全ての生命が始まり、全ての生命が終わる場所。確かな形を持ちながら、現実には存在しない場所。
ガフの部屋。
そこに、カヲルはいた。しかし、彼一人だけではなかった。
カヲルは眠っている目の前の少女に手を伸ばした。
「カグヤ……」
その名前を呼んでも、彼女の瞳は開かない。
髪を撫でると、毛先が銀色に輝いた。自分と同じ色。その変化を認め、カヲルの口角が僅かに上がる。
「他の使徒には渡さない」
第八の使徒戦で、彼女は戦闘中に意識を失った。正確には、使徒に精神をジャックされたのだ。カヲルが咄嗟に彼女の精神に干渉していなければ、カグヤはあのまま覚醒できずに死んでいただろう。
――君はまだ死ぬには早すぎる。
その言葉の意味を、彼女はリリンの価値観におけるものとして捉えていた。
それでいい。本当の意味など知らなくていい。
薄い瞼の奥に眠る瞳の色が、人ならざる者の色になった時。その魂が人としての理を外れ、神の眷属の輪を潜る時。その時が来て、やっとカヲルは彼女を迎えることができる。
それまでは、死なせてはいけない。絶対に。
「早く現世で会いたいな。待っててね、カグヤ」
空を一筋の星が流れる。
* * * * * *
浅間山から無事帰還して、数日が経った。
いつものように行われるシンクロ率の測定試験を終えたカグヤは、更衣室には戻らず、そのまま司令室へと向かっていた。
「失礼します」
テスト後の司令室は比較的緩慢な雰囲気に満ちていた。入ってきたカグヤに気付いたミサトが、不思議そうな顔をして寄ってくる。
「カグヤちゃん? どうしたの」
「すみません、ちょっと確認したいことがあって……」
確認したいことというのは、先日の第八の使徒戦におけるカグヤの生体データだった。
電気柵で使徒をキャッチする際、カグヤは一瞬意識が遠くなるのを感じたのだ。幸いすぐに正気に返ったため、羽化した使徒を無事に撃破することができたものの、戦闘中に失神するなどパイロットとしてあってはならない事態だった。
それを伝えると、ミサトはすぐにリツコを呼び、前回の使徒戦における10号機のデータをプリントアウトして持ってきた。
「ここが使徒が羽化する直前の脳波よ。戦闘中だから興奮状態にはあるけど、意識を失っているような反応は見られなかったわ」
リツコの指が刺々しいグラフの一点を示す。素人目に見ても、その時点と他の時点でグラフに差があるようには見えなかった。
他に心拍数やシンクロ率などのデータも見せてくれたが、どれも異常なしとしか言いようのないものばかりだ。カグヤもミサトも揃って溜息をついた。
「原因不明、か。困ったわね……さっきエヴァに乗った時はどうだったの?」
「いえ、特に変な所は……やっぱり気のせいだったんでしょうか」
「MAGIにデータを洗わせるわ」
リツコはそう言うと、MAGIに接続されているノートパソコンのキーボードを数回叩いた。MAGIのモニター近くにホログラムディスプレイが浮かび、カグヤの心電図、脳波、血圧など莫大な量のデータが流れていく。
「ん……」
何かに気付いたのか、リツコが眉を顰めた。処理を一時中断させ、該当箇所のデータファイルを開こうとする。
だが、その瞬間、警告音とともにモニターが真っ赤に染まった。
「シグマユニットAフロアに汚染警報発令!」
司令部にいる全員が、一斉にMAGIのメインモニターを見つめた。
生物か無生物かわからない“何か”が、ここセントラルドグマに侵入してきたらしい。第87タンパク壁から始まった壁面構造の劣化、発熱は、近隣の第6パイプを侵し、瞬く間に汚染区域を拡大させていった。
突然の出来事に、カグヤはただ突っ立っていることしかできない。
それでも、リツコは技術部の長というだけあって、的確に対応を指示していった。
「第6パイプを緊急閉鎖! ポリソーム用意して、レーザー出力最大! 侵入と同時に発射!」
壁伝いに侵食してきた“何か”に対し、最高出力のレーザーが射出される。だが大した効果も見られないまま、“何か”はどんどん侵食範囲を拡大していった。
その時、MAGIの分析パターン結果が提示された。
「パターン青、使徒です!」
その報告に、司令部はざわついた。
本部に使徒の侵入を許してしまったのだ。それは、サードインパクトの危機が今までになく逼迫していることを意味していた。
しかも、侵食位置の都合で、他のパイロットが今いる場所からはエヴァの搭乗スペースに辿り着くことは不可能だった。エヴァに乗って使徒を殲滅できるのは、ここにいるカグヤしかいない。
カグヤは手に持っていたヘッドセットを握りしめた。
「私が10号機で出ます。エヴァに乗れるのは、私しかいないんでしょう」
「それは……」
「駄目だ」
