生命の記憶

 「入院することになった」

 病院の定期診察から帰ってきたみなとくんは、帰ってくるなり浮かない表情でそう言った。その言葉に、自分でも表情が強ばるのがわかる。
 みなとくんは生まれつき大きな病気にかかっていて、生まれてから十数年間もの間、ほとんどずっと病院で眠っているような状態だった。こうして大人になって私と過ごせていることが奇跡なのだと、誰もが口を揃えて言うような病気だ。奇跡なのだとわかっていても、こうしてみなとくんの口から入院という言葉が出るだけで、私は足元がぐらつくような錯覚を覚える。

 「どこか悪くなってたの?」
 「いや、そういうわけじゃないんだけど……退院してからしばらく経つし、少し大掛かりな検査をしたいから、って」
 「そうなんだ」

 よかった。別に、みなとくんの具合が悪いわけじゃないんだ。
 あからさまにほっとした私を見て、みなとくんが苦笑した。

 「ごめん、心配させた?」
 「えっ、あ、ううん! 勝手に心配してるだけだから、全然大丈夫!」
 「やっぱり心配してるんじゃないか。なんだよ、勝手に心配って」
 「えへへ」

 こつん、と頭を小突かれ、私ははにかむ。つられてみなとくんも笑顔になる。
 それでも、コーヒーに砂糖が溶けて消えていくように、みなとくんは再び浮かない顔に戻ってしまった。
 無理もない。みなとくんは病院が嫌いだ。人生の半分以上を否応なくそこで過ごしたのだから仕方ないのかもしれないが、「病院に行く」という予定が入っただけで、みなとくんは元気が無くなっていくように見える。
 その時、私はあることを思いついた。

 「そうだ。みなとくん、週末お休みだよね?」
 「え、うん。そうだけど……どうかしたの?」
 「海に行こうよ」
 「海? いいけど……」
 「やったあ。じゃあ、決まりね」

 突然の提案にみなとくんは驚いていたけど、すんなりと了承してくれた。
 そうと決まれば、早速準備しなくては。
 意気揚々と支度を始めた私を、みなとくんが不思議そうに見つめていた。
 
 
 
 私達の家は郊外の中でもかなり人の少ない場所にある。星が見たいから、という単純だが私達にとっては大事な理由でここに住むことを決めたのだが、移動はそれなりに不便なので、それぞれ自分の車を所有していた。私はSUBARUのレガシィを、みなとくんは同じくレヴォーグを。

 「どっちの車で行く?」

 私が尋ねると、みなとくんは少し悩む素振りを見せてから、

 「すばるのが良い」

 と言った。私は自分の車のキーを取り出し、キャリーバッグをトランクにしまう。たった1泊2日の旅行なのに、なんだか大荷物になってしまった。対してみなとくんは、いつものことながら軽装備である。
 運転席に座り、エンジンをかける。星型のキーホルダーが揺れた。命の風が吹くような力強いこの音を聞くと、私はいつも、自分が人を超えた力を持っているかのような不思議な錯覚に襲われる。
 前にそれをみなとくんに話すと、みなとくんはなにか聞きたいことを必死に我慢しているような表情で、「そんなわけないだろ」と言っていた。彼はたまにそういう表情をするけれど、一体何が聞きたいのか、その本当の言葉を語ってくれたことは一度もない。

 助手席に座ったみなとくんは、まるで自分の車のような勝手知ったる動きでオーディオのスイッチを入れた。

 「ナビいれようか?」
 「ううん、大丈夫」

 海に行くのは初めてだけど、行き方はちゃんと頭に入っている。流れるような滑らかさで車は動き出し、目的地への道のりを走り出していった。
 助手席に座っているみなとくんは、ぼんやりと流れる景色を見つめている。私達がデートする時は、たいがいどちらかの車を使って行動することが多いのだけど、互いの運転に口を出すことは殆どない。その必要がないからだ。レガシィはまるで私の手足のように、レヴォーグはまるでみなとくんの手足のように、自分が望んだ通りに動いてくれる。なんだか魔法使いの乗る箒のようだ、なんて、ロマンチックなことを思ったりもする。

