水音が耳に心地良い。カグヤは手元のテキストから顔を上げて、美しく透き通るさざ波を見つめた。
波と言っても、ここは海ではない。NERVに備わっている温水プールだ。窓に近い一番奥のレーンでは、白い水着を着たレイが涼やかに泳いでいる。
「今頃トウジ達は沖縄かぁ〜」
「そのはずだね」
目の前にいるシンジが羨ましそうにそう言った。
この日、第壱中学校の二年生は修学旅行で沖縄へ行っているはずなのだが、当然というべきか、エヴァのパイロット達は修学旅行へ行くことを許されなかった。あまりに気落ちするアスカや、口には出さないものの残念に思ったカグヤのために、ミサトがプールの使用を許可してくれたのだ。
とはいえカグヤは泳ぎが苦手だった。そのため、同じく泳げないというシンジと共に、プールサイドの簡素な机と椅子で学校の宿題をやっているところだ。
「あ、ねぇ、カグヤ。この問題わかる?」
シンジにそう聞かれ、カグヤは視線を彼の指差すテキストに移した。理科の問題集の一頁、熱膨張に関する問題だった。
「ああ、その問題ね。これは……」
カグヤは鞄から適当な紙を引っ張り出すと、説明のための図を描き始めた。そこへ、着替えとシャワーを済ませたアスカが近づいてくる。
「何してんの?」
「学校の宿題」
カグヤは紙から視線を上げないまま答えた。原子を模した丸をいくつか描き、そこに矢印を引く。人にものを教えるのは嫌いではなかった。
「せっかくプールで遊べるのに二人揃ってお勉強だなんて、お利口さんですわねぇ」
「仕方ないだろ、やらなきゃいけないんだから……、うっ!?」
嫌味っぽいアスカの発言に言い返そうとしたシンジが、奇声を上げて動きを止めた。何事かと顔を上げたカグヤも、目の前の光景に、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
二人の視線に気付いたアスカは、満面の笑みを浮かべて両手を広げた。
「じゃーんっ! どうよ、アスカ様の完璧な水着は!」
「派手……だね……」
カグヤは率直な感想を口にした。
上下お揃いの、白地に赤のボーダーが入ったビキニだ。中学生にしては出るところが出た身体が、美しい曲線を形成している。派手、というのはその身体のラインも込みでの発言だったのだが、アスカは気に食わなさそうに片眉を吊り上げた。
「お子ちゃまなカグヤには刺激が強すぎたかしら?」
「うるさいな」
多分、カグヤが同じものを着てもああはならない。胸の辺りがライフセーバーのジャケットみたくなるのがオチだろう。だから単純に羨ましくもあったのだが、アスカにそれを悟られるのはなんだか癪で、カグヤはそっぽを向いた。
そっぽを向いた先で、同じように真っ赤な顔を背けたシンジと目が合った。
「う……」
シンジが小さな呻き声をあげる。
それを見て、カグヤの胸に幾分かの優越感が湧いてきた。この場合は、仲間意識と言い換えてもいいかもしれない。
「お子ちゃまなのは、シンジも一緒かな」
「う、うるさいな! 勉強! 勉強教えてよ」
シンジが慌ててカグヤのメモに体ごと顔を向ける。説明の続きをしようとカグヤがペンを持った時、その手に水滴が落ちた。
ぐい、と二人の間に身を寄せたアスカの髪から滴る水滴だった。急に目の前に現れた二の腕とその奥に見える膨らみに、シンジが仰け反るようにして身を引いている。
「なーんだ、こんなの簡単じゃない。熱膨張ってのは、物は温めると大きくなって、冷やすと小さくなるっていう、ただそれだけのことよ」
「さすがだね」
紙に垂れた水滴でペンのインクが滲むのを見ながら、カグヤはそう答えた。
頭上のアスカがむっとしたのがわかる。
「こんなことくらい、当たり前よ。常識でしょ」
「アスカにとっては常識かもしれないけど、私達にとってはそうでもないんだよ」
「なーによ、澄ました顔しちゃってさ。あんただってこれくらい知ってたくせに」
「褒めたんだから、ちょっとは嬉しそうにしてよ」
「仲、良いんだね」
二人のやりとりを見ていたシンジが唐突にそう言うので、カグヤもアスカも揃ってシンジのことを見つめた。
「違うわよ」
「どうだろう」
アスカがきっぱりと否定し、カグヤが言葉を濁した。さらにカグヤは続ける。
「私とアスカは友達だけど、アスカは私のこと、嫌いでしょ」
