐取さんは、手に提げていた白い紙袋をそっと僕の前に差し出した。
(わざわざごめん。これ、バレンタインのチョコ。色々お世話になったから……受け取ってくれると嬉しいな)
(ありがとう)
僕は礼を言うと、紙袋を丁重に受け取った。
誰かからチョコを貰うだけでも嬉しいのに、佐取さんが1時間以上も悩んで決めてくれたものとあれば喜びはひとしおだ。大事に食べよう。
僕の心の声を聞いた佐取さんは、不思議そうに目をぱちりと瞬かせた。
(あれ? 1時間以上悩んだ話って斉木くんにしたっけ?)
(してない。けど、見てたからな)
(見てた? 何を?)
(君がチョコを選んでいるところを)
その瞬間、佐取さんは一瞬で顔をトマトみたいに真っ赤にさせた。
「えっ、みみみ、見てたの!?」
(見てたというか、たまたま見かけただけだがな)
「み、見てたなら、声かけてよ! ばか!」
ぼすっ。
鈍い音がして、僕のコートの肩に佐取さんの拳が力無く埋め込まれた。かと思えば、体育祭の徒競走1位の俊足で瞬く間に彼女の背中が遠ざかっていく。
え……?
僕は呆然としてその後ろ姿を見つめていた。
遅れて、顔が火照り心臓の鼓動が速くなっていく。
ばか、だなんて、人生で初めて言われた。
罵倒されたはずなのに、僕は苛立つどころか嬉しいとさえ感じていることに気がついた。
佐取さんって、あんな顔もするんだな。
殴られた肩がこそばゆいような疼きを訴えている。そっと触れると、その疼きは火がついたかのように全身に広がり、僕の息を止めさせる。
胸が苦しい。
多分、この気持ちが、人々が言う「可愛い」というものなんだろう。それも、かなり強力なタイプの。
今までの人生で「可愛い」と思ったことなど一度もないというのに、その感情を僕に教えるだなんて、佐取さんはかなりの強者だ。心が読めても、彼女の行動までは予測できない。本当に、油断ならない人だ。
せっかく甘いものを貰ったというのに、僕はすぐにチョコを食べる気にはならなかった。いつもなら瞬間移動でさっさと家に帰ってチョコを食べているところだが、今日はなぜか、この紙袋を持ったまま歩いて帰ろうか、という気分になっている。
息を吸うと、2月の冷たい空気が肺を満たした。なのに、頬の火照りは全く冷めそうになかった。