17 Buds of jealousy

 水よりわずかに赤いL.C.L.が、カグヤの全身を満たしていく。もはや日常の一部ともいえる、ハーモニクスのテストだ。
 いつもは息を殺してじっと不快感に耐えるだけだったが、今回はカグヤは感覚を研ぎ澄ませるように柔らかく目を瞑っていた。

 (母さんの名残を感じられるだろうか)

 このエヴァ10号機は、カグヤの母親である如月リエが開発したそうだ。その話を聞いてから、カグヤはこの10号機にもう一度乗る日を密かに待ちわびていたのだ。
 カグヤの母は、カグヤが8歳の時に事故で亡くなってしまった。あれから6年が経った今となっては、その声も忘れてしまったし、顔も薄ぼんやりとしか思い出せない。それでも、カグヤは母のことを忘れた日など一度もなかった。カグヤを愛し、この世界を愛していた、強く美しい母のことを。

 (私がこの10号機に乗っているって知ったら、母さんは悲しむのかな)

 『彼女は君を巻き込みたくなかったのさ』と、冬月はカグヤに語った。だから、この10号機はカグヤを受け入れようとしないのだろうか。シンクロ率の上昇はエヴァの性能向上を意味するが、同時にパイロットへの精神的・肉体的負荷の上昇をも招く。母はそれを理解していて、わざとシンクロ率を低値に抑えるようなシステムを組んだ——なんて、そんなシステムがあったとしたら、すぐにMAGIに看過されてしまうだろう。

 (たとえ母さんが認めてくれなくても、私は……)
 
 肺の全てをL.C.L.で満たしても、母の包み込むような優しさを鮮明に思い出すようなことはなかった。まるで誰もいない部屋で大声を出した後のように、胸の中に一抹の寂しさだけがよぎる。
 やはりこの10号機に母の面影はない。
 そんなことはわかりきっていたはずだった。

 なのに。

 『7番、汚染区域に隣接。限界です』
 『そう……』

 胸が苦しい。なんだか今日は調子が悪い。
 早く上がりたい、とカグヤは閉鎖されたエントリープラグの天井を見上げた。

 テスト終了後、パイロット4人はいつものように小会議室へ集合していた。出力された解析データを手に、リツコが4人の前に立つ。

 「4人ともお疲れ様。シンジくん、よくやったわ」
 「何がですか?」
 「ハーモニクスが前回より8も伸びているわ。大した数値よ」

 リツコの言うように、それは驚異的な成長だった。既にシンジはハーモニクス、シンクロ率ともにカグヤとレイを抜かし、アスカに迫る勢いになっている。これを才能と言うのだろう、とカグヤはしみじみ思った。
 シンジが褒められたのが気に食わないアスカは、案の定「ふん」と鼻を鳴らした。
 
 「でもあたしより50も少ないじゃない」
 「10日で8よ。大したものだわ」

 それに比べて、と言いたげに、リツコがカグヤに視線を移した。

 「カグヤちゃんは前回より3減っているわね。心拍数も上がっていたし、調子が悪かったのかしら」
 「はい、そうみたいです……すみません」
 「謝ることじゃないわ。こういうのはプレッシャーを感じれば感じるほど成績が悪くなるって、貴方ならもう知っているでしょう。実戦では良い成績を出してるんだから、もっと自信を持ちなさい」
 「はい……」

 自信を持てと言われても、カグヤの人生における挫折の9割がエヴァに関することなのだから、それで自信を持つには無理がある。
 リツコが部屋を出た後、カグヤは流石に陰鬱な気分になって溜息をついた。残った3人が、心配そうにカグヤを見つめる。

 「カグヤ、大丈夫? 顔色悪いよ。やっぱり今日は体調悪かったんじゃない?」
 「ちょっとカグヤ、元気出しなさいよ! あんたの分まであたしが働けばいいだけの話じゃない」
 「アスカ、それフォローになってないよ」
 「うるさいわね、元はと言えばあんたが良い成績取るのが悪いんじゃない」
 「なんだよそれ、僕は別に……」

 励ましているつもりなのだろうが、なんだかシンジとアスカの雲行きが怪しくなってきた。カグヤが口を開きかけた時、レイが先に言葉を発した。

 「二人とも、喧嘩はやめて」
 「レイ……」

 その言葉がカグヤではなくレイの口から出たことに、レイを除く全員が驚いた。シンジとアスカが揃って口を噤み、「ごめん」と同時に謝る。
 カグヤは努めて明るく笑った。

 「大丈夫だよ、こんなの慣れてるし。最近の調子が良すぎただけで、いつもこんなもんだったから」

 それは事実だった。最近のカグヤは第八の使徒を単独で撃破することに成功したり、使徒と戦うたびにシンクロ率の記録を更新していたが、まずエヴァを歩かせるのに数年要していたことを考えると、最近の方がむしろイレギュラーなのだ。
 とはいえいつものように会話をする気にもならず、カグヤは三人に背を向けた。

