窓の外は快晴の日差しに包まれていたにも関わらず、病室の中は日が沈んだかのように暗かった。締め切られたカーテンから降り注ぐ一筋の光が、眠っている少女の青白い肌を照らしていた。
如月カグヤは少女の腕から伸びる、黄身がかった液体が入った管をじっと見つめていた。ぽた、ぽた、と音もなく血小板製剤が点滴筒に落ちていく。その音に合わせるかのように、心電図のモニター音が響く。
いつまでも続く静寂に、瞼が落ちたその時だった。
ビーッ、ビーッ!
「!」
カグヤは突然けたたましい音を立てて震えた携帯端末をポケットの中から取り出した。無機質な液晶には「使徒襲来」の赤い四文字が踊っている。それを見て、決して明るくはなかったカグヤの表情がより一層陰った。
「とうとう来たのか……使徒が……」
絞り出すようにそう呟き、カグヤは簡素なスツールに座ったまま項垂れた。タイミングとしては最悪としか言いようがない。目の前にいる少女——綾波レイも、そしてカグヤも、今は戦えないのだから。
「失礼する」
一声と共に、病室の扉が乱雑に開けられた。入ってきた複数名の職員と看護師を見て、カグヤは目を見開いた。彼らがとても病人の様子を見に来た雰囲気には見えないからだ。そしてその後に続く言葉に、カグヤはもっと驚いた。
「召集だ。綾波レイ、及び零号機に対して出撃命令が下っている」
「なっ……無理ですよ、そんなの! こんな状態のレイが戦えるわけないでしょう!」
慌ててカグヤが立ち上がったその時、ベッドサイドにある電話が鳴った。一連の騒動で目を覚ましていたレイは、上体を起こして電話をスピーカーモードに切り替えた。
『レイ』
男性のたったその一声が、病室を凍りつかせる。
『予備が使えなくなった。もう一度だ』
「はい」
「そんな、待ってください!」
カグヤが叫んだその時には、通話はもう切れていた。電話が切れたのを合図とするかのように、職員達がベッドの固定を解除してレイを運び出そうとする。どこへ? 戦場へだ。カグヤは無我夢中で職員の腕を掴んだ。
「ダメです、こんなことしたらレイが、レイが……!」
「ならばこの危機を誰が止めるんだ」
職員の一人がにべもなくそう突っぱねた。
「10号機が動けない、予備のパイロットも使えない以上、今エヴァを動かせるのは彼女しかいない。それとも、君が行くか? 君に動かせるならの話だが」
馬鹿にするような男の物言いに、カグヤは追いかける足を止めないまま、怒りと無力さで歯を食いしばった。レイを載せたベッドがエレベータに乗ってセントラルドグマへ連れて行かれるのを、カグヤはただただ追いかける。権力も実力もない、無力な14歳の少女にはそれしかできなかった。
レイを乗せたベッドは、とうとうエヴァ初号機を格納しているケージまで辿り着いた。紫色の機体が無言でカグヤとレイを見下ろしている。見慣れた機体のはずなのに、今のカグヤにはそれが、レイをとって喰わんとする怪物のように見えてならなかった。
「ッ……!」
体を起こしたレイは、全身を突き刺すような痛みに満足な呼吸もできないまま震えていた。こんな状態で初号機にレイを乗せれば、本当に死んでしまう。そう思ったカグヤは、もはやなりふり構わず職員にしがみついた。
「お願いです、レイを乗せないで!」
「いい加減にしろ!」
職員は腕を振りほどきカグヤを突き飛ばした。尻餅をついたカグヤと、レイの悲しそうな視線が交差する。しかしその直後、再びレイは苦痛に顔を歪めた。脇腹に巻かれている包帯に血が滲んでいた。
「レイ、レイ!」
カグヤは立ち上がった。しかし、もうレイに近寄っても何もできないことを身に染みて感じていた。ふらふらと振り返ったカグヤの瞳に、頼りなさそうな線の細い少年が映る。その姿を見て、カグヤはハッと息を飲んだ。
——明日、サードチルドレンがやってくる予定なの。
カグヤの脳裏に昨日のミサトの言葉が蘇る。こんなエヴァのすぐ側まで来る権限のある子供など、エヴァのパイロット以外にあり得なかった。少年はカグヤの顔を見るとすぐに顔をそらしたが、カグヤは少年に大股で歩み寄り肩を掴んだ。
「君がサードチルドレンだよね!?」
「ぼ、僕は……」
「お願いだから、エヴァに乗ってくれ! 君が戦ってくれないと、レイは……!」
「そんなの……無理だよ、僕になんて」