ミサトが戸惑う一方で、カグヤの訴えをすげなく拒絶したのは、意外にも碇ゲンドウ司令だった。彼は更に驚きの指示を出した。
「エヴァを全機地上へ射出しろ。パイロットはいなくて構わん」
「ぜ、全機ですか!? しかし……」
「なぜです、碇司令! 私はエヴァに乗れます!」
カグヤが更にそう訴えると、ゲンドウの氷よりも冷たい視線がカグヤを射抜いた。それだけでなく、その場の温度が二度ほど下がったかのように感じた。
「一々説明が必要かね、如月君」
「うっ……で、ですが……」
「射出だ」
「はっ。エヴァ、全機発進!」
反論の余地は与えられないまま、エヴァ四機が地上に射出されていく。モニターに映るその映像を、カグヤは俯き加減に睨みつけていた。
(私じゃ……敵わないとでも言うのか)
――有事にエヴァへの搭乗が許されないのなら、私は何のためにここにいるというのか。
エヴァが射出されてしまった今、カグヤがここにいる意味は無いに等しかった。慌ただしく迎撃準備を始めた大人達の邪魔にならないように隅の方で立っているが、自分の存在価値の無さに涙が出そうになってくる。
ふと、隣に人が立った。
「やれやれ。君の気の強さは母親譲りだな」
「副司令……母をご存知なんですか」
苦笑する冬月にそう尋ねると、冬月は目尻の皺を深めた。
「ああ、もちろんだ。君の母君、如月リエ君も、ここの職員だったからな。だがリエ君なら、あの場で食い下がることはなかっただろう。その点は、君の方が賢いな」
「は、はぁ……」
目の前のモニターでは、使徒がオゾンを取り込んで再増殖する様子が鮮明に映し出されている。それなのに、故人の思い出に浸るこの二人だけは、どこか別の次元にいるかのようだった。
「今もここに彼女がいたならば、瞬く間に使徒を殲滅する案の一つや二つ提示してくれたろうに。リエ君は本当に賢い女性だった。その薫陶を受けたのが、リツコ君さ」
「リツコさんが? でも、リツコさんはそんなこと一言も……」
「必要ないことは言わんのが彼女の主義だからな」
そのリツコは、使徒によるハッキングを受け始めたMAGIに対して出来うる限りの防御プログラムを展開させている。リツコが母親の部下だったとは、カグヤは知りもしなかった。何年も共に過ごしてきたというのに。
そして、冬月は衝撃の真実を口にした。
「リエ君は、君が乗る10号機の開発にも携わっていたんだよ」
「えっ!?」
その時、MAGIの主要3系統のうちの一つ、MELCHIORが使徒のハッキングに屈した。MELCHIORは自律自爆を提案したが、生き残っている他の2系統により否決された。
「母が? 嘘だ……それなら、私に何か残してくれていてもいいのに! 10号機とのシンクロ率が低いせいで、私は……」
「彼女は君を巻き込みたくなかったのさ」
MELCHIORは更にBALTHASARへのハッキングを開始した。咄嗟に機転を利かせたリツコの手でシンクロコードの速度が落とされ、時間的猶予が与えられたものの、人類の劣勢は明白だった。
(巻き込みたくない?)
カグヤは母親への失望を禁じ得なかった。
巻き込みたくないと言ったって、もうカグヤは巻き込まれてしまっている。それもつい最近ではない。母親が死んだそのたった半年後に、カグヤはNERVに召喚されたのだ。どれほど努力してもシンクロ率の上がらないまま、カグヤは人生の半分に迫る歳月を10号機に費やしている。
母がそれほど賢かったというのなら、どうして娘がこうなる未来を予測してくれなかったのだろう。10号機に隠しておいた秘密のコードを、こっそりと娘に伝えるとかしてくれても良かったじゃないか。
――そうしたら、私はこんなところで棒立ちになったまま、呆然と人類の命運を見守っている必要などなかったのに。
愕然としているカグヤに、冬月がふっと笑った。
「その君が10号機に乗っているのは皮肉だが、しかし我々には君を守る義務がある」
彼はそのまま、混沌を極める司令部中央へ一歩踏み出した。
「葛城君、如月カグヤ君を連れてD7区画へと逃げたまえ。あの場所なら、仮にMAGIが自爆したとしても死にはすまい」
「副司令、それは……」
「急がないと、通路が使徒に侵食されて使えなくなるぞ」
ミサトは反論を喉のすぐそこまで出しかけていたが、苦い表情でぐっと唾を飲んだ。
「わかりました。行きましょう、カグヤちゃん」
「は、はい」
カグヤはミサトに手を引かれ、司令室から出て無人の通路を駆けていった。
D7区画は細い通路をずっと行った先にある。本部の中では外れにある場所で、行き場をなくした機密書類達の棺桶とも呼べる部屋だ。
書類が入ったたくさんの金庫に囲まれながら、カグヤとミサトは壁に背中をつけてじっと座り込んでいた。埃の多さで鼻水が出てくる。
