13 Knight and Princess

 『むかしむかし、あるところに、お姫様と騎士がおりました。
 騎士はたいそう姫を大切に思っており、姫もそんな騎士のことをずっと側に置いていました。
 ある日、姫は遠く離れた国へ嫁ぐことになりました。
 私も連れて行ってください。そう騎士は言いました。ですが、姫は首を振りました。そして、こう言い残しました。
 遠く離れていても、私たちの心は一つ。恋しくなった時は、月を見上げなさい。私も同じ月を見ています。
 騎士はその言葉を胸に刻み、姫のいなくなった国をずっと守り続けました。夜になるといつも月を見上げるその姿に、人々は尊敬の念を込めて“月の騎士”と呼びました——』
 
 
 「うわぁ、懐かしいなあ、この絵本! レイ、覚えてる?」
 「…………練習は」
 
 NERVにある居住スペースの一角で、カグヤは一冊の絵本を前に目を輝かせていた。その後ろでは、マットに腰掛けたレイが据わった目でカグヤを見ている。
 二人はユニゾン作戦の練習中だった。
 数日前、ミサトに呼び出された二人は、第七使徒殲滅のための作戦説明を受けた。その内容は、分離中のコアに対する二点同時の荷重攻撃、つまりエヴァ二体で完璧にタイミングを合わせて使徒を攻撃するというものだった。
 そこで、パイロット達はシンジとアスカ、カグヤとレイのペアに分かれて練習することになった。カグヤとレイはともかく、前者のペアに対しては不安しかなかったのだが、ミサトには勝機が見えているようだった。なんにせよ、カグヤ達は言われたことをやるしかない。
 カグヤはレイの方を振り返った。
 
 「まあまあ。もう私達の方はだいたい仕上がってるし、ちょっとくらい息抜きしても大丈夫だよ」
 「はぁ……」
 
 レイの溜息が聞こえてくる。しかしその声に呆れの色は薄い。いつものカグヤならこんなことは言わなかったのだが、これには訳があった。
 今回の作戦のメインはシンジとアスカで、カグヤとレイは彼らが上手くいかなかった場合の予備、つまり補欠なのだ。補欠だからといって手抜きが許されるわけでもないが、練習期間にはまだ余裕があり、完成度も上々であることを考えると、必死に練習する意義は薄い。
 それに、とカグヤは続けた。
 
 「レイとこんなに長い時間一緒にいるの久しぶりだから、嬉しくて」

 実際、使徒の侵攻が始まってからというもの、カグヤとレイが二人で一緒にいる時間はだいぶ減っていた。カグヤの言い分に納得したのか、レイがカグヤの手元の絵本に視線を滑らせた。
 
 「その絵本、懐かしいわ」
 
 カグヤは顔を綻ばせた。
 この絵本は、まだ二人が出会って間もない頃にカグヤがよく読んでいた本だった。絵本に出てくる“月の騎士”に憧れて、カグヤは「私もレイを守る!」と、ずっとレイの側を離れなかったのだ。
 最初はレイも大変迷惑そうにしており、保護者である碇ゲンドウにカグヤを突き出した。しかし、彼はカグヤに利用価値があると踏んだのか、「好きにさせろ」と言うだけだった。そんなわけで、許可を得たカグヤは実に5年以上もの間、堂々とレイのお世話を続けていた。
 レイにはたくさんの秘密があるようだった。その秘密は多過ぎて、プロフィールのような基本事項すら分からないことが多かった。しかし、このNERV内で「綾波レイ」という一人の人間を一番よく知っているのは自分だ、と思える程度には、長い月日を共にしていた。
 ——そしてきっと、これからもずっと、自分はレイの側にいる。
 
 「……レイ?」

 ふと顔を上げると、レイは絵本を見つめたまま、難しい顔をして黙り込んでいた。カグヤはそんなレイの意識を引き上げるように手を叩いた。
 
 「そうだ、もう一回練習したら、一緒にお風呂入ろう!」
 
 その言葉に、レイは目を瞬かせた。
 
 「一緒に?」
 「うん。NERVのお風呂広いから」
 
 レイはしばらく何か言いたそうな顔をしていたが、やがて瞑目して頷いた。
 
 「いいわ。その代わり、きっちり合わせましょう」
 「やー!」
 
 カグヤは満面の笑みを浮かべて、元気よく頷いた。ヘッドホンから、何度も聞いたクラシックの曲が流れ出す。
 
  *   *   *   *   *   * 
 
 「っはぁあ、生き返るー!」
 
 湯船に浸かったカグヤは、手足をぐっと伸ばした。度重なる練習で疲れた体に、お湯が染み渡っていくかのようだ。背もたれに体を預けると、体と湯の境目が消えてどこまでも溶けてしまいそうな感覚になる。
 天井を眺めるカグヤの視界の端に、すらりと白い脚が横切った。レイの細い足が湯に吸い込まれていく。熱い湯に浸かっても、レイは顔色一つ変えなかった。
 
