14 Sinking

 水音が耳に心地良い。カグヤは手元のテキストから顔を上げて、美しく透き通るさざ波を見つめた。
 波と言っても、ここは海ではない。NERVに備わっている温水プールだ。窓に近い一番奥のレーンでは、白い水着を着たレイが涼やかに泳いでいる。
 
 「今頃トウジ達は沖縄かぁ〜」
 「そのはずだね」
 
 目の前にいるシンジが羨ましそうにそう言った。
 この日、第壱中学校の二年生は修学旅行で沖縄へ行っているはずなのだが、当然というべきか、エヴァのパイロット達は修学旅行へ行くことを許されなかった。あまりに気落ちするアスカや、口には出さないものの残念に思ったカグヤのために、ミサトがプールの使用を許可してくれたのだ。
 とはいえカグヤは泳ぎが苦手だった。そのため、同じく泳げないというシンジと共に、プールサイドの簡素な机と椅子で学校の宿題をやっているところだ。
 
 「あ、ねぇ、カグヤ。この問題わかる?」
 
 シンジにそう聞かれ、カグヤは視線を彼の指差すテキストに移した。理科の問題集の一頁、熱膨張に関する問題だった。
 
 「ああ、その問題ね。これは……」
 
 カグヤは鞄から適当な紙を引っ張り出すと、説明のための図を描き始めた。そこへ、着替えとシャワーを済ませたアスカが近づいてくる。
 
 「何してんの?」
 「学校の宿題」
 
 カグヤは紙から視線を上げないまま答えた。原子を模した丸をいくつか描き、そこに矢印を引く。人にものを教えるのは嫌いではなかった。
 
 「せっかくプールで遊べるのに二人揃ってお勉強だなんて、お利口さんですわねぇ」
 「仕方ないだろ、やらなきゃいけないんだから……、うっ!?」
 
 嫌味っぽいアスカの発言に言い返そうとしたシンジが、奇声を上げて動きを止めた。何事かと顔を上げたカグヤも、目の前の光景に、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 二人の視線に気付いたアスカは、満面の笑みを浮かべて両手を広げた。
 
 「じゃーんっ! どうよ、アスカ様の完璧な水着は!」
 「派手……だね……」
 
 カグヤは率直な感想を口にした。
 上下お揃いの、白地に赤のボーダーが入ったビキニだ。中学生にしては出るところが出た身体が、美しい曲線を形成している。派手、というのはその身体のラインも込みでの発言だったのだが、アスカは気に食わなさそうに片眉を吊り上げた。
 
 「お子ちゃまなカグヤには刺激が強すぎたかしら?」
 「うるさいな」
 
 多分、カグヤが同じものを着てもああはならない。胸の辺りがライフセーバーのジャケットみたくなるのがオチだろう。だから単純に羨ましくもあったのだが、アスカにそれを悟られるのはなんだか癪で、カグヤはそっぽを向いた。
 そっぽを向いた先で、同じように真っ赤な顔を背けたシンジと目が合った。
 
 「う……」
 
 シンジが小さな呻き声をあげる。
 それを見て、カグヤの胸に幾分かの優越感が湧いてきた。この場合は、仲間意識と言い換えてもいいかもしれない。
 
 「お子ちゃまなのは、シンジも一緒かな」
 「う、うるさいな! 勉強! 勉強教えてよ」
 
 シンジが慌ててカグヤのメモに体ごと顔を向ける。説明の続きをしようとカグヤがペンを持った時、その手に水滴が落ちた。
 ぐい、と二人の間に身を寄せたアスカの髪から滴る水滴だった。急に目の前に現れた二の腕とその奥に見える膨らみに、シンジが仰け反るようにして身を引いている。
 
 「なーんだ、こんなの簡単じゃない。熱膨張ってのは、物は温めると大きくなって、冷やすと小さくなるっていう、ただそれだけのことよ」
 「さすがだね」
 
 紙に垂れた水滴でペンのインクが滲むのを見ながら、カグヤはそう答えた。
 頭上のアスカがむっとしたのがわかる。
 
 「こんなことくらい、当たり前よ。常識でしょ」
 「アスカにとっては常識かもしれないけど、私達にとってはそうでもないんだよ」
 「なーによ、澄ました顔しちゃってさ。あんただってこれくらい知ってたくせに」
 「褒めたんだから、ちょっとは嬉しそうにしてよ」
 「仲、良いんだね」
 
 二人のやりとりを見ていたシンジが唐突にそう言うので、カグヤもアスカも揃ってシンジのことを見つめた。
 
 「違うわよ」
 「どうだろう」
 
 アスカがきっぱりと否定し、カグヤが言葉を濁した。さらにカグヤは続ける。
 
 「私とアスカは友達だけど、アスカは私のこと、嫌いでしょ」
 
 その時、アスカははっとした顔をした。手に持っていたコップを落として割った時のような、驚きと気まずさの混ざった顔だ。
 それを見てカグヤが何か言う前に、アスカがそっぽを向いた。
 
