「ナギ、体力が減っているようだぞ」
そう言われ、私ははっと視線を上げた。今はメタナイト様と共にエコーズエッジの探索をしている最中だ。凍結した足場に気を取られ、思った以上に敵の攻撃を食らっていたらしい。
目の前にはたまたま木箱を壊して出てきたアイスクリームがある。正直、この寒い中でアイスを食べる気分ではないが、体力回復のためなら背に腹は代えられない。
しかし、私はとあることに気がついた。
「あの……メタナイト様もそれなりに消耗されていますよね」
メタナイト様にも、私ほどではないがマントや手袋などに所々敵の攻撃を食らった跡が残っていた。その中にはヘマをした私を庇ってついてしまったものもあり、見ているだけで不甲斐なさが疼いてくるかのようだ。
彼は私に向かって緩く首を振ってみせた。
「これくらい、大したものではない。それとも、アイスクリームは苦手だったか?」
「いえ、そうではありません。ただ、貴方を差し置いて私だけ食べる、というのも……」
だが、続く彼の発言は、私の度肝を抜くのに十分なものだった。
「心配するな。口移しで少し貰えれば十分だ」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
クチウツシ? 口移し……とは、私の認識が正しければ、口の内容物を相手の口に直接移す行為のことだったはずだ。いや、そんな言葉がメタナイト様の口から出てくるだろうか? だってあのメタナイト様だぞ? うん、そうだ。きっと冗談に決まってる。まったく、メタナイト様も真顔で冗談を言うなんてお人が悪いんだから——
などと私が一人で思い込んでいると、メタナイト様は不思議そうに首を傾げた。
「どうした?」
「えっ……その……本気で仰っているのですか」
「本気?」
え、どうしよう。これは冗談で言ってる感じじゃない。マジだ。マジか。
私の背中を冷や汗が伝った。
流石にこれ以上「冗談ですよね」と茶化すのは、メタナイト様の面子を汚すことになる。そう考えた私は、大人しく白状することにした。
「あの……実は、私の故郷には口移しで食べ物を分け合う、という習慣はあまりなくて、その……なんというか、幼い子供や親密な恋人のような相手にでないとしない行為なんです。それで……」
「ああ、そうだったのか。それはすまなかった。では君一人で食べると良い」
「え、ですが……」
「不快な思いをさせた詫びだ」
「そんなことは」
実際不快な思いは全くしていないのだが、メタナイト様にそうも言い切られてしまっては仕方ない。
申し訳無さと若干の気まずさを覚えながらも、私はお言葉に甘えてアイスクリームをいただくことにした。疲れた体は糖分を欲していたようで、予想以上に体力が回復していくのがわかる。
最後の一口を飲み込んで、私はメタナイト様に頭を下げた。
「ありがとうございます。美味しかったです」
「良かった。では行こうか」
「はい」
——しかし、次の部屋でメタナイト様がボンカースの手痛い一撃を食らったことにより、私達は即座に探索を中止、戦艦ハルバードへ撤退することになってしまったのだった。
次の日、メタナイト様の体調が回復するのを待って、私は彼の部屋を訪問した。
「失礼します、メタナイト様」
「……ナギか」
メタナイト様の左腕には、まだ包帯が巻かれているままだった。咄嗟に利き腕である右腕を庇い、ボンカースのハンマーたたきをもろに食らってしまったのだ。そのボンカースは私が恨みも込めて念入りに斬り刻んでおいたが、メタナイト様の姿のおいたわしいことには変わりない。
私は椅子に座る彼に跪き、首を垂れた。
「昨日は私がアイスクリームを独占してしまったばかりにあんなことになってしまい……申し訳ありませんでした」
「何を言う、あれは私のミスだ。君が気にすることなど何一つない」
「ですが、メタナイト様があの時回復できていれば、たとえ敵の攻撃を食らってもまだ探索を続行できるくらいの体力は残っていたと思うのです」
あの時、メタナイト様は疲れと寒さで一瞬反応が遅れてしまったように見えた。もし私が彼と回復アイテムを共有できていれば、隙が生じることもなかったかもしれないし、そもそも彼の体力を減らしてしまったのは私のせいでもあるのだ。考えれば考えるほど、申し訳無さに胸が張り裂けそうになってくる。