その時、使徒の攻撃を受けたNERV本部は激しい揺れに包まれた。物が崩れ壁が軋むその音に、カグヤも少年も頭を抱えてしゃがみこんだ。そのうち、突然視界が急激に暗くなり、思わず顔を上げたカグヤは息を止めた。
鉄骨が急激に大きくなっていた。
それは実際のサイズが変わっているのではなく、今まさに自分達を押し潰さんと近づいてきているのだと、そう気付くのにしばしの間を要した。気付いた時には、カグヤはただ目を瞑ることしかできない。
死ぬのか、と思う間もなかった。
鼓膜を貫くほどの騒音、内臓を揺さぶるほどの衝撃。それらが目を瞑った暗闇の中で同時に襲いかかり、カグヤの脳は処理を放棄した。
音が止み、揺れが収まり、それでもなおカグヤは自分の瞼が動かせることに気付いた。それどころか、痛みも死の予感も感じない。不思議に思ったカグヤはゆっくりと目を見開き、そして、息を飲んだ。
無人のエヴァンゲリオンが、少年とカグヤを包み込むようにして覆いかぶさっていたのだ。
「初号機……」
誰かが呆然と呟いた。
汎用ヒト形決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。それは対使徒用の武器であり、人造人間と名のつくものの実際はただの強力な機械兵器である。電力にも繋がれておらず、中に人も乗っていない以上それが動くはずがない。
にも関わらず、初号機は動いたのだ。
目の前で起こった超常現象に呆気に取られていたカグヤは、しかしあることを思い出して弾かれるようにして立ち上がった。
「レイ!」
カグヤが走った先には、ベッドから放り出されて倒れているレイがいた。カグヤはその手に血が付くのも構わず、レイを抱き起こした。
「レイ、しっかりしろ!」
「っく、うぅ……!」
少女は答えない。ただ、命を焼き切ろうとするかのような痛みに耐えている。
「頼む、頼むから誰か……!」
「……ます」
少年の小さな声がケージに響いた。はっとしてカグヤが顔を上げると、力強い眼差しで、上方のガラス窓の奥——NERV総司令、碇ゲンドウを見つめる少年の姿があった。
「僕、やります!!」
* * * * * *
「はっ!!」
カグヤが目を覚ますと、そこは見慣れたNERVの天井だった。休憩用のソファに横になっていたらしい。時計は午後11時を示しているということは、使徒が撲滅されてからそこまで経っていないはずだ。途絶した記憶を辿るべく頭を押さえているカグヤの元に、白衣を着た金髪の女性が現れた。
「おはよう、カグヤちゃん。目が覚めた?」
「り、リツコさん……」
彼女の顔を見た途端、カグヤの中で記憶が弾けた。
数時間前、カグヤは祈るような気持ちで制御室のモニターを見つめていた。
幾度も繰り返されてきた戦闘訓練の内容が、今こうして目の前で、紛れもない本番の形で繰り広げられている。訓練と違うのは、まさしく命がかかっていること、そしてパイロットが訓練さえも受けていない新米だということだ。
「第一次接続開始」
「エントリープラグ注水」
「A-10神経接続異常なし」
「L.C.L.電荷率正常」
カグヤ自身もエントリープラグの中で何度となく聞いた言葉が流れていた。モニターに映る少年、すなわちサードチルドレン碇シンジは、檻に入れられた子猫のように不安そうな顔をしている。
「大丈夫かな……」
その顔を見ていると、カグヤの胸をじわじわと罪悪感が締め付けた。何も知らない少年を、レイの身代わりにエヴァに乗せてしまった。しかし、次のオペレータの発言で、それは吹っ飛んでいった。
「シンクロ率41.3%!」
「は……!?」
カグヤは耳を疑った。
5年間もパイロットとしての訓練を受け、常に好成績を納め続けてきたレイでさえ、シンクロ率は最近やっと30%を超えたところなのだ。シンクロ率41%など、初めてエヴァに乗った少年が叩き出せるようなものではない。パイロットとしてはレイに劣るカグヤのシンクロ率とは比較するまでもなかった。
「そんな……」
カグヤは先輩として、何より、操縦が下手ではあったが6年間エヴァに乗り続けてきたベテランパイロットとしての自信が粉々に打ち砕けていくのを感じた。
そんなカグヤをリツコはちらりと横目で見遣ったが、すぐに初号機の映るモニターに目を向けた。
