その毒を飲む

 女が捕まっていることは己の聴覚情報から知っていた。しかしそれが鷲谷真梨子であることは予想外だった。
 こうも行く先々に真梨子が現れると、果たして自分の使命の上には彼女が転がっているのではないかという錯覚を覚える。しかし今回の目標は、以前の緑川のように自分を狙ってきたわけではなく、むしろ女なら誰でも良いという集団だった。なぜ真梨子が捕まっているのか考えたが、偶然以上の何物でもなさそうだった。

 鈴木一郎が真梨子を見つけたのは、彼が違法薬物グループのトップである男を殺し、その周りにいた部下も殺し終え、何か役立つものはないかと屋敷内を見回っていた時だった。
 真梨子は屋敷の隠し部屋と思しき一室で、革張りのソファの上を、手首足首と口にガムテープを巻かれた状態で転がされていた。衣服はおろか下着さえ身につけていなかった。アンモニア臭は立ち込めていなかったが、ソファは体液で濡れていた。彼女のものと思しき汗の匂いがした。
 部屋に入ってきた男が鈴木とわかった時の真梨子の顔は形容しようがなかった。とにかく驚き、羞恥、絶望、安堵、様々な感情が入り混じっていて、情緒の理解に著しく欠けている鈴木には理解するのが困難だった。
 彼女に近づくと、真梨子は怯えたように身を強張らせた。鈴木の鼻粘膜をそれまでに嗅いだことのない微粒子が侵襲し、しばし硬直する。彼女の顔面は紅潮し、体温も上昇していた。鼻息は押し殺したように不規則だった。鈴木が彼女の口に貼られたガムテープを剥がすと、ガムテープの内側が唾液で湿っていた。
 「覚せい剤ですか」
 鈴木は平坦な声でそう尋ねたが、返事はなかった。真梨子は唇を噛み締めて泣いていた。いや、何かを堪えているようでもあった。
 内臓の異常や外傷などによる痛みを堪えているのであれば、迷走神経の作用によって顔面が蒼白になるはずだった。しかし真梨子の肌は健康的で、血色が良すぎると言っても良いほどだった。
 血生臭い世界に生きてきた鈴木には、彼女の体に一体何が起こっているのかを理解するのにかなりの時間を要した。それでも、脳内で書籍のデータベースを探り、それらしい記述を探し当てるのに一分ほどしかかからなかった。
 「媚薬ですか」
 真梨子の体が動揺で身じろいだ。直後、彼女の唇から悩ましい呻き声が漏れた。素肌と擦れたソファの刺激が堪えるようだった。
 鈴木は今まで他人との性的接触は故意に避けていた。リスクが高すぎるわりに得られるものがないからだった。しかも性に関する書物は学術的に書かれていることが少なくて、情緒に訴えかけるものが多く、鈴木は今でもその世界に距離を抱いていた。
 「……す、けて」
 真梨子の掠れた声が耳に入った。鈴木は無言で真梨子を見たが、それを彼女は聞き取れなかったと捉えたのか、もう一度呟いた。
 「お願い、助けて……」
 この苦しみからの解放、という点であれば、今鈴木のポケットに入っているサバイバルナイフで彼女の首を切ってしまえば良かった。しかしこの殺人には意味がなかった。神は救いを求める人をも殺せとは言わないはずだ。
 「僕には出来ません」
 そう言って首を振ると、真梨子は子供のようにさめざめと泣きだした。
 「お願い、辛いの。もうずっと苦しくて堪らないの。あの人たちが、この薬は深い性的快楽を得るまでずっと服用者を苦しめるんだって言ってた。こんな無様な姿、他の人になんて見られたくない。貴方が良い」
 「僕には経験がありません」
 「何でもいい。酷くしてくれても構わないし、貴方はベッドの上で横になって、勃起さえしていてくれたらそれでいい」
 真梨子も、鈴木も、部屋の中央にデカデカと置かれたキングサイズのベッドを見つめた。鈴木は腕時計を見る。犯行のために確保してあった時間を考えると、ここで悠長に性交に及んでいる暇はなさそうだった。鈴木は来ていたコートを脱いで真梨子に掛けると、そのコートごと彼女を横抱きにした。彼女が抗議の声をあげた。
 「何するの!」
 「時間がありません。場所を移しましょう」