その時、アスカははっとした顔をした。手に持っていたコップを落として割った時のような、驚きと気まずさの混ざった顔だ。
それを見てカグヤが何か言う前に、アスカがそっぽを向いた。
「私、泳いでくる」
プールサイドにひたひたと足跡をつけながら、アスカは遠ざかってしまった。
しばらく水音だけが響く中、シンジが困ったような顔でカグヤを見た。
「えっと、ごめん。僕のせいで」
「気にしないで」
前にもこんなことがあったなと思いながら、カグヤは苦笑する。
二番レーンでアスカが、六番レーンでレイが泳いでいる。その間に漂う静かな水面を見ながら、カグヤは口を開いた。
「誰が悪いとかいう話でもないんだから」
排水溝に水が吸い込まれる音がする。
* * * * * *
使徒発生の報を受けて、エヴァのパイロット四名が集まったのは翌日の午後のことだった。ブリーフィングルームの卓上に、発生途中の胎児のような影が映し出されている。これがまさしく、羽化する前の使徒らしい。今回の任務は、これを生きたまま回収することだそうだ。
作戦担当者の話になり、リツコはじっとカグヤを見つめた。
「今回の作戦は、カグヤちゃん、貴方にやってもらいます」
「私ですか?」
パイロットとしては戦績の良くないカグヤは、まさか自分が指名されるとは思わず、瞬きを繰り返した。
隣でアスカが不満そうな声を漏らす。
「どうしてカグヤなの?」
「高温高圧という特殊環境下で実施する以上、強固なA.T.フィールドを繰り出せるカグヤちゃんが適任なの。万一戦闘になった時のために、補佐にはアスカ、貴方がついてもらうわ」
「私が、補佐ぁ!? カグヤの!?」
アスカの声が裏返り、カグヤは気まずさを感じた。
「リツコさん、やっぱり私とアスカ、逆の方が……」
「これは命令よ。ミサトからもこの配置にするよう言われているわ」
リツコが間髪入れず断言するので、カグヤとしては閉口するしかない。
ちらりと横目でアスカを伺うと、彼女はその顔に確かな嫉妬を抱えつつも、案外まっすぐな目でカグヤに向き直っていた。
「だそうよ。この私が補佐するからには、絶対に成功させなさいよね、ポンコツカグヤ」
「もちろん」
ポンコツと言われようがなんだろうが、人類の命運がかかっている以上、任務は確実に成功させてみせる。
カグヤもアスカと向き合うと、右手を差し出した。パシンと小気味良い音を立てて、その手が叩かれる。
「よしなさいよ、水臭い」
髪を靡かせて去っていくアスカの後ろ姿を、カグヤは呆けたように見つめていた。
* * * * * *
『浅間山に行ってくるよ。何かお土産いる?』
『じゃあ、入浴剤が欲しいわ〜。でも、まずはあんたの無事が一番ね』
『了解。必ず帰ってくるよ』
父とのメッセージ画面を閉じたカグヤは、携帯の電源を切ると、そのまま鞄の中にしまった。浅間山に向かうヘリコプターの機内から、田畑ばかりの続く地上を見下ろす。手入れされていないので、田畑というよりは草原に近い。
アスカは向かいの席で脚を組み、頬杖をついてカグヤとは逆方向の外を見ていた。
「……まだあの時のこと怒ってるの?」
ふいにアスカの声がする。カグヤは一ミリも視線を動かさないアスカのことを見た。
「ドイツのこと?」
アスカは頷かないが、それは暗に肯定の意を示していた。
カグヤがドイツに留学していた頃、アスカと喧嘩したことがあった。始まりはアスカの些細な軽口からで、その日はたまたまカグヤも虫の居所が悪かったのか、語気を強めて言い返してしまった。それがヒートアップして、ついには相手の人格否定も混ざり、手が出かねないほどの大喧嘩になった。
あの口論があともう五分も続いていれば、カグヤかアスカのどちらかが、言葉に詰まって手が出ていただろう。それがなかったのは、アスカの言葉があまりに深くカグヤに突き刺さったからだ。
『なんであんたのシンクロ率が低いか、あたし知ってるわ。あんたが本気じゃないからよ。エヴァにも他のことに対しても一線置いて、自分は関係ないっていっつもヘラヘラ笑ってるからよ』
言い返そうと思った。だが、できなかった。反論の言葉を探すうち、もう一人の自分が、誰よりも冷たくカグヤを嘲笑った。
当たってるじゃないか、と。