「エヴァ初号機射出口へ」
「進路クリアー、オールグリーン」
「発進準備完了」
カグヤは嫉妬と期待の混ざった複雑な感情でシンジを見つめた。その脳内には、映画のように都合よくエヴァを乗りこなして使徒を撲滅するシンジの姿が映し出されていた。
「発進!」
しかしその期待は見事に裏切られることになる。
初号機は出撃してからたった数分で、使徒の攻撃の前に見るも無残な姿をさらけ出していた。歩きたての赤子とプロの格闘家が試合をしているようなものだった。
「シンジくん!」
ミサトの悲鳴が響いた。
初号機の腕がちぎれ、頭が貫かれる。力なく項垂れた初号機の頭部からL.C.L.が吹き出す。パイロットの様子を移すモニターがブラックアウトし、僅かに繋がった音声回路はただただシンジの荒い呼吸だけを拾っていた。
カグヤはその光景に声も出せなかった。
(私のせいだ……)
制御室の喧騒が遠くなっていく。
(私が役立たずだから、何の訓練もしてないパイロットが戦場に放り出されることになったんだ……)
もはや初号機は指先すら動かせなくなっていた。カグヤは気絶して許されるものならそうしたかった。しかし、初号機が撤退した後のことを考えるとそれは許されなかった。たとえ彼のように無様にやられる運命にあったとしても、少年が負ければカグヤが出撃せざるを得ないのだ。カグヤは頰の裏を噛んで気を失うのを堪えた。口の中に血の味が広がった。
(せめて命だけは……どうか生きて帰ってきてくれ!)
その時だった。
「エヴァ、再起動!」
カグヤは己の目と耳を疑った。確かに、初号機の左目が白く輝き、逆襲を告げるかのような咆哮を上げていた。
「暴走……」
訓練で説明を受けていたカグヤも、その存在だけは知っていた。エヴァは己の手を離れて暴走することがあると。しかし、いざそれを目の当たりにするのは初めてだった。
初号機は力を溜め込むかのように屈み込むと、獣のように高く跳躍し使徒に飛びついた。そのまま使徒のコアを剥ぎ取ろうとするが、抵抗した使徒に投げ飛ばされる。初号機は上手く体制を整えて着地し、足裏でその勢いを殺した。そして雄叫びをあげながら、使徒に突っ込んでいった。
先ほどまで使徒に蹂躙されていたとはまるで思えないほどの鮮やかな動きに、カグヤは呼吸も忘れて見入っていた。しかしそれは歓喜からくるものではない。自分も乗っている機体に秘められた獣の本性に対する恐怖だった。
初号機は使徒が張ったA.T.フィールドを中和すると、布かと錯覚するほど簡単にそれを破いた。使徒の腕を捻ってもぎ取り、いとも簡単に蹴り飛ばす。青い血を吹き出した使徒に初号機はなおも食らいつき、プログナイフでそのコアを滅多刺しにした。しかし使徒も最後の悪あがきだと言わんばかりにその体で初号機を包み込み、眩い光を放った。
「自爆する気!?」
カグヤは息を飲んだ。あの至近距離の爆発であれば、いくらエヴァでも耐えられるはずがない。カグヤが声を発するより先に、モニターが一面強烈な白い光を発した。
制御室は言葉を忘れたように静かだった。やがて、ミサトがほとんど吐息だけで「エヴァは……?」と呟く。
やがて色を取り戻したモニターは、真っ赤に燃えた炎の奥から、何事もなかったかのように戻ってくる初号機の姿を映し出した。
「あれが、エヴァ……?」
あの化け物が、エヴァだというのか。私はあんな化け物に乗って、使徒と命がけの戦闘を続けていかなければいけないのか……。
カグヤの意識は急速に遠のいていった。
* * * * * *
「そうだ、私、気を失って……」
カグヤは記憶の海から浮上すると、ハッと目を開けて、リツコの顔を見た。
「リツコさん! パイロットは!? パイロットは生きてましたか!?」
「シンジ君は生きてるわ。脳神経に負担がかかったから、念の為入院してるけど」
「よ、良かった……」
カグヤは安堵に息を吐いた。自分の胃を搾り取るほどだった罪悪感が軽減するのを感じた。
「レイも病院に戻されたわ。しばらくは加療に専念するでしょうね。玄関でお父上がお待ちよ」
「そうですか、本当に良かった……。じゃあ、私は帰ります。ありがとうございます」
カグヤがエレベータに乗り込むのを見送ると、残されたリツコは深いため息をついた。
「とうとう、始まるのね……」