 「私、泳いでくる」
 
 プールサイドにひたひたと足跡をつけながら、アスカは遠ざかってしまった。
 しばらく水音だけが響く中、シンジが困ったような顔でカグヤを見た。
 
 「えっと、ごめん。僕のせいで」
 「気にしないで」
 
 前にもこんなことがあったなと思いながら、カグヤは苦笑する。
 二番レーンでアスカが、六番レーンでレイが泳いでいる。その間に漂う静かな水面を見ながら、カグヤは口を開いた。
 
 「誰が悪いとかいう話でもないんだから」
 
 排水溝に水が吸い込まれる音がする。
 
  *   *   *   *   *   * 
 
 使徒発生の報を受けて、エヴァのパイロット四名が集まったのは翌日の午後のことだった。ブリーフィングルームの卓上に、発生途中の胎児のような影が映し出されている。これがまさしく、羽化する前の使徒らしい。今回の任務は、これを生きたまま回収することだそうだ。
 作戦担当者の話になり、リツコはじっとカグヤを見つめた。
 
 「今回の作戦は、カグヤちゃん、貴方にやってもらいます」
 「私ですか?」
 
 パイロットとしては戦績の良くないカグヤは、まさか自分が指名されるとは思わず、瞬きを繰り返した。
 隣でアスカが不満そうな声を漏らす。
 
 「どうしてカグヤなの?」
 「高温高圧という特殊環境下で実施する以上、強固なA.T.フィールドを繰り出せるカグヤちゃんが適任なの。万一戦闘になった時のために、補佐にはアスカ、貴方がついてもらうわ」
 「私が、補佐ぁ!? カグヤの!?」
 
 アスカの声が裏返り、カグヤは気まずさを感じた。
 
 「リツコさん、やっぱり私とアスカ、逆の方が……」
 「これは命令よ。ミサトからもこの配置にするよう言われているわ」
 
 リツコが間髪入れず断言するので、カグヤとしては閉口するしかない。
 ちらりと横目でアスカを伺うと、彼女はその顔に確かな嫉妬を抱えつつも、案外まっすぐな目でカグヤに向き直っていた。
 
 「だそうよ。この私が補佐するからには、絶対に成功させなさいよね、ポンコツカグヤ」
 「もちろん」
 
 ポンコツと言われようがなんだろうが、人類の命運がかかっている以上、任務は確実に成功させてみせる。
 カグヤもアスカと向き合うと、右手を差し出した。パシンと小気味良い音を立てて、その手が叩かれる。
 
 「よしなさいよ、水臭い」
 
 髪を靡かせて去っていくアスカの後ろ姿を、カグヤは呆けたように見つめていた。
 
   *   *   *   *   *   * 
 
 『浅間山に行ってくるよ。何かお土産いる?』
 『じゃあ、入浴剤が欲しいわ〜。でも、まずはあんたの無事が一番ね』
 『了解。必ず帰ってくるよ』
 
 父とのメッセージ画面を閉じたカグヤは、携帯の電源を切ると、そのまま鞄の中にしまった。浅間山に向かうヘリコプターの機内から、田畑ばかりの続く地上を見下ろす。手入れされていないので、田畑というよりは草原に近い。
 アスカは向かいの席で脚を組み、頬杖をついてカグヤとは逆方向の外を見ていた。
 
 「……まだあの時のこと怒ってるの?」
 
 ふいにアスカの声がする。カグヤは一ミリも視線を動かさないアスカのことを見た。
 
 「ドイツのこと?」
 
 アスカは頷かないが、それは暗に肯定の意を示していた。
 カグヤがドイツに留学していた頃、アスカと喧嘩したことがあった。始まりはアスカの些細な軽口からで、その日はたまたまカグヤも虫の居所が悪かったのか、語気を強めて言い返してしまった。それがヒートアップして、ついには相手の人格否定も混ざり、手が出かねないほどの大喧嘩になった。
 あの口論があともう五分も続いていれば、カグヤかアスカのどちらかが、言葉に詰まって手が出ていただろう。それがなかったのは、アスカの言葉があまりに深くカグヤに突き刺さったからだ。
 
 『なんであんたのシンクロ率が低いか、あたし知ってるわ。あんたが本気じゃないからよ。エヴァにも他のことに対しても一線置いて、自分は関係ないっていっつもヘラヘラ笑ってるからよ』
 
