ノートパソコンから流れてくる老人の穏やかな声を聴きながら、カグヤは何を考えるでもなく窓の外の景色を見つめていた。
この2週間ほどでクラスメイトはポツポツと減っていた。遠い街に疎開したのだ。街中で使徒との戦闘が起きているのだから当然と言えば当然である。もちろんNERVやその関連機関に保護者が勤めている生徒は第三新東京市に留まっているが、そうでない生徒がここの危険地帯にいる必然性はほぼない。
皆が心の何処かに不安を抱えていた。安全だと思っていた場所が戦地になったことへの失望。カグヤがパイロットだと知らないクラスメイト達は、カグヤを交えて世間話のように今の状況に対する不満を訴えた。街を守るためのロボットが、街を破壊してどうするのだと。その度に、カグヤは心の中が暗くなっていくのを感じた。
(使徒と戦う怖さなんて、何も知らないくせに)
それでもカグヤは自分がパイロットであることを公にはしなかった。何千万の人々がエヴァンゲリオンという一筋の希望にしがみついている以上、そのパイロットにかけられる期待の重さは一中学生が背負えるものを超えていると思ったからだ。ただでさえ人類を救うという重すぎる使命が課されているのに、人々の無限に膨らむ期待まで背負うのは無謀だった。
だというのに。
「はぁ〜、ほんとに何を考えてるんだか」
焼きそばパンを食いちぎりながら、カグヤは嘆いた。クラス中の注目がエヴァのパイロットたるシンジに集まったこともあって、今日は珍しく屋上でレイと昼食を取っている。カグヤが愚痴を言う間、レイは野菜だらけの弁当を黙々と食べ続けていた。
「ただでさえ第三の使徒戦でヘイト溜まってるんだから、自分がパイロットだなんて言わない方が良かったと思うけど。そもそも機密的に大丈夫なの」
「でも、いつかはバレるわ」
完食したレイがぼそりと呟いた。カグヤは意外そのものといった顔でレイを見つめる。
「使徒は時と場合を選んでくれないもの。授業中に召集がかかったら、私たちがシェルターにいないことはすぐにわかるわ」
「まぁね……」
レイの言うことは最もだ。確かにいつかはバレる。しかし、カグヤの心中では何も今言わなくてもという気持ちと、ならいつ言うんだという気持ちがせめぎ合っていた。焼きそばパン最後の一欠片を放り込んだカグヤは、鼻でため息をつく。
「何にもないといいけど」
「何も?」
「いや、血の気の多いやつに、『もっとちゃんと戦え!』とか言われてぶん殴られるとか」
「……何それ」
レイがカグヤを白い目で見る。しかしその予言は当たりすぎるほどに当たっていた。
* * * * * *
第四の使徒がやってきたという知らせは、終業直後にカグヤの携帯を震わせた。ポケットの中でそれを確認したカグヤは、バスケ部の主将に練習に参加できなくなったことを詫びてからNERVに向かっていた。
着替えて女子ロッカールームを出たカグヤは、学生服で男子ロッカールームに入ろうとするシンジの姿を認めて、目を見開いた。
「どうしたの、その頰」
「……何でもない」
明らかに何でもなくはない。まさか本当に殴られたのか。カグヤは腹の底からため息をついた。
「冷やした方がいいよ」
「……うん」
意気消沈しているシンジはふらふらとロッカールームに吸い込まれていった。こんな調子で本当に使徒と戦えるのか? カグヤはその余りの前途多難さにもう一度ため息をついた。
第四の使徒、シャムシエル。それは黒いイカのような形をしていた。主力は初号機、補佐が10号機、修理中の零号機は待機。カグヤにとってはこれが初戦だった。
やる気は十分、気合も十分。しかし、根性論が通用する相手なら誰も苦労はしていない。L.C.L.が注水される不快感に耐え、息を吸う。コックピットに外界の景色が映し出され、外部音声が繋がった。
「いい、シンジくん。貴方は敵のA.T.フィールドを中和しつつ、パレットの一斉射。練習通りにやるのよ。大丈夫ね?」
「はい……」
その生気のない返事にミサトは一瞬不安そうな顔をしたが、続けてカグヤの乗る10号機に視線を向けた。
「カグヤちゃん、貴方はシンジくんの補佐よ。敵の注意を引いて、使徒の攻撃から初号機を守って。初戦だけど、貴方なら出来るわ」
「了解です」
カグヤは気を引き締めた。戦闘経験ではシンジに劣るが、この10号機とは6年の付き合いなのだ。必ず勝ってみせる。制御室からマヤの高揚したような声が届いた。
「10号機、シンクロ率23.8%!」
「最高記録ね」
カグヤは体の芯から闘志がじわじわと湧いてくるのを感じた。
「発進!」
2機のエヴァンゲリオンが地上に発った。
10号機は使徒に近づき、距離を取るのを繰り返しながら使徒を開けた場所へと誘導していた。初号機が物陰に隠れながら、射撃のチャンスを伺う。そしてその時は訪れた。
「今だ!」
ちらりと見えたコアめがけて、初号機が一斉にパレットの弾を撃ち込んだ。辺りが爆煙で覆われていく。カグヤは覆われる視界の中、使徒がA.T.フィールドで防御する姿を捉えていた。
「ダメだ、効いてない!」
カグヤも使徒も黒煙に覆われてしまった。これはエヴァに熱探知機能をつける必要がある、とカグヤが思ったところで、空気を切り裂く音がした。
「碇くん!」
使徒の触手が初号機を襲う。銃身と建物が見事なまでの切り口で切断され、初号機は尻餅をついた。
「予備のライフルを出すわ、受け取って!」
しかし、初号機は、もといシンジは放心したように動かなかった。
(フラッシュバックか!?)