「……大丈夫よ、カグヤちゃん。貴方のことは、私が守るから」
沈んだ顔をしているカグヤのことを心配したのか、ミサトが気丈な笑顔を浮かべてそう言った。
「あ、違うんです。こんな時になんですが……母のことを考えていて」
「お母さんの?」
「はい。先程、冬月司令から聞いたんです。生前の母のことを」
二人しかいない部屋はしんと静まり返っていて、ミサトの呼吸はおろか、心臓の音でさえ聞こえそうなほどだった。
「母は、10号機の開発に携わっていたそうです。それでいて、私を使徒との戦争に巻き込みたくなかった。だから、私に何も残さなかったのだと……」
「……そうだったのね」
ミサトは初めて知る事実だったらしく、少し目を見開きながらも、カグヤの話を静かに聞いていた。
カグヤの頬を、悔し涙が伝った。
「母が作ったエヴァだというのに、私は使徒を倒すどころか、10号機と満足にシンクロすることすらできていない。その結果人類が滅んだら、本末転倒じゃないですか。母は、そんなこともわからなかったんでしょうか。副司令に褒められるくらい賢かったのに」
母がこのNERVに関わっていたこと、そして人類を勝利に導けるほどの才女であったことを聞いて、カグヤは確かに誇らしく思ったのだ。だからこそ、カグヤに何も残さなかった母に対する失望が余計に大きかった。
ミサトは黙り込んでいたが、やがて前を向いたまま、淡い微笑を浮かべた。
「私もね、残された人だったの」
NERVは不気味なほどに静かで、自爆に向けてのエネルギーを溜め込んでいるかのようにも見えた。
「父はセカンドインパクトの起きたまさにその時、私だけを救命シェルターに乗せて死んでいった。私や家族のことなんて、ちっとも考えていないような人だったのに。父は私に命だけではなく、憎しみとも愛とも呼べない複雑な感情を残していった。今も、私はその気持ちを持て余し続けている」
その話は、数年間ミサトと共に過ごしていたカグヤでさえ初めて知るものだった。
ふと、ミサトの使徒職滅に対する執念は、その父との最期に起因しているのかもしれないと思った。
「……でも、もし私に子供が出来ても、きっと私は同じことをするわ」
カグヤは、はっとミサトの横顔を見た。
「どうして……ですか」
「さぁ、どうしてかしら。でも、子供に生きていてほしいっていうのは、理性を超えた本能なんだと思うわ。たとえ人類最後の一人になったとしても、どうか自分の子供だけは、ってね」
「そんな……」
子供を持つ親というのは、そんなことを考えるものなのか。
自分の理解の範疇を遥かに超えるその言葉に、カグヤはやっとの思いで返事を絞り出した。
「そんなのは、おかしいですよ」
「ええ、まさに狂気ね。でもその狂気が、人類を生かし続けてきた」
その時、沈黙を切り裂いて天井のスピーカーが鳴った。
R警報の解除、第一種警戒態勢への移行――つまり、リツコらが使徒に勝ったのだ。今回両者にとって武器となったMAGIは、リツコの母である赤木ナオコ博士が発案、開発したものである。
(私達は生かされてきた)
その言葉を、カグヤは心の中で復唱した。
エヴァもMAGIも、並大抵の精神では作り上げられない代物だ。人類が生き延びるため、子供達を生き延びさせるために作られた兵器で、カグヤ達は必死に戦っている。未だ生き続けられている。
せめて子供だけは、という親達の執念じみた祈りが伝わってくるような気がした。
ミサトは安堵の溜息をつくと、埃を払って立ち上がった。
「やれやれ、NERVが爆発しなくてよかったわ。さ、シャワーでも浴びに行きましょ。もう全身埃まみれよ」
「はい、行きましょう」
カグヤもミサトの後に続いて立ち上がった。
もう悔し涙は流れなかった。
冷めきったコーヒーを飲み干し、リツコは省エネモードになっていたノートパソコンのエンターキーを叩いた。閉じた瞼が開くように、ぱっと液晶が光り出す。
そこで、リツコは目を瞬かせた。
「あら……?」
カグヤの心電図、脳波、血圧などを記録していた生体データの処理が完了している。
そこには、『No abnormal condition』、つまり『異常なし』との結果が表示されていた。
「変ね」
リツコが最初に見た時は、第八の使徒が羽化する直前に、カグヤのA-10神経の接続値がほんの僅かに不安定になっていたのだ。
だが今は、該当箇所を確認してもそのような結果は見つからない。
「気のせいだったのかしら」
MAGIとリツコのダブルチェックでも引っかからないということは、多分その時のリツコの勘違いだったのだろう。
そう判断して、リツコはノートパソコンの電源を切った。
「リリンよ、未だ盲目であれ。我が望みを果たすために」