 ふと視線を感じて、私は隣に目をやった。

 「……何かついてる?」
 「いや、何も。ただ、新鮮だなって」
 「新鮮? そうかなぁ」

 この車には何度もみなとくんを乗せているし、逆に私がみなとくんの車に乗ることも数え切れないくらいある。だから、いまさら「新鮮」と言う表現は、少し不可解な気もする。
 だけど、みなとくんは私を見つめ、柔らかく微笑んでいた。その視線に込められた温かな慈愛に、私もつられて口元が緩むのを感じた。
 
 
 海水浴シーズンも終わりに近いからか、海は思ったより閑散としていた。ちらほらと家族連れやカップルがいるくらいだ。
 更衣を済ませた私は、パラソルの下で待っているみなとくんの元へ駆けていった。
 
 「おまたせ!」

 みなとくんは私の格好を見て、ぱち、と驚いたように一つ瞬きをした。

 「すばる、その水着……」
 「えへ、どうかな? 似合ってる?」

 私が選んだのは、白地にピンクのフリルが入ったデザインの水着だった。前にショッピングモールで売られていたのを見て、ビビッときてその場で購入してしまったのだ。私のような大人の女性が着るにしては可愛すぎるデザインだけど、他の水着なんて目に入らなくなるくらい、どうしてもこの水着が欲しくてたまらなかった。
 みなとくんは私の水着を見たまま固まっている。その反応に、私は急に不安になってきた。

 「やっぱり、ちょっと子供っぽかったかな」

 そう言うと、みなとくんは慌てて首を横に振った。

 「そ、そんなことない。似合ってるよ、すごく」
 「本当に? 本当にそう思ってる?」
 「うん。なんていうか……感動した」
 「感動?」

 そこまで言われるとは思っていなくて、私は思わず頬を染める。こんなメリハリのない水着姿に感動してもらえるなんて、恐れ多い。
 みなとくんは私の手を握って、愛おしそうに言葉を続けた。

 「可愛いよ、すばる」
 「あ、ありがとう……」

 どうしよう。なんだか、恥ずかしくなってきた。
 私は耳まで赤くなっているのをごまかすように、海を指差す。

 「う、うみ! せっかく来たんだから、海に入ろう! みなとくんも、足だけ浸かる分には問題ないでしょ?」

 Tシャツにハーフパンツ姿のみなとくんを見上げる。
 持病や体質の問題があるから、みなとくんは普通の人と同じように海に入って泳ぐことはできない。それでも、海の水に足をつけるくらいなら許されるはずだ。
 私の言葉に、みなとくんは微笑を浮かべて頷いた。

 「そうだね。行こう」

 ぱっ、と軽い音を立ててみなとくんが日傘を差した。その影を2人並んでついていく。
 海水に足首を漬けると、思ったよりひんやりしていた。隣では、同じく浅瀬に入ったみなとくんが、目をきらきらと輝かせていた。

 「……冷たい」
 「えへへ、そうでしょ? じゃあ、これはどう?」
 「うわっ!」

 水をかけられて、みなとくんはあからさまに嫌そうな顔をした。「こっちは日傘で片手が塞がっているんだぞ」という恨み言が聞こえてくるかのようだ。
 でも、そんなしかめ面はすぐに崩れて、堪え切れない笑顔へと変わっていった。

 「やってくれたね、すばる。後で覚えててよね」
 「きゃあ、こわーい。あははっ」

 私は水音を立てながら、みなとくんの周りを惑星のようにくるくると逃げ惑う。ああ、幸せだ。晩夏の日差しに焼かれながら、私はしみじみと幸せを噛み締めた。みなとくんが、私を見て笑っている。狭い病院の一室ではなく、どこまでも広い海の下で。
 その時、私はあることを思い出した。

 「そうだ、写真撮らなきゃ」

 私の言葉に、みなとくんはすっかり慣れきった様子で「写真ね、はい」とポケットから私のスマホを出してくれた。
 腕を伸ばし、インカメラに向かって微笑む。スマホの画面に、みなとくんと私と、その間におまけ程度の海が映る。

 「撮るよー」

 小さなシャッター音が、私達の幸福を切り取って保存する。この思い出がデータとして永遠に残ることを感じると、私は自分でも不思議になるくらいにひどく安心してしまう。こうして二人で海に来たことなんて、写真が無くても思い出せるはずなのに。
  