使徒の攻撃を受けたことで、第三の使徒に蹂躙された記憶が蘇ってしまったのかもしれない。
「はぁ、はぁ、はっ、はっ……!」
「碇くん、しっかりして!」
通信越しにシンジの浅く速い呼吸音が聞こえてくる。硬直している初号機に、使徒の影が落ちる。カグヤは無我夢中でエヴァを動かして使徒に飛びついた。道路に使徒が沈み、その体が淡く瞬いた。
「……! カグヤ、離れて!」
「ぐぁあああああ!!」
使徒を掴んでいるところから高電圧の電流が流し込まれる。その衝撃の約5分の1しかパイロットには伝わってこないにも関わらず、カグヤの腕を内側から破壊するかのような痛みが走った。初めて味わう激痛に、本能が死の危険を訴える。
「回路伝達に問題発生! 右手掌部回路がショートしています!」
その声で、カグヤは思わず敵から注意をそらし、自分の右手の感覚を確かめてしまった。生身の右手はカグヤの思い通りに動いたが、動くことの方が信じられなかった。
気付いた時には、使徒が再び初号機に触手を伸ばしていた。
「シンジ!!」
カグヤは思わずシンジの名を叫んだ。正気に返ったのか、初号機が触手の攻撃をあと一歩のところで交わし、ビル街の間を飛んで避ける。しかし、使徒は無差別に攻撃していると見せかけてある一点を狙っていた。
「アンビリカルケーブルが!!」
触手が攻撃したのは外部電源を供給する建物だった。初号機と10号機のモニターに残り活動時間を示すカウントダウンが映し出される。それに気を取られたのか、初号機は触手に足を捉えられ、山の方に放り投げられてしまった。
「くそっ、あっちばっかり狙いやがって!」
なおも追撃しようとする使徒の背中に10号機は再び飛びかかった。しがみついては投げられ、飛びついては弾かれを繰り返す。動かない初号機の様子に目を配っていると、制御室の困惑したような声が聞こえた。
「シンジくんのクラスメイト?」
「は?」
10号機のモニターにある映像が映し出される。それは初号機の指の間で震えている、鈴原トウジと相田ケンスケの姿だった。
それを見た瞬間にカグヤは全てを理解した。シンジを殴るような喧嘩っ早いクラスメイトなどトウジしかいない。軍事オタクのケンスケに連れられて、トウジも様子を見に来たのだ。カグヤは奥歯を噛み締めた。
「この……大馬鹿者がぁ!!」
こうなるとますます使徒の注意を初号機から逸らさなくてはいけなくなる。損傷覚悟で、カグヤは使徒の触手をひっつかんだ。
「うぐううっ……」
「カグヤちゃん、そのまま注意を引きつけて! シンジくん、そこの二人を操縦席へ! 二人を回収したのち一時退却、出直すわよ!」
ミサトの声にカグヤは頷く。しかし、リツコの厳しい声が飛んできた。
「許可のない一般人をエントリープラグに乗せられると思ってるの!?」
確かにそれは最もだった。機密保持の観点だけでなく、エントリープラグに別の人間、いわば異物を挿入することはシンクロ率の低下につながる。最悪、起動できなくなる恐れもあった。
制御室は沈黙していた。無限に続くかのような沈黙を破いたのは、活動限界のタイムリミットを告げる声と、カグヤの絞り出すような声だった。
「どっちでもいいから、早く……!」
高周波を発する触手をずっと掴み続けるのは至難の技だった。だんだんと腕の感覚がなくなっていくのを、カグヤはもはや気合だけで筋肉に力を込めていた。
「初号機のエントリープラグ排出、急いで!」
ミサトの声で初号機のエントリープラグが排出される。それを目にした瞬間、カグヤの右手が滑った。
「あっ!」
「危ない!」
自由になった片方の触手が初号機に伸ばされる。エントリープラグを攻撃されたら死は免れない。思わずカグヤは目を瞑った。その時だった。
「ッ……!」
シンジの震えるような微かな声が聞こえてきた。
