20 とある少女のΨ難

 「暇だなぁ……」

 特に面白くもない本から視線を上げ、私は溜息をついた。
 今日はせっかくの休日だが、これといってやりたいことがない。しかしこのままだと貴重な休みの1日が、ただ何もせずダラダラと過ごすだけで終わってしまう。
 服でも買いに行こうか。そろそろセールの時期だったはずだ。
 鞄を持って玄関で靴を履いていると、後ろから母が話しかけてきた。

 「出かけるの?」
 「うん。駅前で服でも見てくるよ」
 「そう。じゃあついでにこれ、斉木さんのところに持っていって」

 渡されたのは、巷でも有名な老舗の和菓子詰め合わせだった。どうしてこんなものを、とわざわざ聞くまでもなく、斉木くんの家で二度も夕飯をご馳走になっているお礼なのだとわかる。
 私は紙袋を受け取り、頷いた。

 「わかった。夕方には帰るよ」
 「ええ。……ねえ、玲子」
 「なに?」

 振り返ると、母は気兼ねするような微笑を浮かべて私を見ていた。他人のような距離感に、私は肌がむず痒くなるのを感じる。

 「学校は楽しい?」
 「……うん、楽しいよ」
 「そう、良かった。じゃあ、気をつけてね」
 「うん、行ってきます」

 背後で扉が閉まる音が聞こえ、私はちらりと振り返った。

 (てっきり、斉木くんと付き合ってるのか聞かれるかと思ったけど)

 私と母は日常的に会話を交わすことは少ない。昔はそれなりに仲も良かったのだが、転校を機に、正確には転校するに至った事件を機に、積極的な会話をしなくなった。その分、弟が母に私の様子を報告しているらしく、私が斉木くんと仲良くしていることは母も既に知っている。もちろん、流石に夕食をご馳走になる時には母に直接報告しているが、今まで何か言われたことはなかった。

 しかし、私は心が読めるので、母が何を考えているのかは知ることができる。
 母は、安心している。私に友人ができたことを。転校先の学校で、トラブルを起こすことなくやっていけていることを。
 だからこの和菓子には、母の感謝と祈りが込められているのだ。
 
 『このまま、うちの玲子とずっと仲良くしてくれますように』

 まるで、娘に寄り添ってやれなかった己の罪を滅ぼそうとするかのような、そんな切実な祈りが。

 「心配性だなあ」

 そんなことをしなくても、斉木くんなら私を裏切るような真似はしないのに。
 私はすっかり覚えてしまった斉木くん宅への道のりを歩いていった。
 
 
 
 チャイムを鳴らすと、インターホンが応答するより先に斉木くんが直接出てきた。

 (佐取さん……どうしたんだ)
 (こんにちは、斉木くん。お母さんはいらっしゃるかな?)
 (ああ。呼んでくる)

 それからすぐに、斉木くんのお母さんが出てきた。この人を見るだけで、私はなんだか胸が暖かくなるのを感じる。

 「まあ玲子ちゃん、遊びに来てくれたの!? 嬉しいわ!」
 「いえ、遊びにというか……母にこれを渡すよう言われたんです。いつもご馳走になってるお礼だって」
 「あひゅぅ〜〜! なんて良い子なのかしら、全然気を遣わなくて良いのに! むしろ毎日食べていってくれてもいいくらいよ!」
 「ふふっ、ありがとうございます。では、私はこれで」
 「あ、ちょっと待って!」

 私を呼び止めた斉木母は、隣に立っていた斉木くんにマフラーとダウンジャケットを押し付けて、家から追い出してしまった。突然の行動に、私も斉木くんも目を丸くする。

 「くーちゃん今日ずっと部屋に籠もってるでしょ? 玲子ちゃんと出かけてきなさい」
 「は」
 「私は構いませんけど……斉木くんは良いの? 何かやることあったんじゃないの?」

 私が見上げると、斉木くんは観念したように首を横に振って、上着に袖を通した。斉木くんのお母さんが満面の笑みで親指を立てる。

 「じゃ、いってらっしゃ~い。あ、玲子ちゃん、和菓子ありがとうね!」
 「いえ、こちらこそいつもありがとうございます! ……じゃあ斉木くん、行こうか」
 (……ああ)