心臓に氷が滑り落ちたかのようだった。冷たい血液が脳を、手足を流れ、怒りに燃えていた体から、その温度の全てを奪い尽くしていったのを、今でもよく覚えている。
顔色をなくしたカグヤに、アスカは不味いことを言ったと思ったのか、一瞬罰の悪そうな顔をした。だが謝りはしなかった。あの場で謝られていたとしても、カグヤは自分がますます惨めになっただろう。
カグヤが日本に帰ったのは、その事件のすぐ後だった。和解するのに十分な時間も取れないまま、NERVのドイツ支部を離れることになり、後味の悪い思いを抱えたままカグヤ達は別れたのだった。
「別に怒ってないよ」
カグヤは本心からそう言ったのだが、アスカは眉を顰めて溜息をついた。
「嘘ばっかり……」
「嘘じゃない」
なぜ信じてもらえないのかがわからず、カグヤは困惑した。確かにアスカの発言はショックだったが、それはその発言が図星だったからで、彼女自身に思うところがあるわけではない。
アスカは手を伸ばせば届きそうなほど近くにいるのに、目の前で不機嫌な横顔を見せている彼女との間には、透明だが分厚い壁が横たわっているように感じた。
「私はただ、アスカが……」
カグヤがそう言った時、ヘリの扉が開かれた。到着したのだ。
出口により近いところに座っていたアスカが、先に立ち上がった。
「じゃ、後で」
「……うん」
アスカが光の差す方へ消えていく。カグヤも後を追った。
いくら耐熱耐圧の特殊装甲を纏っているとはいえ、ぐつぐつと煮えたぎるマグマの中に沈んでいくのは、流石にいくらかの恐怖を伴った。足が沈み、腰が沈み、それでも熱さが一向にやってこないことがわかって、カグヤは密かに息をついた。
『カグヤちゃん、どう?』
スピーカーからミサトの声が流れてきて、カグヤは頷いた。
「問題ありません。視界不良につき、CTモニターに切り替えます」
スイッチを押すと、何も見えなかったモニターにぼんやりと外の光景が映った。通常のセンサーでは溶岩内という特殊環境に適応できないので、放射線を用いたCTモニターに切り替えたのだ。それでも、ノイズが多くて地上と同じ見え具合というわけにはいかない。
10号機は溶岩の中をどんどんと沈んでいった。
『深度、400、450、500、550……』
オペレーターのマヤが深度を計測する。その規則的な声を聞いていると、カグヤはだんだん意識がぼんやりしてくるのを感じた。モニターには何も映らない。ただゴーッというマグマの対流する低い音が聞こえるだけだ。
深度が1000を超えた辺りで、ふいにリツコの声が聞こえた。
『思ったより対流が速いわね』
『目標の予測地点を再計算します』
『カグヤちゃん、何か見える?』
ミサトにそう言われ、カグヤはモニターに目を凝らした。何も見えない。溶岩に入ってすぐの時と、何も変わらない光景が広がっている。
「いえ、何も……」
見えません。
そう言いかけた時、カグヤの言葉が止まった。
——何か来る。
それは己の五感より先に、直感が訴えかけた気配だった。ざわ、と全身の鳥肌が立つ感覚がして、慌てて各種計器に視線を走らせる。それと同時に、スピーカーの向こうからざわめきが聞こえた。
『深度1050、目標予測修正地点です』
『モニターに微弱信号確認、どんどん近づいてきます!』
『まさか、速すぎるわ……!』
対流の影響なのか、モニターにシミのような点として映っていた使徒は、みるみるうちにその影を増していた。ブリーフィングルームで見た時と同じ、胎児のような影が近づいてくる。
(間に合うか……?)
カグヤがなるべく最速で電気柵を展開し、使徒を待ち構えていた、その時だった。
空けられた地獄の門から悪魔がわっと飛び出てくるかのように、使徒が10号機の、カグヤの目の前に突然現れた。同心円のようなまん丸の瞳がカグヤを見て、カグヤもその目を見た。見てしまった。
「……!!」
それだけで、カグヤの全身を原始的な恐怖が包み込んだ。
捕獲、使徒を捕獲しなければ。頭ではそうわかっているのに、指が動かない。スピーカーからの指示も、計器のアラームも、マグマの流れる低い雑音も、全てが消え失せたカグヤの脳内に、何かが囁きかけた。
——アナタ、ダレ
スピーカーを通してではなく、確かに己の耳で直接その“声”を聞いた時、カグヤは目の前が真っ暗になるのを感じた。