メタナイト様は図星を突かれたかのように言葉を失ったが、すぐに「だとしても」と続けた。
「過ぎたことを言っても仕方ない。私や君がより一層強くなれば良いだけの話だろう」
「はい。ですから、稽古をつけてもらいたいのです」
「稽古? 剣の稽古なら、悪いが私はまだ……」
「いえ、違います。口移しの方です」
私がそう言った途端、メタナイト様の仮面の奥の顔が引きつったように見えた。
「本気で言っているのか」
「もちろんです」
一瞬の迷いもなく頷き、私は昨日ずっと考えていたことを、滔々とメタナイト様に伝えた。
「昨日は『親密な間柄でないと口移しなどしない』と言いましたが、私はメタナイト様と親密になりたくないなどと思ったことは一度もありません。いえ、むしろ一歩でも近く貴方の側にいたいと思っています。我が身は全て貴方に捧げると誓ったのですから。しかし、メタナイト様に私の唇が触れてしまうと考えると、どうしてもその、恥ずかしいという気持ちが湧いてしまったのです。ですが、こうして主君の足を引っ張ってしまうようなら、私の羞恥心など些末な問題。これからも貴方の側でお仕えする以上、ここは、より体力を効率的に回復できる口移しを習得するべきだ、と考えたのです」
私が言い終えると、メタナイト様はまだ渋い顔を浮かべていた。
「……君の言い分は理解できる。だが、君が慣れていないこと、しかも羞恥心を抱くような行為を無理強いすることは、私はしたくない」
「そうですか……。では、他の人を当たってみることにします」
メタナイト様はお優しい方だから、こうして断られることも一応想定してはいた。しかし、誰に頼もうか。
部屋を出ようとすると、ぐいっと強い力で腕を掴まれ、私は強制的にメタナイト様の方へ振り向かせられた。
「待て。今なんと言った?」
「ですから、他の人を、と」
「それはわざと言っているのか?」
メタナイト様の声色には、先程まではまるで見受けられなかったはずの怒りが籠もっており、私は本能的にびくりと肩をすくめる。
彼ははぁ、と深い溜息を吐き出すと、真っ直ぐな眼差しで私を見つめた。
「本当に、良いんだな? 口移しの稽古をつけても」
「メタナイト様がつけてくださると言うのでしたら、ぜひ」
「……わかった。やるからには容赦はしないぞ」
「よろしくお願いします」
翌日、私は再びメタナイト様の部屋を訪れた。軽くノックをして、返事を確かめる。
「失礼します」
扉を開けると、部屋中に甘い匂いが漂っていた。メタナイト様が口移しの練習用に食べ物を用意してくださったのだが、机の上は食べ物、というより甘い物の割合が8割以上を占めている。
メタナイト様はもうすっかり包帯の取れた姿で、菓子の山の向こうに座っていた。いつもは凛々しく気高い印象のメタナイト様だが、山盛りの菓子を前に足を組んでいるメタナイト様も可愛らしくて素敵だ、などと不埒な考えを抱いてしまう。
「来たか」
「はい。よろしくお願いします」
「では、早速始めようか」
そう言いながら、メタナイト様は無造作に仮面を取った。
顕になったそのお顔を見る前に、私は咄嗟に両目を覆っていた。
「ま、まってまって、まってください!」
「なんだ?」
「仮面! どうして取るんですか」
だめだ。いくら稽古とはいえ、密室で二人きり、しかも口移しの練習というだけで私の羞恥心はギリギリなのに、仮面まで外されては私の心臓が限界を超えて爆発してしまう。
しかし、目の前にいる素顔のメタナイト様は「何を言っているのか」と言わんばかりの怪訝そうな表情を浮かべている……ように見える、少なくとも私の指の僅かな隙間からは。
「どうしてと言われても……取ったほうが練習しやすいだろう」
「で、ですが、いつも口移しの際に仮面を取っているわけではないですよね?」
「普段はそうだが、初心者の君に仮面をつけたまま口移しをさせるのは困難だと思ったのだ。君に自信があるならつけるが」
「う……」
メタナイト様の言う通りである。私はしぶしぶ手を下ろし、閉じていた目をそっと開けた。
ああ、メタナイト様の凛々しい素顔が目の前にある。だが、これは訓練なのだ。見惚れている場合ではない。
