逢魔時

 あ、と思った時にはもう遅かった。柔らかな皮靴が崩れた床を踏んで、体のバランスが急激に崩れていく。先ほどまで自分が立っていた地面がどんどん引き離されていくのを、スヤリス姫は呆然として見つめていた。
 いつものようにおばけふろしきを狩りに行った、その帰りだった。このマグマ地帯を歩いている途中、急に突風が吹いてきて、元おばけふろしき、現ただの布が姫の顔を覆った。前が見えなくなった姫は足を踏み外し、脆くなった地面を踏んで足を滑らせた。

 「姫ーーーーー!」

 魔物達の悲鳴が聞こえる。悲しみの嘆き、というよりは驚きと呆れに近いその声を聞きながら、姫は迫り来る溶岩の海を見つめた。
 揺蕩う警告の赤が、煮立つ活力の橙が、姫の命を喰らわんとその両腕を広げている。火のエネルギーを煌々と燃やし続けるマグマは、姫が今まで見てきたどんな宝石より力強く輝いていた。
 こんなに綺麗なのに、どうして私を殺してしまうのだろう。
 魔物の叫び声を聞きながら、姫は目を閉じた。
 
 
 ——おお姫よ、死んでしまうとは情けない!
 
 
 海の底に沈んでいるかのような深い眠りから引き上げられて、姫は目を覚ました。また死んで、生き返ったようだ。見慣れた棺桶の天井が目に入る。それを退かして体を起こし、姫は、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 世界が赤かった。
 
 マグマに落ちたせいなのか、何か視界に影響が出ているのかと何度も目を擦り、瞬きを繰り返す。今まで蘇生後に後遺症が残ったことなど一度もなく、なにが起きているのかわからなかった。らしくもなく、心臓が早鐘を打ち始める。
 こつん、と靴の踵が床を踏む音がして、姫は顔を跳ね上げた。

 「お目覚めかい?」

 唇から、あぁ、と吐息が漏れる。自分の息が上がっていることに気がつき、姫は自分の胸を抑えた。

 「レオくん……」

 それは姫もよく知っている姿だった。彼の声を聞き、やっとここが悪魔教会であることを思い出す。蘇生されたからにはここで目覚めるのが当たり前だというのに、先ほどまでは自分が今いる場所すらもわかっていなかった。それもこれも、視界が暗く、赤く染まっているせいだ。
 姫は思うように回らぬ舌を、どうにか動かした。

 「レオくん、私、目がおかしいの」
 「目がおかしい?」
 「世界が、暗く見えるの」
 「ああ、そういうこと」

 姫の言わんとすることを理解したのか、怪訝そうな顔をしていたあくましゅうどうしがにこやかな笑顔を浮かべた、ように見えた。顔が陰になっていてよく見えない。

 「ゼウス君がね、太陽を昇らせたんだよ。でも、もうすぐ効果が切れるはず。今は日没だね」
 「にち、ぼつ……」

 常闇の魔王城に長く居過ぎたせいか、姫の脳内は日没という単語をすぐには変換しなかった。少しして、ああ夕方か、と理解する。悪魔教会は地下にあるが、崖の端に位置しているおかげで陽が差し込んでくるらしい。久しぶりに見る夕焼けの鮮やかさに、姫は黙り込んだ。
 夕暮れとは、こんなに禍々しかっただろうか。
 空は赤とも黄とも青ともつかない曖昧な色に塗り込められ、今にも落ちてきそうなほど低かった。棺桶の色調もやけに濃く、暗く見える。並ぶベンチの陰が生む闇に、そびえ立つ柱の死角に、なにか恐ろしいものが潜んでいるのではないかという気がしてくる。
 姫は胸の内をざわざわしたものが走るのを感じた。

 (私は、こんなにも魔王城に慣れていたのか)

 魔物界には原則として日が昇ることはなく、常に夜の世界が広がっている。それは人工的な灯りに溢れているということでもあった。魔王城の中には所々薄暗い箇所はあっても、完全な闇に包まれている場所はなかった。
 だが、今は違う。沈みゆく陽の光を受けて、闇はその色をさらに濃くしていた。
 日が傾いてから完全に落ちるまでの合間。夜の影があちこちに浮かび上がるが、灯りをつけるにはまだ早い時間。生の世界と死の世界が、最も繋がりを強くする時間。
 人はそれを、逢魔時と呼んだ。

 「……姫? どうしたの」
 「あ……」

 黙りこくっている姫を不審に思ったのか、あくましゅうどうしが近づいてくる。髪型も服も表情もいつもと変わらないはずなのに、夕暮れの薄闇が顔にかかって、彼の表情もどこか影を帯びているように見えた。なぜか、全身の皮膚がきゅうと縮んだ。

 「怯えているの?」

 彼の穏やかな声色が、姫の縮こまった心臓を素通りしていく。
 あくましゅうどうしは棺桶の前にしゃがみこむと、姫の固く握った拳を包み込んだ。

 「大丈夫だよ。もうすぐ日が沈むから」
 「レオ、くん……」

 体をぎゅっと引き寄せられ、彼の体温が服越しに伝わってくる。その暖かさに触れて初めて、姫は、自分が怯えているのだとわかった。

 「私、わたし……」
 「うんうん、怖かったね」

 唇が、手が、体が、勝手に震え出す。その震えを止めるかのように強く抱きしめられ、姫はぎゅっと目を閉じた。
 怖い、と思った。これほどの恐れを抱いたのは久しぶりだった。
 特定のなにかが怖いというわけでもない。ただ、太陽が空を血のように赤く染め、影を色濃く塗り潰す、その自然現象を忘れていただけだ。常夜の魔王城に来てから忘れていた、夕闇の恐ろしさを思い出しただけだ。
 なにかが出てきそうな気がして。
 どこか知らない世界と繋がってしまう気がして。
 姫はあくましゅうどうしの衣服を握りしめ、強張った口元をぎこちなく動かした。

 「レオくんは、どこにも行かない?」
 「うん」
 「ずっと側にいてくれる?」
 「もちろん」

 その言葉を聞くと、全身の緊張が緩んだ。瞼が熱くなり、目尻からなにかが零れ落ちた感触がする。それを隠すように彼の胸元に顔を埋めると、いつもとなにも変わらない、姫を落ち着かせる匂いが肺を満たした。
 
 「どんな時も、私はずっと姫の側にいるから」

 頭を撫でられる。その優しい感触に身を委ね、姫は深い呼吸を繰り返した。
 次に目が覚めた時、きっと魔王城はいつもと同じ“夜”の顔を浮かべているだろう。城内を魔物達が忙しく動き回り、そこかしこにランプの明るい光が灯っているだろう。
 今はただ、この恐ろしい夕闇から逃げてしまいたかった。
 やってきた眠気に身をまかせるように、姫は全身の力を抜いた。
 
 
 「おやすみ、姫」
 
 
 あくましゅうどうしが嬉しそうに笑っていたのを、誰も知らない。