すんでのところでエントリープラグを収納した初号機が、両手で触手を掴んでいた。そのまま初号機は触手を力づくで押し戻す。カグヤも手を離した。形勢逆転と思われたが、制御室のアラームが鳴った。
「初号機の神経系統に異常発生!」
「異物を二つもプラグに挿入したからよ! 神経パルスにノイズが混ざっているんだわ!」
その通りに、初号機はギクシャクと錆びたロボットのようなぎこちない動きで立ち上がった。神経伝達がスムーズに行われていないのだ。ミサトの号令が聞こえた。
「回収ルートは34番、山の東側へ後退して! 10号機は補佐!」
「わかりました!」
初号機に向かっていく使徒の側面めがけて、10号機は体当たりをしかけた。先ほどのように触手を掴めたら良かったのだが、電子回路が損傷した腕はもはや言うことを聞きそうになかった。
「シンジ、早く!」
しかし初号機は逃げそうになかった。それどころか、肩のウェポンラックが開かれる。初号機がプログナイフを握りしめた。
「何やってるんだ、逃げろ!」
「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……」
カグヤの声は届かない。シンジは壊れたカセットのように、「逃げちゃダメだ」と何度も繰り返していた。
「初号機、10号機、活動限界まで残り1分!」
アラームが鳴る。シンジが悲鳴をあげて使徒に突っ込んでいった。
「うわぁああああ!!」
「馬鹿!!」
カグヤも使徒に近づかざるを得なくなった。使徒が再び触手を伸ばし、初号機の胴体を貫こうとする。カグヤはまだ動く左腕で触手の一本を掴み、残る一本の触手に噛み付いた。
「カグヤちゃん!!」
ミサトの悲鳴が聞こえる。しかし、カグヤは痛みに耐えながらも、使徒のコアにナイフを刺した初号機の姿をじっと見つめていた。
(やれっ、シンジ……!!)
「うわぁああああっ!!」
シンジは錯乱しながらも、ナイフを握る力を弱めることはなかった。ギリギリと使徒のコアから火花が散る。しかし、まだ使徒を殺すには時間がかかりそうだった。
「初号機、10号機、活動限界まで残り30秒! 29、28、27……」
「うぐううううっ!!」
カウントダウンが始まる。それは使徒とエヴァ、どちらかの命の終わりを告げるカウントダウンだ。カグヤは使徒の触手を食いちぎらんばかりに噛み締めた。脳がかき混ぜられそうな程の高周波の暴力にカグヤは必死で耐える。それに応えるかのように、シンジはきしむ両腕を動かして、ナイフを捻った。
「うぉおおおおおッ!!」
使徒のコアは今や爆発しそうなほどに火花を激しく散らしていた。それでもまだ触手は激しくうねり、生きていることが明白だった。
(早く早く早く早く……!!)
「5」
もはやカグヤもシンジも、声すら出せなかった。
「4」
ただ、使徒の動きを抑えていた。
「3」
ただ、使徒のコアを刺していた。
「2」
エヴァの勝利を祈って。
「1……!」
人類の勝利を祈って——
* * * * * *
それから数日後。第壱中学校の2年A組教室では、二人の少年が浮かない顔をして二つの空席を見つめていた。
「今日でもう三日か……」
「如月さんが来なくなってから? 彼女もパイロットだったなんて、俺知らなかったよ」
「まぁ、それもあるけど。如月は入院しとんのやろ。俺が言ってんのは、転校生や」
トウジはため息をつく。脳裏には、トウジに殴られて不貞腐れたように外方を向くシンジの姿と、使徒を前に震えながらも戦ったシンジの姿が交互に映し出されていた。
そんなトウジを見て、ケンスケは苦笑しながらある紙切れを差し出した。
「これは?」
「転校生の連絡先だよ。心配だったら、電話してみれば」
「……」
トウジは手のひらに乗った紙切れを見つめた。小さな数字が縮こまるように連なっていた。