 斉木母に見送られ、私と斉木くんは並んで歩き出した。一月の冷たい風が肌を刺す。

 (さっきまで何してたの? 宿題?)
 (いや、すこやか戦士スペシャライザーの録画を見返していたところだ。ちょうど第一シーズンが終わったところだった)
 (そ、そう……なら良かった。ところで、どこか行きたいところある?)
 (佐取さんは?)
 (私は特に。駅前で服でも見ようかなと思ったけど、よく考えたらそんなに服が欲しいわけでもなかった)
 (そうか。じゃあ、甘いものでも食べにいかないか。駅前に新しくクレープ屋ができてたんだ)
 (良いね! 行こう)

 いつも思うけど、斉木くんのスイーツに関する嗅覚の鋭さには本当に感心する。私だって華の女子高生なので一応SNSをチェックしてはいるものの、つい犬や猫など癒やされる画像ばかり見てしまうので、流行りや最新と言ったワードには縁がないのだ。
 それを言うと、斉木くんはくすくすと目を細めて笑った。

 (佐取さんらしい)
 (なにそれ。私らしいってどんな?)
 (僕は良いと思う)
 (ちょっと、答えになってませんけど!)

 他にも学校の課題の話や、ますます増長する弟への愚痴などを語りながら、私達はそのクレープ屋に向かっていった。
 
 
 クレープ屋には十数人ほどの行列ができていた。並んでいる人達の心を読んでみると、ちょうど数時間前にこの店を紹介した有名インフルエンサーがいるらしい。間の悪いことだ。
 並ぶかどうか聞くと、斉木くんはできれば並びたいと言っていた。お腹がクレープの気分らしい。それには私も同意できたので、少し時間はかかるが待つことにした。

 (斉木くんは何を頼むの?)
 (何にしよう。苺、チョコ、バナナ、キャラメル……考えるだけで幸せだ)
 (ふふっ、良かったね。私は何にしようかな……)

 私が真剣な表情でメニューを見つめていると、ふと、聞き覚えのある心の声が聞こえてきた。

 (……あれ、佐取だよね)

 ——その声を最後に聞いたのは、もう一年近く前になる。
 だから、私はすぐには思い出せなかった。思い出せていたら、真っ先に逃げていたはずだ。
 “彼女”が近くに来て、憎悪に染まった眼差しを向けられて初めて、私はその声の持ち主を思い出した。
 瞬間、ぞっと鳥肌が立った。

 「貴方は……」
 「久しぶり、佐取……元気そうで何よりだよ」
 
 見覚えがある、どころか、私がついこの間まで着ていたのと同じ制服を着ているその女は、前の学校での同級生だった。
 それだけではない。
 彼女は、かつて私と最も仲が良かった女友達であり、そして、私を転校に追いやるほどに苛烈な虐めを働いた張本人でもあった。
 
 『あんた、本当に人の心を読めるんなら、どうしてそうやってのうのうと生きてるの?』
 
 かつて彼女に言われた言葉がフラッシュバックし、全身から冷や汗が吹き出すのを感じる。
 女はクレープ屋が目当てで来た、というより、クレープ屋に並んでいる私を見つけて近寄ってきたらしい。私と斉木くんとを交互に、値踏みするような視線で睨めつけてきた。

 「あんた、彼氏できたんだ。良かったね、転校できて、何もかもリセットできて、何も知らない彼氏もできて」

 斉木くんは彼氏ではない、と言おうとしたが、もう説明することすら面倒で、できれば関わりたくなかった。私は突き放すように言った。

 「……私がどんな人生を送ろうが、貴方には関係ないでしょ?」
 「あるよ。だって私……いや、私達みんな、知ってるから」
 
 彼女の唇が動く。
 その音はどこか遅れて聞こえた気がした。

 「あんたが人の形をした化け物だってこと」
 
 ——その瞬間、尋常でない殺気が発せられた。

 その後は、何が起こったのかわからなかった。まるで勢いよくお辞儀をするかのように、彼女の上半身が地面に向かって崩折れた。とても人間が自然にするとは思えない動きに呆然としていると、次の瞬間、彼女は瞬く間に地面にうつ伏せに倒れていた。
 まるで見えない何かに押し潰されたかのようだ。
 そこまで考えて初めて、私は隣にいる斉木くんの存在を再認識した。もはや心の声も聞こえないほどに怒っている彼のことを、思い出したのだ。

 早く逃げないと。
 斉木くんが彼女を殺してしまう前に、逃げないと。

 どこか靄がかかったような思考の中で、そのことだけを考えていた。
 私は無我夢中で斉木くんの腕を掴み、人のいない路地裏に向けて駆け出した。
 
 
 「はぁ、はぁ、はあ……」

 自分の甲高い呼吸音が耳につく。もうどれだけ走ったのかよくわからなかった。焦りと恐怖で視界が狭く感じる。
 私はろくに斉木くんのことを振り返れないまま、膝に手をついて呼吸を整えた。