 「シンジとアスカの方はどうなってるのかなぁ」
 「……この前よりは改善されていないと困るわ」
 
 この前、とは先日四人で集まり、ユニゾン作戦の出来栄えを確認した時のことだ。シンジとアスカはやはりまだうまく馴染めていないようで、二人のパフォーマンスの一致率は70%を下回っていた。カグヤとレイが90%の一致率を誇るのとは対照的だ。これには流石にミサトも苦い顔をしていたが、頑なにペアの変更を言い出さなかった辺り、彼女にも考えがあるらしい。
 カグヤは溜息をついた。
 
 「私達の方が上手くできてるんだから、私達を実戦に出してくれれば良いのに」
 「戦いたいの?」
 
 そう言われ、カグヤはレイを見た。レイの赤い瞳がじっとカグヤを見つめている。どこかで見たことがある、と思ったが、どこなのかは思い出せなかった。
 
 「いや、そういうわけじゃないけど……」
 
 カグヤとて別に戦いたいわけではない。というより、本当は戦いたくない。
 ただ、一致率で上回っているのに実戦に出されないということは、暗にカグヤやレイのパイロットとしての実力不足を指摘されているようで気に食わないのだ。
 
 「私のシンクロ率がもっと高ければ、色んなことが上手くいったのかなぁ」
 
 カグヤは度々そう思っていた。最初に使徒が襲ってきて、シンジが戦うことになってから、ずっとだ。
 もっと自分が“素晴らしい”パイロットだったら、シンジが無理に戦うこともないし、レイを危険に巻き込むこともないし、アスカだってわざわざドイツを離れることもなかったのではないか、と。
 しかしその考えはあっけなく一蹴された。
 
 「無理ね」
 「うわ、きっつ」
 「そうじゃなくて。……人は手の届く範囲しか守れないからよ」
 
 そう言うレイの表情はどこか翳りを帯びていて、寂しそうに見えた。たまにレイはこういう顔をする。カグヤにさえ言えない秘密を抱え、独りで煩悶している顔だ。
 秘密を話せと言ったって、話してくれないのはわかっている。それがおそらく、カグヤを守るためであることもわかっている。
 カグヤは湯船に沈むレイの手を、そっと握った。
 
 「……!」
 「でも、レイは手の届くところにいる」
 
 レイのまんまるに見開かれた目が、カグヤを映した。瞳の中の少女は、くしゃりと顔を歪ませた。
 
 「手が届くなら、守れるっていうことだよね」
 「……カグヤ、私……!」
 
 レイは思い詰めたような顔で、何か重大な話があるとでも言いたげにカグヤの手を握り返した。しかし、その表情はみるみるうちに驚愕へと切り替わっていく。
 
 (レイ?)
 
 何をそんなに驚いているのだろう。
 不思議に思ったカグヤは、しかし段々と自分の体が平衡を失って仰向けに倒れていくのを感じた。
 
 「カグヤ!!」
 
 暗く狭まっていく視界の中で、レイの短い叫び声だけが耳に残った。
 
 
 
 脱衣場の長椅子で、カグヤは仰向けに横たわっていた。扇風機から送られる風が、火照った体に心地よい。
 湯当たりを起こしたカグヤを、レイがここまで運んでくれたのだ。守ると言ったその舌の根も乾かぬうちに倒れてレイの世話になっているのだから、面目が潰れるにも程がある。
 レイは下着姿のまま、団扇でカグヤを扇いでいた。
 
 「はぁ……守るつもりが、守られちゃったな……」
 
 溜息混じりに漏らした言葉は、まだ体内に籠る熱を消化し切れていないように弱々しかった。レイも「その通りだ」と言わんばかりに眉を顰めている。いつもはカグヤがレイの世話を焼いているのに、今回は真逆だ。そのことが少し可笑しくもあった。
 顔を横に向けたカグヤは、ある物に視線を止めた。
 