私は手近にあった菓子の封を、震える手でどうにか開けた。
「では、いきますよ……」
チョコレート菓子を口に咥え、そっとメタナイト様に近づく。
ああ、恥ずかしい。顔が近い。鼻息が当たってしまったらと思うと怖くて呼吸ができない。瞼を柔らかく閉じたメタナイト様のお顔も素敵だ。
そこで私は気付いてしまった。
薄く開かれた口から覗く、彼の舌の鮮やかな血色に。
「っ、ぐっ、けほっけほっ!」
「どうした、大丈夫か!?」
途端に顔が爆発したみたいに熱くなって、私は咥えていた菓子を咽せてしまった。だめだ、今のはとてもじゃないけど無理だ。メタナイト様の色気に心臓が保たない。変態と罵られようがなんだろうが、尊敬してやまない憧れのお方の口の中を見て平常心でいられるわけがない。
メタナイト様は椅子から降りると、私の肩にぽんと手をかけた。
「最初に君にやらせるのは少し酷だったな。手本を見せてやろう」
そう言うと、メタナイト様は菓子の山から2袋目を取り出し、封を開けた。今度はクッキーだ。
私はぎゅっと目を固く閉じ、再び息を止めた。
顔中が真っ赤になっているのがわかる。これは訓練、これからの冒険を円滑に進めるために必要な修行なのだ。そうと分かっていても、ほんの僅かな空気の流れにひどく敏感になっている私がいる。目を閉じていても、メタナイト様の顔がだんだんと近づいてきているのがわかる。
ど、どうしよう……この馬鹿みたいに早い心臓の鼓動が、メタナイト様に伝わりはしないだろうか? ああ、唇が乾燥している! 昨日あんなに保湿したのに……
「……ナギ」
「は、はい!」
「口を開けてくれ」
目を開けると、そこにはクッキーを手に少し困った表情で微笑んでいるメタナイト様がいた。
ぎゅうんという効果音と共に、私の胸がぎゅっと締め付けられる。な、なんなんだその顔は、まるで子猫を見つめているかのような優しさに満ち溢れているではないか。もう本当に、心臓が保たない。今までやったどんな訓練よりも強い負荷がかかっている。
私は心臓を労うように胸を押さえながら、息も絶え絶えに言った。
「も、申し訳ありません、メタナイト様……本当に、こういうことには不慣れなもので……。でも、訓練ですから、ちゃんとします」
どうにか顔の熱を冷まそうと両頬に手を当てていると、メタナイト様がふっ、と気を緩めるような吐息と共に笑った。
「茶でも淹れようか。少し気分を落ち着けた方がいいだろう」
「うっ……すみません……」
私は自分の不甲斐なさにがっくりと項垂れた。
せっかくメタナイト様にお時間を頂いているというのに、私ときたらいつまで経っても恥ずかしがってばかりで、これではやる気がないと思われても仕方がない。しかも、これはれっきとした訓練なのだ。もうこれ以上、私がメタナイト様の足を引っ張らないようにするための。なのに——
「そう落ち込むな、ナギ」
かちゃん、と音がして、目の前に紅茶の入ったカップとソーサーが置かれた。温かい湯気と共に、ダージリンの良い香りが漂ってくる。
メタナイト様に促され、私は手近な椅子を持ってきて腰掛けた。
「ありがとうございます。ですが、私のせいでメタナイト様にご迷惑をかけていると思うと……」
「迷惑? 迷惑などではないさ。現に私も、こうして美味しい思いができているわけだからな」
メタナイト様は菓子の山から、今度はカップケーキを取り出した。どう見ても口移しの練習には向いていないが、自分で食べるために用意したのだろうか。何はともあれ、この訓練にメタナイト様のメリットが一つでもあって良かった、と安心する。
「メタナイト様、甘いものがお好きですものね」
「……そうだな」
彼は私に向かって穏やかに微笑んで、それからカップケーキに齧り付いた。私は再び熱くなり始めた頬を誤魔化すように茶を啜る。いつもよりすぐに動揺してしまうのは、私の心理状態のせいなのか、それともメタナイト様の態度のせいなのか。今日はいつもに増してメタナイト様が優しい気がする。
俯いている私に、メタナイト様が落ち着いた声色で話しかけた。
「私とて、口移しという行為に思うところがないわけではない。だが、あくまで緊急時の回復手段なのだ。君もそう思ったから、私に訓練を頼んできたのだろう?」
「はい……」