 「……ごめん、急に走り出しちゃって……クレープは……悪いけど、今度一人で食べてきてもらってもいいかな……私、先に帰るね……」
 「……佐取さん、すまない」
 「っ、やめてよ……! 斉木くんが謝ることじゃないでしょ」
 「いや、違うんだ。顔を上げてくれ」

 斉木くんの切迫したような声が聞こえて、私は顔を上げた。
 ……やけに寒々しい風が頬を刺した。いや、それだけではない。
 小豆をざるで転がすような音が聞こえ、スーパーの鮮魚コーナーのような生臭い匂いがする。なにより、目の前には砂浜と海が広がっている。
 私は唖然として呟いた。

 「海……?」
 「逃げてる途中に力が暴走したんだ。もう一度瞬間移動を使うにしても、あと3分はインターバルがいる。それと、これ」

 やっと私が振り返ると、そこには両手にクレープを持った斉木くんが立っていた。

 「店からアポートしてきた。一緒に食べよう」

 なんだそりゃ。
 思わず気が抜けて、私は笑ってしまった。
 あんな状況でクレープをアポートしてくるなんて、どれだけ食べたかったんだろう。しかも、きちんと私の分も、私が絡まれる直前に「これにしよう」と決めていたものになっていた。
 まるで世界から切り離されたかのような絶望を感じていたのに、たったクレープ一つで、あっという間に日常に引き戻されてしまう。
 私は苦笑いを浮かべて、遊歩道沿いのベンチを指差した。
 
 「じゃあ、あそこのベンチで並んで食べようか」
 
  
 今日は特に予定もなかったはずなのに、なぜか私は斉木くんとどこかの海に来ていて、並んでクレープを食べている。奇妙な感じがする。
 冬場というだけあって、海岸沿いにはほとんど人がいなかった。たまに犬の散歩をしている老人が通り過ぎるくらいだ。
 私達はほとんど無心でクレープを食べ進めていた。何を話せば良いのかわからない、というより、風が冷たすぎてクレープがすぐに冷めてしまうからだ。
 最後の一欠片を口に放り込んで、私は包み紙を握り潰した。

 (ごちそうさまでした。これ、いくらしたの? お金払うよ)
 (いらない。僕が勝手にやっただけだ)
 (でも……)

 払ってもらうのは悪いし。
 そう言おうと思ったのだが、斉木くんの言葉にならない心の声が伝わってきて、私は言葉を飲み込んだ。

 (……斉木くんのせいじゃないよ)

 斉木くんからは、何も返ってこない。
 私は溜息をついた。それは彼に対する呆れではなく、自分の過去への区切りをつける行為に近かった。

 (私、生まれつき心の声が聞こえてたわけじゃないの。高校1年生の秋に髄膜炎になって、生死を彷徨ったんだけど)
 
 
 その時のことは、今でもよく覚えている。
 部活の大会と期末テストが重なり疲労困憊していた私は、運悪く風邪をこじらせて髄膜炎にかかり、大きな病院に緊急入院することになった。一時は生死を彷徨うほどだったが、懸命の治療の甲斐あってどうにか一命を取り留めた。
 しかし、それにはある代償が伴っていた。

 (意識を取り戻した時、みんなの声がうるさくて仕方なかったの。だからずっと『静かにして』ってばかり言ってた。でも、病室では誰も喋ってなかったんだ。笑っちゃうよね。最初は私も幻聴だと思ってたんだけど、幻聴にしては内容がはっきりしてて)

 それは、幻聴というより独り言をこっそりと聞いているような感覚だった。幻聴にありがちな私を責めるような内容のものは一切なく、私の無事に対する安堵や、次の治療内容、今日の晩ご飯の献立など、そんな平和なものばかりだった。
 そしてある時、私は気がついた。
 私が、人の心の声を聞いていることに。

 (最初は誰も信じてくれなかった。弟が最初に信じて、次に父が、そして母が信じた。弟は単純に感心してたけど、父と母は、私が『普通の女子高生』じゃなくなったことに困惑してるみたいだった)

 父も母も、私の人生の行く末を心配していた。それでも、私は「どうにかなる」という根拠のない自信を持っていた。
 どうにもならなくなったのは、その後だった。
 退院して初めて学校に行く日、当時の親友が、“彼女”が私の家まで迎えに来た。彼女は入院する前と何も変わらない笑顔を私に向けた。

