それは2限目の数学の時間だった。唐突に照橋さんによるモノローグが始まった。
(……私の名前は照橋心美。自分で言うのもなんだけど、完全に美少女だと思う。
街を歩けばみんなが振り返るし、全国規模のファンクラブだってある。私が困っていれば必ず誰かが助けてくれるし、失敗しても大抵のことは笑って許してもらえる。
それに私は外見だけじゃない、性格も完璧なの。今だってこうして真面目に先生の話を聞いてるし、身の程知らずに私を誘ってくる男にも、いつだって慈愛の精神を忘れずに応対してあげてるわ。
そんな完全完璧美少女である私を前にして、「おっふ」しない男なんていなかった。これまではね。でも、あいつだけは違った。
そう、斉木くにお——)
秋の穏やかな日差しに照らされ、うつらうつらと船を漕いでいた私は、少女漫画における恋の始まりのような心の声を聞いてぴくりと瞼を動かした。いや、ちょっと違うか。少女漫画では男が「ふーん、おもしれぇ女」と言う場面はよくあるにせよ、女が「ふーん、面白い男ね」と言う場面はあまりないだろう。
まだ照橋さんのモノローグは続いていた。
(今まで私は全ての男が「おっふ」するのが当然だと思ってた。
私におっふしない人がいるなんて、そんなこと初めてだったから、私はどうしてもその理由が気になって仕方なかった……
でも、この前やっと理由がわかったの。
斉木は……佐取さんに恋してるのね!)
「ぶっっ!!」
突拍子もない考えを聞いてしまった私は思わず噴き出してしまった。教師やクラスメイトの訝しげな視線に対して、私はとっさに涼しげな顔を繕って「思い出し笑いです、すみません」と誤魔化す。どうにか納得してもらえたようで、教師はまた板書に取り掛かった。
照橋さんはそれを気にも留めていない。
(確かに、佐取さんと私ではタイプが違うわ。そもそも私が美しすぎて恋愛対象になりにくいっていう問題もあるんだけど、斉木は佐取さんみたいな穏やかで優しそうな子がタイプなのね。だったら私におっふしないのも頷けるわ。……あと、あの子の方がちょっと胸も大きいし)
((待て待て待て待て))
斉木くんと心の声が被る。視界の端では彼が額に手を当てて項垂れているのが見えた。タイプ云々の話以上に、照橋さんの妄想の中で勝手に巨乳好きにされては斉木くんもたまったものではないだろう。
どんどん白字で埋まっていく黒板と、どんどん空白が増えていく私のノートを置き去りに、照橋さんの暴走はまだまだ続いた。
(でも佐取さんは斉木の想いに気づいていないのね……この前も佐取さんが「友達だ」って言ったとき、斉木はショックで呆然としていたもの。斉木にしてみればフラれたような気分よね……陰気で奥手そうな斉木のことだから、もうアプローチできなくなっちゃうかも……)
(だからフってないって! そもそもアプローチも何もないし!)
今すぐ彼女の勘違いを訂正したいところだが、照橋さんは一言も喋っていないため私から手を打つことはできない。まるで手出しできない上空から爆弾を落とされ続けているような気分だ。
奇妙な悔しさと恥ずかしさとで私が歯噛みしていると、照橋さんは何かを思い立ったようにグッと拳を握りしめた。
(元はと言えば囃し立てた私たちのせいでもあるし、こうなったらこの私が斉木の恋を成就させてあげるしかないわ! 完全完璧美少女によるサポートが受けられるなんて、斉木は私に感謝しなさいよね!)
((おっふ……))
とんでもなく面倒臭いことになってしまい、私と斉木くんは揃ってため息を吐いた。
* * * * * *
(……で、何やってるんだ)
(はっ、敵の隙を伺っております)
放課後、下校している照橋さんの様子を物陰から伺っていた私は、どこかから聞こえてきた斉木くんのテレパシーにそう返した。側から見れば今の私は立派なストーカーと思われるかもしれないが、これは敵(照橋さん)を知るための隠密行動である。目標に隙ができた所を接近、捕獲し、斉木くんが私のことを好きなどというのは大きな勘違いであることを知らしめなければならない。
(勘違い…………か)
(ん?)