 彼女を車に乗せるまで、鈴木は自分が真梨子の手と足を縛るガムテープを取り忘れていることに気がつかなかった。

 車内には真梨子の押し殺したような喘ぎ声が響いていた。車中で事に及んでいるわけではなく、車の振動でさえも彼女の体を刺激してしまうからだった。どんな名ドライバーでもこの状況で正確に運転できるものはいまいが、鈴木にとって喘ぎ声は単なる声の一種でしかなかった。
 真梨子は辛そうに眉根を寄せ、神経を焼き切りそうなほどの快楽に耐えていた。周りの景色など見えていなかった。
 だが鈴木が車を止めた駐車場を、真梨子は嫌という程よく見知っていた。
 「私の家は嫌!」
 「ここが最良です」
 「本当に嫌なの」
 「じゃあ僕は帰ります」
 そう言うと、真梨子は力なく押し黙った。やがて、帰らないで、と言う小さい声が聞こえて、鈴木は彼女を横抱きにして車を降り、家の扉を開けた。
 鈴木は彼女をベッドに下ろすと、自身も来ていた服を脱ぎ始めた。真梨子が当惑の声をあげた。寝ていてくれ、あとは自分がやるからという声を無視して、鈴木はシャツとトランクスだけの姿で真梨子の上に乗った。
 性交のやり方を知らないわけではなかった。時間がかかってでも女性のターゲットから情報を得る必要があれば、恋愛関係に持ち込んだ上で性交に及び、目的を果たすつもりだった。幸運にも今までそのような機会が訪れなかっただけだ。陰部神経の興奮を調節し、陰茎海綿体を弛緩させ勃起状態を維持することも可能だった。
 ただ、いざ及ぶとなると口付けの頻度や前戯の長さ、果ては挿入のストローク数に至るまで個人の裁量に任せられており、どうすれば真梨子を満足させられるかはわからなかった。
 口付けは恋人関係にあるもの同士がすることだそうなので、とりあえずそれは回避する事にした。無難に彼女の胸部に手を伸ばす。
 「んん……!」
 できる限り最小の力で乳房を揉むと、彼女から鼻にかかった声が上がった。乳頭を指の腹で転がすと真梨子の口から悲鳴が上がる。痛みによるものではないことを確認して、その作業を続ける。口に当てられた彼女の細い指の隙間から熱い吐息が漏れていた。
 「も、いい、から……下、触って」
 彼女の言う下がどこなのかはわからなかったが、とりあえず胸への刺激はもう十分だということだろう。鈴木は彼女の下腹部に手を伸ばし、そして膣へ中指を埋め込んだ。
 中指が内臓らしい生暖かさと不規則なうねりに包まれるのを、鈴木は集中して感じ取っていた。大量に分泌された膣液の影響で中指の動きは滑らかだった。ただ、真梨子の四肢がぎこちなくこわばっているのが気にかかった。
 「緊張していますか」
 「ちっ、ちが……」
 図星をつかれた時の反応だった。確かに膣口には処女膜が残っていて、彼女もこれが初体験であることを示唆していた。とはいえ特に鈴木のやるべき事に変わりはなかった。
 指を二本に増やす。膣内を広げるように指を動かすと、彼女から甘い悲鳴が上がった。懸命に抑えているはずなのに漏れ出るその声は、彼女がこの行為で快楽を得ていることを如実に語っていた。
 「ん、ぁあ……ひっ、うぅ」
 三本目の指を入れた時も、彼女の声の甘さは変わらなかった。快楽を得ているものの、媚薬の効果を消すにはまだ足りないようだった。
 鈴木は指を抜くと、自身の財布からコンドームを引っ張り出した。真梨子が目を白黒させた。
 「持ち歩いてるの?」
 「不測の事態に備えてです。今日のような」
 「き、今日みたいなのがそんなにあったら困るわ」
 さほど労力もなく鈴木の陰茎は勃起した。そこにくるくると避妊具を装着する。自分の特性からして可能性は低かったが、快楽に引きずられる可能性を考慮して、陰部神経の感度をやや弱めにした。
 膣口に亀頭をあてがう。真梨子が息を飲む音が聞こえた。
 「ねぇ、待って、ほんとに、」
 「書物に」
 「え?」
 「書物に書いてありました」
 そう言いながら、鈴木はその先端を徐々に真梨子の中へと埋めていた。
 「性交中に女性が待って、やめて、など制止の言葉を口にした場合、それは喘ぎ声の一種であることが多い、と」