 「あ、服……」
 「服?」
 「ちゃんと畳んでるじゃん」
 
 言われて、レイがカグヤと同じ方に顔を向けた。そこには脱衣籠の中に綺麗に畳まれたレイの衣服があった。
 
 「貴方が言ったんでしょう」
 「そうだけど」
 
 カグヤは短く笑った。
 会ったばかりの頃のレイは、生活能力の全てを母の胎に置いてきたのかと思うほど身の回りのことに無頓着だった。ずぼらというより、生きるのに必要最低限のことしかしていなかった。シャンプーの後にコンディショナーをつけないから髪がギシギシだったし、部屋にはよくわからないゴミが散らばっているし、服も同じものを何着も持っていた。中でもシンクロテストの時などに、脱いだ服を畳まないのですぐシワになっていたのがカグヤはどうしても気になった。
 
 『ダメだよ、レイ!』
 『……?』
 『こんなんで大人になったら、とりかえしつかなくなるよ!』
 
 小学四年生の時、堪忍袋の尾が切れたカグヤは、いつも父に言われていた言葉をレイにぶつけた。その時のレイは、どういうわけか「私は大人にならないの」などとぬかしてカグヤを更に怒らせたのだが、とにかくカグヤはレイの生活能力を鍛えることにした。
 その最たる例が、「脱いだ服は畳む」というものだった。
 口を酸っぱくして言い続け、それでもその生活習慣を矯正するのに三、四年くらいはかかったのだが、最近になってやっとレイが服を畳むようになってきた。それを見るとカグヤは、レイの中に自分の存在が根付いている気がして嬉しくなるのだった。
 それにしても、本来こういう仕事をするべきはカグヤではなく碇ゲンドウの方なのだ。今更ながら不審に思ったカグヤは、団扇で自分を扇ぎだしたレイを見つめた。
 
 「碇司令はレイの保護者なんだよね?」
 「そうよ」
 「身の回りの世話とかしてくれなかったの?」
 「……あの人は、そういうのじゃないから」
 「……なんだそれ」
 
 カグヤは呆れたが、レイの言わんとする意味はわからないでもなかった。おそらく、ゲンドウは戸籍や仕事上の保護者に過ぎないのだろう。レイの情緒的な保護者になることまではしていないのだ。それができるような人間なら、実の息子であるシンジのことだって手放しはしなかったはずだ。
 ふと、カグヤは気になった。
 
 「じゃあ、レイとシンジは義理の兄妹なの?」
 
 そう言うと、レイがかなり奇妙な顔をした。そのことに初めて気付いた、とも、そのことは知っていたが触れてほしくなかった、とも取れる顔だ。
 結局レイは、その問いに対し肯定も否定もしなかった。
 
 「……碇くんと貴方は似ている」
 「似てる? 私とシンジが?」
 
 予想もしなかった返事に、カグヤは目を白黒させた。そもそも自分とシンジが似ているなどと思ったことがない。
 しかし、レイはごく真面目な表情で続けた。
 
 「私を不思議な気持ちにさせるところが」
 「不思議な気持ち?」
 
 カグヤはレイの言葉を再び鸚鵡返しに尋ね返した。彼女の言うことが難解で複雑なのはいつものことだが、今日は輪をかけて意味がわからない。それは逆上せて頭が上手く回らないせいではないはずだ。
 黙っているレイに、カグヤは上体を起こして言った。
 
 「それって、好きってこと?」
 
 “好き”。その言葉に、レイの目がはっと見開かれた。
 それを見て、一瞬、カグヤの心臓がどきりと跳ねた。その質問をしたのは間違いだったかもしれないとさえ思った。しかし、レイは難しい問題を考えている時のように眉間に皺を寄せるだけだった。
 
 「わからない。ただ……貴方達を見ていると、心がぽかぽかする」
 
 それはどういう意味なのだろう。今度はカグヤが難しい顔をする番だった。
 ただ、レイが自分やシンジに対し、友愛に似た穏やかな好意を抱いているのだろう、ということはなんとなくわかった。それを理解すると、カグヤはじわじわと嬉しくなってきた。
 