 『久しぶり! 大丈夫? 心配してたんだよ』

 その後に聞こえた心の声が、私には信じられなかった。
 ——このまま来なくなればよかったのに。
 あれだけ仲良くしていた彼女が、そんなことを考えているはずはない。その時ばかりは私は幻聴を聞いていると思った。だが、一緒にいるうちに、やはり幻聴ではないとわかった。
 私が見舞いの言葉をかけられるたびに、彼女からは暗い嫉妬の声が聞こえてくる。『病弱なヒロイン気取り』『男に話しかけられていい気になってる』と、そう考えている彼女の目は、確かな闇を湛えていた。
 ある日、私はついに限界を迎えて彼女に言ってしまったのだ。

 『私、心が読めるようになったの。だから、貴方がなんて思ってるか知ってる。私のこと、本当は大嫌いだったんでしょう。ずっと、ずっと!』

 当然ながら、彼女は私の話にひどく衝撃を受けていた。その割に、すんなりと私の話を信じた。
 親友の仮面を脱ぎ捨てた彼女は、私への敵意を顕にしてこう言った。

 『あんた、本当に人の心を読めるんなら、どうしてそうやってのうのうと生きてるの? 人のプライバシーを侵害して、申し訳ないって思わないの?』

 私は何も言えなかった。自分に生きる価値がないとまでは思わなかったが、人のプライバシーを侵害している件に関しては、確かにその通りだと思ったからだ。
 私が反論できなかったのを良いことに、それ以降、彼女の攻撃は勢いを増した。取り巻きを作り、あることないことを吹き込んで、クラス中を私の敵に仕立て上げた。

 『心が読めるなんて気持ち悪い』
 『消えちゃえばいいのに』
 『最低』

 それはまさしく、異端者を排除しようとする動物の群れのようだった。不思議なことに、彼らは私の能力を信じ切っている様子だった。その上で、私に心を読まれることを怖れ、私から逃げようと必死になっていた。そのためならなんでもありだった。人は嫌悪した時よりも恐怖した時の方が行動が苛烈になるのだと、この時私はまざまざと思い知った。
 学校で私が虐められていると知った母は、どうにか私を『正常』の括りに押し込まなければならないと解釈した。事態の収集を図るべく、校長や担任との面談の場で、母は自分から頭を下げた。

 『本当に申し訳ありません、あの発言は全部嘘なんです。うちの子はちょっと変わってて……ほら玲子、謝りなさい』

 ただ人の心が読めるだけの私には、そこで謝らずに意地を突き通すほどの力はなかった。
 私は頭を下げた。
 それ以降のことは、あまりよく覚えていない。学校に行けなくなった私を見て、母は自分の責任を感じ、転校の手続きを全て済ませてくれた。父も弟も、自分の職場や学校が遠くなるにも関わらず、引っ越しに賛成してくれた。家族の皆が用意してくれた新しい環境で、私は絶対に自分の力のことは言わないようにしようと決めた。

 
 ——そこで、君に出会った。
 
 
 
 「あ……」

 頬を生ぬるい液体が伝う感触がして、私は自分が泣いていることを知った。別に泣きたくなるような悲しさも切なさも感じなかったのに、目が勝手に涙を流しているかのようだ。
 もう全て終わったことなのに、どうして涙が出るんだろう。目元を拭って濡れた指を見て、私は思わず笑ってしまった。
 
 「ごめん、泣くつもりはなかったんだけど……なんでかな」
 「……」

 ずっと黙って聞いていた斉木くんは、急に動いたかと思うと、私の肩を勢い良く引き寄せた。ぼすっと鈍い音がして、ダウンジャケットに顔が埋もれる。
 突然抱き締められたはずなのに、私は不思議なほどに全く驚いていなかった。むしろ、安堵すらしていた。
 真っ暗になった視界の中で、私はそっと目を閉じた。

 「斉木くん……」

 伝わってくる。彼の、言葉にならないほどの共感、悲しみ、憤り、その全てが、私に。
 身動きも取れないほどきつく抱き締められ、私は唇を動かした。

 「苦しいよ……」

 苦しい。けれど、離してほしくない。そんな矛盾した感情が、私の胸に湧き上がる。
 このまま息も吸えないほど強く抱き締めていてほしい。泣くことさえできないくらいに、心の痛みを体の痛みが上回るくらいに、強く。
 私の声が聞こえているのか、斉木くんは私を抱き締める力を緩めることはしなかった。そうしていると、くっついているところから、じわじわと熱が生まれてきた。

 (そうか、二人でいると、暖かいんだ)

 その心の声は斉木くんのものなのか、それとも私自身のものなのか、わからなかった。