 言い返そうと思った。だが、できなかった。反論の言葉を探すうち、もう一人の自分が、誰よりも冷たくカグヤを嘲笑った。
 当たってるじゃないか、と。
 心臓に氷が滑り落ちたかのようだった。冷たい血液が脳を、手足を流れ、怒りに燃えていた体から、その温度の全てを奪い尽くしていったのを、今でもよく覚えている。
 顔色をなくしたカグヤに、アスカは不味いことを言ったと思ったのか、一瞬罰の悪そうな顔をした。だが謝りはしなかった。あの場で謝られていたとしても、カグヤは自分がますます惨めになっただろう。
 カグヤが日本に帰ったのは、その事件のすぐ後だった。和解するのに十分な時間も取れないまま、NERVのドイツ支部を離れることになり、後味の悪い思いを抱えたままカグヤ達は別れたのだった。
 
 「別に怒ってないよ」
 
 カグヤは本心からそう言ったのだが、アスカは眉を顰めて溜息をついた。
 
 「嘘ばっかり……」
 「嘘じゃない」
 
 なぜ信じてもらえないのかがわからず、カグヤは困惑した。確かにアスカの発言はショックだったが、それはその発言が図星だったからで、彼女自身に思うところがあるわけではない。
 アスカは手を伸ばせば届きそうなほど近くにいるのに、目の前で不機嫌な横顔を見せている彼女との間には、透明だが分厚い壁が横たわっているように感じた。
 
 「私はただ、アスカが……」
 
 カグヤがそう言った時、ヘリの扉が開かれた。到着したのだ。
 出口により近いところに座っていたアスカが、先に立ち上がった。
 
 「じゃ、後で」
 「……うん」
 
 アスカが光の差す方へ消えていく。カグヤも後を追った。 
 
 
 
 いくら耐熱耐圧の特殊装甲を纏っているとはいえ、ぐつぐつと煮えたぎるマグマの中に沈んでいくのは、流石にいくらかの恐怖を伴った。足が沈み、腰が沈み、それでも熱さが一向にやってこないことがわかって、カグヤは密かに息をついた。
 
 『カグヤちゃん、どう?』
 
 スピーカーからミサトの声が流れてきて、カグヤは頷いた。
 
 「問題ありません。視界不良につき、CTモニターに切り替えます」
 
 スイッチを押すと、何も見えなかったモニターにぼんやりと外の光景が映った。通常のセンサーでは溶岩内という特殊環境に適応できないので、放射線を用いたCTモニターに切り替えたのだ。それでも、ノイズが多くて地上と同じ見え具合というわけにはいかない。
 10号機は溶岩の中をどんどんと沈んでいった。
 
 『深度、400、450、500、550……』
 
 オペレーターのマヤが深度を計測する。その規則的な声を聞いていると、カグヤはだんだん意識がぼんやりしてくるのを感じた。モニターには何も映らない。ただゴーッというマグマの対流する低い音が聞こえるだけだ。
 深度が1000を超えた辺りで、ふいにリツコの声が聞こえた。
 
 『思ったより対流が速いわね』
 『目標の予測地点を再計算します』
 『カグヤちゃん、何か見える?』
 
 ミサトにそう言われ、カグヤはモニターに目を凝らした。何も見えない。溶岩に入ってすぐの時と、何も変わらない光景が広がっている。
 
 「いえ、何も……」
 
 見えません。
 そう言いかけた時、カグヤの言葉が止まった。
 
 ——何か来る。
 
 それは己の五感より先に、直感が訴えかけた気配だった。ざわ、と全身の鳥肌が立つ感覚がして、慌てて各種計器に視線を走らせる。それと同時に、スピーカーの向こうからざわめきが聞こえた。
 
 『深度1050、目標予測修正地点です』
 『モニターに微弱信号確認、どんどん近づいてきます!』
 『まさか、速すぎるわ……!』
 
 対流の影響なのか、モニターにシミのような点として映っていた使徒は、みるみるうちにその影を増していた。ブリーフィングルームで見た時と同じ、胎児のような影が近づいてくる。
 
 (間に合うか……?)
 
 カグヤがなるべく最速で電気柵を展開し、使徒を待ち構えていた、その時だった。
 空けられた地獄の門から悪魔がわっと飛び出てくるかのように、使徒が10号機の、カグヤの目の前に突然現れた。同心円のようなまん丸の瞳がカグヤを見て、カグヤもその目を見た。見てしまった。
 
 「……!!」
 
 それだけで、カグヤの全身を原始的な恐怖が包み込んだ。
 捕獲、使徒を捕獲しなければ。頭ではそうわかっているのに、指が動かない。スピーカーからの指示も、計器のアラームも、マグマの流れる低い雑音も、全てが消え失せたカグヤの脳内に、何かが囁きかけた。
 
 ——アナタ、ダレ
 
 スピーカーを通してではなく、確かに己の耳で直接その“声”を聞いた時、カグヤは目の前が真っ暗になるのを感じた。