(いや、なんでもない。程々にしておけよ)
そう言い残して斉木くんのテレパシーは完全に消えてしまった。多分瞬間移動で家に帰ったのだろう。私は改めて照橋さん……もとい目標をじっと観察した。
現在時刻は16時40分。目標は16時23分に学校から出た後、この大通りを住宅街方面に向かって南下している。その間に通行人からおっふされた回数は女23回、男89回。こうなってくると私の脳内までおっふで埋め尽くされてしまいそうだ。
ちなみに、私と目標との距離は30メートルくらい空いている。尾行した直後は15メートルほどしか空けていなかったのだが、気配に鋭い照橋さんはふと手鏡を取り出したかと思うと、その手鏡越しに私のいる物陰をじっと見ていたのだ。流石に肝が冷えた私は目標との距離を大幅に空け、代わりに彼女の心の声を注意深く聞くことでこうして尾行を続けている。
小指の先ほどの大きさになった目標が、肩にかかった髪をさらりと払った。漂ってきた芳しい香りに、背後にいた男達が一斉に昇天しそうになっている。
(ふぅ……今日は体育があったから疲れたわ。運動している間もずっと美しい顔を保ち続けるのって、結構大変なのよね……)
そう、今日は体育の授業でバスケットボールをやったのだ。私と照橋さんは違うチームだったのだが、仲間からパスを受け取り、華麗にシュートを決める照橋さんにはコート中の人間が見とれていた。もしこれがテレビ中継されていたら、美少女選手が奇跡のシュートを決めた瞬間として全国ネットで一斉に話題になっていただろうし、SNSに上がっていれば1日で100万いいねがついただろう。
そこから数歩ほど歩いた目標は、有名コーヒーチェーン店の看板に目を留めた。
(チョコレートフラペチーノか……今日は頑張ったし、飲んで行っちゃおうかな)
(……!!)
今だッ!
尾行をやめて近接戦に移行するべく、私は店に入って行った目標の後を猛ダッシュで追いかけた。たまたま店でばったり出会った風を装って話し掛け、一緒に飲み物を飲みつつ斉木くんに関する誤解をそれとなく解消する、という作戦だ。我ながら完璧すぎる。
店に入った後何度か深呼吸をして息を整えた私は、あくまで自然に照橋さんに近づいていった。
「あっ、照橋さん! 偶然だね〜!」
「えっ? 佐取さん?」
私が現れるとは思っていなかったのだろう、照橋さんが目を丸くして私を見つめている。しかし、流れ込んできた彼女の思考は、逆に私を驚かせた。
(珍しい、今日は斉木と一緒じゃないんだ)
(……えっ?)
私、斉木くんとそんなに一緒にいたっけ? 普通に一人で帰ってるだけで「今日は一緒じゃないんだ」とか思われるレベルなの? そんなに?
そんな私の混乱など当然ながらつゆ知らず、照橋さんは完璧な美少女スマイルを浮かべた。
「良かったら一緒にお茶しない?」
「えっ、あ、ああ、喜んで……!」
待て、その台詞は私が言うつもりだったんだ。いかんいかん……混乱しすぎて後手に回ってしまっている。
私は気を取り直してカフェラテを注文すると、照橋さんと向かい合って席に座った。まずは軽い世間話から入ることで、相手の緊張を緩和する作戦だ。
「照橋さん、今日の体育凄かったね!」
「えっ、そんなことないよ〜!」
(そんなの当然に決まってるじゃない。完全完璧美少女たるもの、シュートの1本や2本決めて当然よ)
「は、はは……ほんと、すごいよね……」
照橋さんは可愛らしくはにかんで謙遜してくれたが、その心は私の褒め言葉など一滴も響いてないかのように堂々としている。逆にこっちが緊張してくるレベルだ。
次は何を言うのが効果的か私が考えあぐねていると、照橋さんが口を開いた。
「でも、佐取さんも運動神経良いよね! この前の体育祭の時だって、走るのすごく速かったし」
はうっ!
な、なんだこの嬉しさは……喜びのあまり作戦が全部頭から吹っ飛んでいきそうだった。
私は心が読めるので、褒め言葉がお世辞かそうでないかはすぐにわかる。そして今の照橋さんの言葉は紛れもなく本心から出たものだったのだ。こんな美少女に本心で褒めていただけるなんて……あの恐怖の女帝が私のことを褒めてくださるなんて……
——はっ!! ダメだダメだ!
思考が遠くに飛び立ちかけたのをどうにか理性で堪え、私は「ありがとう」とにこやかに礼を言う。浮ついた気持ちを流し込むようにカフェラテを啜っていると、照橋さんの心の声が聞こえてきた。
(私、同年代の女子が一番苦手なんだけど、佐取さんとはなんだか自然に話せるな……なんでだろう?)
(えっ……)
トゥンク……
いや、トゥンクってなんだ! 落ち着け自分!