 「ぽかぽか、か」
 
 確かに、胸の奥から温かさが湧き出てくるようなこの思いは、“ぽかぽか”と表現するのに相応しかった。
 全身を安堵が包む中で、カグヤの心をわずかに暗い影が差した。
 
 ——もし、レイがシンジのことを「好き」だと言ったら、どうしていただろうか。
 
 レイだって一人の人間だ。いつか愛する人ができて、カグヤより大事な存在ができるだろう。それはカグヤもよくわかっている。自分がレイの一番になり続けるのは不可能だし、そもそも今の時点で一番なのかどうかすらわからない。
 だけど、きっと、レイの口から他人への愛が零れ落ちて、レイの瞳が自分と違う人を映した時は——
 
 (寂しい、だろうな)
 
 いつか来る未来を想像し、カグヤの胸がちくりと痛んだ。
 
  *   *   *   *   *   * 
 
 シンジとアスカは猛烈な勢いでパフォーマンスの一致率を上げていき、作戦の二日前にはカグヤやレイと並ぶほどになっていた。レイの機体は修理中であり、カグヤのシンクロ率も四人の中で一番低いことから、予定通りにシンジとアスカが出撃することになった。
 カグヤとレイは念の為プラグスーツに着替え、発令所から二人の勇姿を見守っていた。
 
 「目標は山間部に侵入!」
 『いいわね、シンジ。私達のチームワーク、見せつけてやりましょう』
 『うん。62秒で終わらせよう』
 
 ユニゾン特訓を経て、アスカとシンジの関係も大分軟化したようだった。一時的なものなのかもしれないが、それでも二人が仲良くやっていける可能性があることに、カグヤは嬉しくなった。
 
 「頑張ってね!」
 
 カグヤがそう言うと、二人が無言で親指を立てる様子がモニターに映された。
 外電源がパージされ、カウントダウンが始まった。発令所に音楽は流れていなかったが、カグヤの脳内では発進と同時に作戦用の曲が流れ始めた。
 発令所からは小さく感嘆の声が上がった。
 
 「おお……!」
 
 二人のユニゾンはまさに完璧だった。カグヤが頭で描いた通りの動きがモニターに映っている。隣のレイも、じっとモニターを見たまま動かなかった。
 一糸乱れぬ連携攻撃を受けた使徒は、いよいよ分裂するためにそのコアを光らせた。今だ! カグヤもレイも、声にこそ出さなかったものの心の中では叫ぶような気分だった。まるでその声が聞こえているかのように、二機のエヴァは空へと舞い上がった。
 
 『『うぉおおおおお!!!』』
 
 分裂中のコアに、ミリ単位で揃った二機の蹴りが迫る。二点同時の荷重攻撃を受けた使徒は、目も眩むような光を放ち爆発した。
 エヴァが勝ったのだ。
 光と土煙で何も映らなくなるモニターを前に、カグヤは心臓が口から飛び出そうなほどの興奮を感じていた。
 
 「エヴァ両機、確認!」
 
 しばらくして、エヴァ両機の姿がモニターに映る。
 それを見たミサトとリツコが、揃って溜息をついた。
 
 「あっちゃー」
 「無様ね」
 
 最後の最後でバランスを崩した二機は、地面に頭から突っ込んでいたのだ。
 それを見たカグヤは笑いを堪えることができなかった。エヴァから降りた二人が仲良く喧嘩しているのも、その可笑しさに拍車をかけた。
 ふと、隣にいたレイが呟いた。
 
 「私達だったら、最後まで上手くできたわ」
 
 カグヤははっとしてレイを見た。その顔にわずかな悔しさと誇らしさが浮かんでいるのを、カグヤは確かに目にした。
 
 「レイ……」
 
 今まで、カグヤはずっと、自分だけがレイを大切に思っているように思い込んでいた。カグヤが一方的にレイに絡んでいるだけで、レイの世界に自分は映っていないのではないかとさえ思っていた。
 だが、それは違った。レイも、カグヤとの絆を信じていたのだ。カグヤがレイを想っているように、レイもレイなりにカグヤを想っているのだ。それをやっと心の底から理解することができた。
 きっと今は、カグヤがレイの一番の友達だ。いつか変わるかもしれなくても、今そう思ってくれるならそれで良い。
 カグヤは目頭が熱くなるのを感じた。
 
 「あったりまえだよ! だって私とレイだもん!」
 
 そう言って抱きつくと、いつものように迷惑そうな溜息が返ってきた。