 「ひっ、ああああああ!!!」
 ずぶり、と一気に男根を埋め込んだ。真梨子の喉から歓喜とも取れる嬌声が上がった。
 「違いますか?」
 「あ、はぁっ、あぁあ……そ、れは」
 「動きますよ」
 「あっ、やだぁ!まだだめっ、あっ、あんっ!」
 鈴木は真梨子の細い腰を掴むと、本に書いてあった通りに自分の腰を前後に振った。真梨子の膣はぎゅうぎゅうとうねるように鈴木を迎え入れた。神経の感度を低くしておいてよかった、と鈴木はらしくもなく靄のかかった頭で考えた。
 媚薬の影響か、真梨子は特に破瓜の痛みを感じている様子はなかった。ただずっと焦らされ続けていた物が与えられた事実に、心より先に体が喜んでいるようだった。
 「嫌だ、駄目などの否定の言葉も、本心から嫌がっている場合とそうでない場合があるそうです。貴方の場合はどちらですか」
 「っそんな、こと、聞かないで、もう……!」
 恥辱に顔を赤くして真梨子は横を向いた。余計なことを聞いただろうか。結局性交に関する知識を得た書物の真偽はわからぬままだ。だがなんとなく、鈴木はもう他の女性と性交することはないだろうと思い始めていた。
 真梨子は鈴木に突かれるたびに吐息交じりの甘い声をあげた。どちらのものかわからない汗がその白い腹部にポツリポツリと浮かんでいた。息を上げることもなく膣内を穿っていた鈴木は、この行為の終着点を探し出した。アダルトビデオでは男性が射精して終わる場合が多いが、そもそもこの行為の目的は鈴木の欲求不満の解消ではなく、真梨子の発情効果を打ち消すためのものだ。なら、彼女が満足するまで続けるべきなのだろうか。
 終わりは行為の開始から約40分後に訪れた。正確には、終わる気配を感じたのが40分後だった。真梨子の膣内がきゅうきゅうと不規則に蠢いたかと思うと、鈴木の背中に彼女が爪を立てたのだ。反射的に身を固くしたが、彼女のオーガズムが近いだけだとわかって、抽送の速度を少し上げた。真梨子は悲鳴交じりの声をあげた。
 「あ、お、願い……!て、を」
 「手?」
 「手を、握って」
 宙に迷った真梨子の左手を、右手でシーツに縫い止めた。潤んだ彼女の瞳と目があった。
 「……」
 自分の唇が開きかけて、何かを言いかけていたことに気づく。しかしその内容はわからなかった。
 真梨子はひときわ高い嬌声を上げて、全身の筋肉を収縮させたかと思うと、そのまま力なくベッドに足を投げ出した。部屋には彼女の呼吸音と、驚いたことに、自分の呼吸音も響いていた。

 「まさか、ロストバージンが貴方となんてね」
 スーツの袖に手を通している鈴木を見て、真梨子はそう呟いた。いくら薬を盛られていたとはいえ、患者と性的関係を持つなんて精神科医失格だ。淫靡に快楽に耽ったことといい、どんどん自分が駄目になっていく気がした。
 「どこか痛むところはありませんか」
 スーツのボタンを留めながら、鈴木はそうまじまじと真梨子の顔を見ていった。
 「途中から力の加減に意識がいかなかったので」
 「平気よ。十分上手かったわ。他の女も喜ぶんじゃないかしらと思うほどにね」
 言い終えてから、自分の物言いに意図せず棘が混ざっていたことに真梨子は気づいて、悔しくなった。これではまるで、遊び人と一夜を過ごした乙女の台詞ではないか。
 だが、鈴木は平然と、「もう性交をするつもりはありません」と言うものだから、真梨子はぎょっとした。
 「……そんなに嫌だったかしら」
 「いいえ。ただ」
 「ただ?」
 「なぜ人が性交に溺れるのかがわかったからです」
 それは。真梨子は言葉を失った。そんなことを言うなんて、それではまるで、彼が。
 「失礼します」
 「待って!」
 玄関に向かっていく鈴木の後を追おうと思ったが、達した後の体はなかなか思い通りに動かなかった。シーツを纏いどうにか玄関を開けた時には、もう鈴木の姿はどこにも見当たらなかった。
 真梨子は家に入り、力なく玄関の壁にもたれかかった。自分は脳内物質の悪戯なんかには惑わされないと思っていたのに、鈴木のことを考えると胸が苦しくて仕方なかった。