 
 
 海で十分はしゃいだ私達は、早めにホテルに行って夕食を取った。
 シャワーを浴びてバスルームを出ると、みなとくんは椅子に座っていちご牛乳を飲んでいた。ずこー、と紙パックの中身が空になった音がする。
 
 「暇だったから、売店で買ってきた。すばるも飲むだろ?」
 「わぁ、ありがとう。飲む飲む」
 「じゃ、僕もシャワー浴びてくるよ」

 みなとくんと入れ違うように、私は椅子に腰掛けて、いちご牛乳にストローを差した。
 うん、甘くて美味しい、いつもの味がする。何か水ではないものを飲みたくなった時は、みなとくんも私も、いつもいちご牛乳を選んでしまう。尤も、みなとくんの場合は、私につられて好きになったのかもしれないが。
 スキンケアをして、歯を磨く。手持ち無沙汰になった私は、海で撮った写真を見返そうとスマホのアプリを開いた。ところが、何らかの拍子に画面の最上部を押してしまったようで、突然はるか昔の写真が表示された。

 「懐かしい……」

 思わず呟いてしまう。
 そこには、今よりずっと幼いみなとくんと私がいた。病衣に身を包み、痩せ切った姿をしているみなとくんと、笑顔の奥に不安を隠している、中学生の私だ。
 昔のみなとくんは、今よりもっと弱々しくて、眠っている時間も長かった。写真の背景は病室の中ばかりで、たまに繋がっている管の数が増えているものもある。そんな写真の中の私とみなとくんは、決まってぎこちない笑顔を顔に貼り付けている。
 画面を下にスクロールしていくと、だんだんと背景がシンプルになっていった。人工呼吸器が消え、精密持続点滴装置が消え、ある時には個室から大部屋に移っている。
 その中で、とびきりの笑顔の私達が写っている写真があった。初めて外泊が認められた時の写真だ。みなとくんの家族と一緒に、私が写っている写真まである。この時はみなとくんのご両親に、「あなたのおかげです」と頭を下げられてとても困惑したものだ。
 それ以降は、どんどん二人の表情が明るくなっていく。病室で一緒に誕生日ケーキを食べている写真。みなとくんが私の中学校の文化祭に来てくれた写真。本当の退院が決まって、二人で泣きながら喜んでいる写真。
 同じ高校の入学式の写真。天文部のみんなで星を見に行った時の写真。高校を卒業して、やっぱり同じ大学に入った時の写真。初めて二人で旅行に行った時の写真。ストレートで大学を卒業した時の写真。
 そして、みなとくんが私にプロポーズしてくれた時の写真。
 全部、全部私のかけがえのない宝物だ。
 
 「……すばる? どうしたの?」

 いつの間にかお風呂から上がっていたみなとくんが、心配そうに私を見ていた。どうやら、私は写真を見て涙ぐんでいたらしい。
 私は目尻を拭って、みなとくんにスマホの画面を見せた。

 「写真見てたら、懐かしくなっちゃって。これ」
 「……また懐かしいものを。昔の僕ってガリガリだから、あまり見てほしくないんだけど」
 「でも私は、どんなみなとくんも好きだよ?」

 そう言うと、みなとくんは困ったように笑って、それから私に口付けた。

 「ん……」

 スマホを机に置き、みなとくんの肩にそっと手を添える。ぽた、と水滴が手の甲に落ちてきた。角度を変えて、みなとくんがもっと深い口付けをしようとするのを、私はぐいと肩を押し返して反抗する。

 「だーめっ! ちゃんと髪の毛乾かしてから!」
 「……はいはい、わかったよ」

 お預けをくらったみなとくんは、残念そうに眉を潜めながらもくるりと洗面台に踵を返した。ドライヤーが最大風量で風を送る音を聞きながら、私は冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、サイドテーブルに置く。
 ふと、忘れていた不安が胸にこみ上げてきた。
 この旅行が終われば、みなとくんの入院はもう目の前まで近づいてしまう。たかが検査入院だ。でも、そこで異常が見つかったらと思うと、どうしても胸がざわめくのを感じる。
 私は今でも、いつまでも、みなとくんを失う恐怖から逃れられない。
 ゆっくりとベッドに腰を下ろすと、ドライヤーの音が止んだ。