べ、別に照橋さんみたいな超絶美少女に特別扱いされて嬉しかったとか、そんなことは絶対ない。だって照橋さんは今日のターゲット、彼女の誤解を解くという重大な使命が私にはあるのだ。そう、使命を思い出せ、私。
どうやって斉木くんの話題を振ろうか考えていると、私の顔を見つめていた照橋さんが「はっ!」と何かに気づいたような顔をした。
(わかった! この子……私に完全敗北していることを認めてるからだわ!)
「ふぐっ!」
まさかの解答に、私は思わずカフェラテを噎せてしまった。ちり紙でそっと鼻を抑える私をよそに、照橋さんは納得いったような清々しい顔をしている。
確かに、私は初めて照橋さんに会った時、悲鳴も白旗もあげて降参の意を示しているし、それ以降も照橋さんに敵うなどと一度たりとも思ったことがない。だって心の声が怖いんだもん。私が照橋さんに勝てるなんて、万に一つもあるわけがない。
あれ? でも、ってことは……
(私が照橋さんの誤解を正すのも無理なのでは…………)
言われてみれば、私は今日何一つ照橋さんの心を揺るがすようなことができていない。そもそも斉木くんの話題に辿り着くまでに、私の方がこれほどダメージを負っているという事実。こんなことでは、とても彼女の誤解を正すなどできるわけがない。
……なんということだ。
私は負けた。もう本当に照橋さんの言う通り、完全敗北だ。いや、そもそも最初から勝負にすらなっていなかった。きっと私はこれからの高校生活中ずっと、斉木くんに片想いされているという誤解を抱かれたまま過ごしていくのだろう……斉木くんごめん……
あまりの惨めさに視界が潤み始めた、その時だった。
「あれ? やっぱり姉ちゃんだ」
「あっ、光輝……!」
聞き馴染みのある声がして顔を上げると、そこには私の弟である佐取光輝が立っていた。店の窓から降り注ぐ夕陽が弟を照らし、その顔面の良さも相まってスポットライトが当たっているかのようだ。気のせいか、店内も騒ついているような気がする。
「たまたま店の前通ったら姉ちゃんっぽい人がいたから、入って来ちゃった。友達と一緒なんて珍しいね、しかも美人」
「あぁ、うん。照橋さんって言う同じクラスの子なの。照橋さん、紹介するね。この子は……」
そこで私は固まった。
照橋さんが、あの照橋さんが、普段の美少女スマイルも忘れぽかんと口を開けたまま弟のことを見つめていたのだ。しかも思考が読み取れない。これは完全なる無だ、彼女の思考があまりの驚きで無に包まれている。
私みたいな冴えない奴にこんなカッコいい弟がいるなんて、と衝撃を受けているのだろうか。それにしてもそこまで驚くことは無いんじゃないか、なんかちょっと傷つくな……。
そう思っていると、だんだんと照橋さんの頰に赤みが差してきた。薔薇のように色づいた頰……どころか顔中が林檎のように真っ赤に、果ては耳まで赤くなっている。そして怒涛のように思考が雪崩れ込んできた。
(な、なに、これ……なんでこんなに胸がときめくの……?)
……え?
呆然とする私の脳内に、まだまだ思考が流れ込んでくる。
(なんてかっこいい人なの……これが噂の一目惚れ? でもそんな、この私が一目惚れだなんて……)
「初めまして、佐取光輝です。いつも姉がお世話になってます」
(はぁあああこっち見た!! しかも笑った!!)
「は、初めまして……照橋心美です」
顔から湯気が出そうになっている照橋さんが、消え入りそうな声でそう言った。ギョッとして彼女を見れば、普段の自信に満ち溢れた美少女オーラはどこかに霧散し、そこには一人の少年を前に顔を赤らめる健気な女の子がいた。
こんな照橋さん知らない。
顔を引きつらせた私をよそに、弟はうんうんと頷いて「こんな綺麗な人に会えるなんて今日はいい日だな」と、一切下心を感じさせない(そして実際にない)声でそう言った。照橋さんはと言えば顔を真っ赤にして俯き、「ありがとうございます」と呟いていた。照橋さんの方が年上なのに、年長者の威厳というものがまるでない。
「じゃあ俺はこれで。お邪魔しました! 先家帰ってるね」
そう言うと、弟は颯爽と店を出て行った。照橋さんはその後姿をいつまでも見つめていたかと思うと、急に私の方を向き直ってすごく真剣な顔をした。
「……ねぇ」
その後に続く言葉を聞きながら、私はとんでもないことになったと明後日の方向を見つめていた。