 「先に上がってるよ。クールダウンの時間、長めに取りたいから……三人は先に帰ってて」

 残された三人は、密かに顔を見合わせていた。
 
 
 
 クールダウンを長めにすると言ったカグヤは、その言葉通りいつもより長めにシャワーを浴び、念入りにストレッチをしてロッカールームを出た。
 ポケットから携帯を取り出し、父とのメッセージ画面を開く。「もうすぐ迎えに行くから待ってて」とのことだ。

 「了解、っと……」

 そう返信したカグヤは、玄関フロント近くのソファに座って迎えを待つことにした。暇なついでに、側にある自販機でジンジャエールを買う。
 プルタブを開けると、炭酸の抜ける小気味良い音が響いた。ぴりついた液体を喉に流し込む。ハーモニクステストの時に感じていた心拍数の上昇や独特な不快感は、もうすっかり消え失せていた。

 「ふぅ……」

 よかった。そろそろ、“いつもの自分”に戻れそうだ。
 うつむき気味に缶を見つめていると、左の方から足音が近付いてきた。

 「……見つけた、カグヤ」

 その声を聞いた瞬間、カグヤはなぜか心臓が飛び上がるような気持ちになって振り向いた。

 「…………シンジか」

 別の人間の名前を呼びそうになり、一瞬声が詰まった。呼ばれたシンジは軽く手を上げ、苦笑した。

 「綾波だと思った?」
 「いや……」

 レイと間違えたのではなかった。では、誰と間違えたのだろう。NERVにシンジと同じ年頃の男子は他にいないはずだった。
 違和感の正体を深く考える前に、シンジが向かいのソファに腰掛け、何気ない風に口を開いた。

 「カグヤって、明後日の晩空いてる? ケンスケがさ、ミサトさんの昇進祝いしようって言うんだ」
 「明後日? いいよ。そうか、ミサトさん昇進したもんね」
 「うん、そうなんだ。一尉から三佐に」

 それきり、話題が切れて沈黙が流れた。シンジが所在なさげにうつむいているのを、カグヤはじっと眺める。
 なんとなく、彼の本当の目的はカグヤを昇進パーティに誘うことではないのだろうと思った。それだけならば、携帯にメッセージを残してくれれば済む話だ。

 「……もしかして、私のこと気にしてくれてたの?」

 そう尋ねると、シンジはぴく、と体を動かして、照れくさそうに頬を掻いた。

 「うん……でもやっぱり、何も気の利いたこと言えないや。ごめん」
 「いや、こうして気にかけてくれただけで嬉しいよ。ありがとう」

 実際シンジの立場からしてみれば、たった数回のシンクロテストで簡単にカグヤの成績を上回ってしまったわけで、そんなカグヤに対する適切な言葉を探すのは中々難しかっただろう。それでも腫れ物のように接するでもなく、こうして様子を見に来てくれたことがカグヤにとっては一番有り難かった。
 ふと、カグヤはシンジに聞いてみたくなった。

 「シンジはさ……お母さんに会いたいって思うこと、ある?」

 シンジもカグヤと同じ、母親を亡くした者同士のはずだった。基本的に、エヴァのパイロットは全員母親を亡くしている。
 彼は虚を突かれたように黙り込んだが、すぐに首を横に振った。

 「ないよ。というより、全然知らないんだ。写真とかそういうものは一つも残ってないし、誰も母さんのこと、何も教えてくれないし」
 「そうなんだ……それって、ちょっと寂しいね」
 「カグヤは?」
 「私は……会いたくない、と言ったら嘘になるかな」

 シンジと一緒にいると、カグヤは不思議と自分の心の柔らかいところもさらけ出せるような気がしてくる。多分、レイを守れるようにだとか、アスカに馬鹿にされないようにだとか、そういう細かいことを考えずに済むからだろう。
 カグヤはぽつりと呟いた。

 「10号機の開発には、私の母さんも関わっていたんだって。それを聞いたら、いつまでたっても10号機とのシンクロ率が上がらない自分のことが虚しくなってきて……10号機は母さんの遺物のはずなのに…………いや、ごめん。シンジに言ってもどうしようもないよね」
 「そうだったんだ……。カグヤのお父さんとかは何も教えてくれないの?」
 「うん。父さんはNERVの関係者じゃないからね」
 「そうなんだ。まあでも、僕の父さんもエヴァのことなんて何一つ教えてくれないし、もしかしたら僕達には教えられないような何かがあるのかもしれないよ」
 「確かにそうかも」

 シンジは冗談っぽく言ったが、カグヤはあながち間違いではないような気がした。
 NERVの情報統制機構は大変厳しいもので、昔カグヤが自宅で父にちょっとした仕事の話をしただけで、翌日NERVの上官から注意されたことがある。父はNERVと一切関わりのない人間なので、NERV側が家での会話を盗聴しているとしか考えられなかった。今では流石に自宅に盗聴器が仕掛けられることもなくなったが、たとえ親子間であっても漏らしてはいけない情報が存在するのは事実だ。
 そう考えると、カグヤは少し気分が軽くなるのを感じた。母が何も遺さなかったのは、きっとそういう事情があったに違いない。
 「それに」とシンジが続けた。
 