 「すばる」

 髪を乾かし終えたみなとくんが、同じベッドにのしかかってくる。その時、私は改めてみなとくんの体を見た。
 昔とは比べ物にならないほど筋肉のついた、大人の男の体だ。もうその腕に注射針の痕は残っていないし、カテーテルが入っていた首の傷跡は、言われてもわからないほど薄くなっている。
 しかしその胸の中央には、縦にまっすぐ走る一本の赤い傷が残っていた。

 「……電気、消そうか」

 私の視線を感じてか、みなとくんがヘッドボードの照明スイッチに手を伸ばす。
 その手を、私は掴んだ。

 「消さなくていい」

 そう言うと、みなとくんは驚いたように目を見張った。

 「でも、傷が……」
 「私、好きなの、みなとくんの傷。だってこれは、みなとくんが生きようとしてくれた証だから」

 みなとくんの胸に、そっと手を添える。厚みのある胸板の奥に、力強い心臓の鼓動を感じる。大きな手術に耐え、何度も死の淵から這い上がり、今もみなとくんを生かし続けているその鼓動を。
 きっと大丈夫。
 根拠もなく、私はそんなことを思った。みなとくんは、生きている。だから大丈夫。
 みなとくんは、胸に添えた私の手を愛おしそうに頬へ導くと、再び唇を重ねた。腕を首に回し、私も口付けに応える。今度は深く、甘く、どこまでも互いを求めるように。薄く開けた唇の間からみなとくんの舌が入り込んできて、そうなると私の頭はまるでブレーカーが落ちたかのように、みなとくんと体を重ねることしか考えられなくなる。
 角度を変えてキスを繰り返しているうちに、いつの間にかナイトガウンの紐が解かれていた。ぷち、と小さな音がして、ブラジャーのホックが外される。胸をそっと包み込むように揉まれる心地よさに目を閉じていると、ふいに強い刺激が与えられた。

 「あ……!」

 思わず高い声が出る。
 赤ちゃんみたいに私の胸に顔を埋めたみなとくんは、ちらりと赤い舌を覗かせると、見せつけるように乳首を舐めた。弄られるたびにそこは硬さを増していき、じんじんと焼け付くような快感が走る。
 はやく、下も触って。
 許しを乞うように見上げれば、彼は意地悪く笑って、それからショーツに手を差し込んだ。既に熱くぬかるんでいたそこは、何の違和感もなくみなとくんの指を飲み込んでいく。少し指を動かされただけで、ぐちゅ、と花の蜜が溢れるような水音が鳴った。

 「すごいね、もうこんなになって」
 「やだ……言わないで」

 環境が違うからなのか、私の体はいつもより鋭敏にみなとくんから与えられる刺激を受け取っているようだった。ショーツを脱がす彼の指が太腿を擽るだけで、胸が切ないような、焦がれるような気持ちになる。
 だが、それはみなとくんも同じなのかもしれない。
 私を見下ろす彼の瞳はいつもより熱を帯びていて、欲や衝動といったものが私の肌に突き刺さってきそうなほどだった。

 「みなとくん……」

 名を呼ぶだけで、心臓がはちきれそうなくらいにどきどきする。きっと今夜は忘れられない夜になるだろうという予感が、私の肌を熱くする。
 みなとくんが掠れた声で囁いた。

 「すばる……いれるよ」

 ぎゅっと目を閉じて頷いた。その途端、熱い質量に体を貫かれる。
 何度も何度も受け入れているはずなのに、信じられないほどの快感が背筋を駆け上っていった。

 「あ——!」
 
 頭が真っ白になる。何かにすがりたくなって、みなとくんの背にぎゅっと手を回す。
 みなとくんも、吐息のような呻き声をあげて私を抱きしめた。二人でただじっと、何かに耐えるかのように互いを抱きしめあっている。そうしていると、彼の体温、息遣い、筋肉の動き、全てが響くように私に伝わってくる。
 みなとくんが私の中にいる。
 当たり前のことなのに、それを認識した途端、私の頭の中で何かが弾ける音がした。
 好きだ。
 みなとくんのことが、好きで好きでたまらない。
 
 「動くよ……すばる」
 「うん、うん……!」

 みなとくんの言葉に、私は壊れた玩具のような動きで首を縦に振った。
 そこからはもう、理性的な思考は全てどこかに飛んでいってしまった。
 指と指が絡む。肌と肌が触れ合う。吐息と吐息が混ざり合う。みなとくんと私を隔てる境界は消え失せ、重なり合った部位から体中が溶けて一つになっていく。
 生きている。みなとくんも、私も。
 空っぽになった頭の中で、ただその事実だけがわんわんと反響していた。胸が張り裂けそうなほどに切なくなる。
 愛してる。
 耳にその言葉が届いた。それは私の口から滑り落ちた言葉なのか、それともみなとくんが放った言葉なのか、快楽で靄がかった頭ではわからなかった。
 みなとくんが余裕のない声で私の名を呼んだ。

 「すばる、中に出すよ……!」
 「おねがい、きて……!」

 叫ぶようにそう返す。ぐっ、と一際強い衝撃が走って、みなとくんのものが中で脈打つのを感じた。
 命の素が注がれているのだな、とぼんやり思った。
 
 
 「寝ちゃったの? すばる」

 柔らかく頭を撫でられる感覚がする。
 まだ寝てないよ。
 そう言いたいのだけど、あまりの眠気に目も口も開かなかった。体を重ねた後はいつもそうだ。寝てはいけないと思いながらも、心地良い怠さについ目を閉じてしまう。
 私の髪に指を通しながら、みなとくんが優しく呟いた。

 「本当は、記憶があるかどうかなんてどうでもいいんだ」

 なんだろう、私は何か忘れているのかな。
 そう言われてみれば、そんなような気もした。私は何か、大切なことを忘れてしまっているのかもしれない。だけどそれが何なのかは、一生かかっても思い出せそうになかった。
 みなとくんは続ける。

 「僕はただ、すばるが側にいてくれたらそれだけでいい。できれば、1秒でも長くすばるの側にいたい。そのためなら何でもするって、決めたから」

 こつん、と額同士が重なった。私の肌を、みなとくんの髪の毛がちくちくとつつく感触がする。
 くすぐったいよ。
 そう言いたいのに、胸がいっぱいで言葉にならない。胸が締め付けられたみたいに苦しくて、なのにどうしようもないほど幸せだ。

 「だから怖がらないで、すばる。僕は必ず、戻ってくるから」

 唇に温かいものが触れる。それと同じくらいに温かいものが、私の目尻を伝っていった。
 
 
 
 それから数週間が経った。
 ソファに座ってぼんやりとしていた私は、玄関の鍵が開く音がして立ち上がった。遠くの大学病院まで検査入院の結果を聞きに行っていたみなとくんが、帰ってきたのだ。

 「おかえりなさい!」
 「ただいま」

 玄関に駆け寄ると、いつもと変わらないか、少々疲れた表情のみなとくんが靴を脱いでいた。私はどきどきしながら彼の説明を待つ。結果も早く聞きたいけど、それと同じくらいに大事な報告があるからだ。
 みなとくんはそわそわしている様子の私に気付くと、テストで100点を取った子供のような顔で微笑んだ。

 「なんともなかったよ。それどころか、ちょっと良くなってた。定期受診の間隔も、もう少し延ばして良いって」
 「え……ほんと?」
 「うん。すばるのおかげだね」

 何ともなかった、それだけでも嬉しいのに、まさか良くなってたなんて。思いもしなかったその言葉に、私は思わず目が潤むのを感じる。
 よかったね。
 お腹に手を当てながら、私はそっと心のなかで呟く。それは、そこにいる新しい命に対しての言葉でもあり、かつての私自身への言葉でもあった。
 初めて彼と出会った時は、こんな幸福な未来が待っていることなんて信じられなかった。彼の命の灯火が、ただ1分1秒でも長く保つことだけを祈っていた。それでも、まさに天文学的確率とも言えるほど様々な奇跡の連続で、私達はこうして今ここにいる。その奇跡を結んでくれたのは、宇宙に輝く昴の星なのかもしれない。
 
 「みなとくん、あのね……」

 私の言葉を最後まで聞いたみなとくんが、一筋の涙を零した。その涙を、私は今まで見たどんな星よりも綺麗だと思った。
 
 
 もうすぐプレアデス星団が見え始める時期だ。