 「僕はシンクロ率の高さだけが全てじゃないと思う。カグヤは実戦でも僕を上手くサポートしてくれるし、助かってるよ」
 「本当? ありがとう。最近あまり一緒に出撃してないけど、また一緒に出れるといいね。あっいや、一番はもう使徒が来ないことなんだけど」
 「あはは、そうだね。使徒が来たら、一緒に戦えるといいね」

 ようやく訪れた和やかな空気を楽しんでいると、NERV本部のロータリーによく見知った車が入ってきた。父の車だ。

 「あ、迎えが来た」
 「カグヤのお父さん? 迎えに来てくれるんだ」
 「まあね、働いてる場所が近いから」

 車のドアが開き、ワイシャツ姿の父が出て来た。父はきょろきょろと首を動かしていたが、ガラス越しにカグヤを見つけると、満面の笑みで手を振った。隣にシンジもいるのに、とカグヤは顔が熱くなる。
 だが隣を見ると、シンジは何か信じられないものを見るかのように目を見開いていた。そこまで驚かれるとは思わず、カグヤは困惑する。

 「あれ、カグヤのお父さん?」
 「う、うん、そうだけど……どうかした?」
 「いや、僕……でも……」

 要領を得ない答えにカグヤが首を傾げていると、父は保護者用のセキュリティカードを通して中に入ってきた。中に入ってこなくてもいいのに、とカグヤは苦々しい気分になる。
 なぜ苦々しい気分になるのかといえば、それは父の独特な口調のせいだった。

 「お待たせ、カグヤ。あら? そちらの方は……」
 「友達の碇シンジくんだよ。同じパイロットの」

 食い気味に話を被せたが、おそらくシンジには父の女性的な口調が聞こえたはずだった。変な父親だと思われたりしないか心配になる。だが、シンジはドン引きするでも嫌悪するでもなく、ただ父を、如月トウマを呆然と見つめていた。

 「やっぱり、あの時の……」

 あの時の? カグヤは何の話かさっぱりわからなかったが、トウマもシンジを見て、「あら!」と感動したような声を上げた。どうやら二人には面識があるらしい。

 「あんた、あの時の家出少年じゃない! やだぁ、カグヤのお友達だったの!? カグヤ、それもっと早く言いなさいよ〜」
 「いや、どうして父さんがシンジのこと知ってるわけ?」
 「ちょっと前にこの子が路頭に迷ってたから、一緒にファミレスにご飯食べに行ったのよ。それきり見かけないし、心配してたんだけど」
 「路頭に……ああ、あの時か。っていうか、父さんそんなことしてたの? それこそ初耳だよ」

 そういえばシンジがエヴァのパイロットになったばかりの頃に、彼が家出して行方不明になった騒動があった。父はその時にシンジを保護して知り合いになっていたというわけだ。もっと早く言ってほしいのはこちらの方である。
 シンジはぽかんと口を開けて二人を交互に見つめていたが、やがてトウマに頭を下げた。

 「あの時はありがとうございました。なんていうか……すごく救われました」
 「いいのよ、気にしないで。カグヤのお友達なんでしょう?」

 トウマはにこやかに言うと、「そうだ」と明るい声で手を叩いた。

 「よかったら、うちでご飯食べていったらどう? あたしももっとシンジくんのこと知りたいし」

 えぇ……とカグヤは苦い顔をする。別にシンジが我が家に来るのは一向に構わなかったが、父がシンジを介して自分のことを根掘り葉掘り聞いてくる予感しかしなかったからだ。
 しかし、シンジは緩やかに首を横に振った。

 「いえ、僕は……結構です。もうすぐミサトさん……僕の保護者が来ると思うので」

 その瞳はどこか悲しげに伏せられていて、カグヤはなんだか引っかかる。
 だが、トウマは「急に誘ってしまったものね」とすんなり納得した様子だった。
 
 「残念だわ、今度ぜひうちにいらっしゃい。じゃあ帰ろうか、カグヤ」
 「うん。じゃあシンジ、また明後日ね」
 「うん……またね、カグヤ」

 淡く微笑んだシンジに手を振って、カグヤは父の車へと乗り込んだ。流れるような滑らかさで車は動き出し、坂道を下っていく。
 
 その車の後姿を見つめながら、シンジはぼそりと呟いた。

 「そっか……あの人が、カグヤのお父さんだったんだ……」

 常夏の日本には不釣り合いなほど冷たい風が、ロータリーを吹き抜ける。その風が胸に灯っている小さな火を吹き消してしまわないように、シンジは胸元をぎゅっと握りしめた。