緊急時の回復手段、その言葉に私の心が痛む。戦艦ハルバードでたまに行われる脱出訓練のように、これも有事を想定した訓練なのだ。恥ずかしがっている場合ではない。
そうは分かっているのだが、メタナイト様の顔が間近にあると、私の理性を超えたところで勝手に顔が赤くなってしまうのだ。この訓練に緊張感が足りないせいなのか? いや、緊張ならもう十分している。「今口移しをしなければ、メタナイト様のお命が危ない」という想定で挑めば何かが変わるだろうか。
私はじっとメタナイト様の顔を見つめる。
「……なんだか、今ならできる気がします。もう一度試してもいいですか」
「ああ」
また一つ菓子を取り出す。ウエハースを手に、私は精神集中のため目を閉じた。
想像しろ。果てなき冒険の末に、私とメタナイト様の体力は今にも限界を迎えようとしている。やっと見つけた回復アイテムは一つしかない、このウエハースだ。
メタナイト様はお優しい方だから、私に食べろと勧めてくるだろう。だがそれではだめだ。二人揃ってこの冒険を突破できなければ意味がない。そのためには、口移しでこのウエハースを分け合うことが必須なのだ。
緊張で手が震える。
想像しろ! マントがほつれ、仮面に傷が付き、打撲の跡が痛々しいメタナイト様のお姿を。そんな状態でも私に対して回復アイテムを譲ろうとする慈愛に満ちたそのお姿を!
「っ……」
メタナイト様、今お助けします。この口移し一つで貴方が死の淵から蘇ると言うのなら……!
あともう少しで彼の口元にウエハースが届くというまさにその時、メタナイト様がぱちりと目を開けた。
「ナギ」
「ひゃああっ!」
驚いた弾みに、私は咥えていたウエハースを落としてしまった。それを、メタナイト様が手で華麗にキャッチする。
「泣くほど辛いなら、口移しなどしなくていい」
「いえ、これはその、違うんです……! つい悲劇的な妄想に火が付いてしまったと言いますか、決して口移しが辛くて泣いているわけではありません!」
「そうだったのか。なら良いんだが」
メタナイト様はそう言うと、なんてことないかのように持っていたウエハースを口の中に放り込んだ。そ、それは間接キスというやつでは? だめだ、もうこれ以上考えないようにしよう。
私はいつの間に流れていた涙を拭くと、椅子に力なく座り込んだ。
「はぁ……たかが口移し一つでここまで消耗するなんて、自分が情けない……」
「一つ聞くが、ナギは私以外の人と顔を近付けた時も緊張するのか?」
その言葉に、私は顔を上げて今までの記憶を洗ってみた。
少なくとも、両親とは全くそんなことはなかった。目にゴミが入ったと訴えるワドルディの目を観察した時もこうはならなかったし、故あってカービィと戦った時も、互いの瞳に自分が映る至近距離にいてもひたすら刃を交えることに集中していた。
当然といえば当然だが、ここまで緊張するのはメタナイト様に対してだけだ。
「いえ……少なくともワドルディやカービィには、緊張しませんでした」
「なら、私のことをワドルディだと思えば良いのではないか? それなら緊張せずに済むだろう」
「それは……無理です」
「何故?」
不思議そうに瞬きをするメタナイト様の瞳を、私はじっと見つめ返した。
「やはりこういうことは、メタナイト様にしかしたくないからです」
その時、メタナイト様の周囲だけ時が止まった、かのように見えた。
しばらくフリーズしていたメタナイト様は、はぁあ、と今日聞いた中で一番深い溜息を吐き出すと、がたんと乱雑な動きで席を立った。
「今のは君が悪い」
何かメタナイト様のお怒りを買ってしまっただろうか。
焦っている私の顎を、メタナイト様がくいと片手で持ち上げた。申し訳ありません。その言葉を口にする前に、唇が塞がれた。
え?
「……!!」
息が止まる。心臓さえも止まっているかのように感じる。唇に当たっている温かな感触に、意識の全てが持っていかれる。
一体何が起きているのか。
どうしてこんなにメタナイト様の顔が近いのか。なぜ私の口内に、ほとんど食べていないはずのウエハースの味が広がっているのか。何より、触れた唇から全身に広がっていくような、この甘い痺れの正体は一体なんなのか。
ちゅ、と微かな音がして唇が離れ、その瞬間に、私の心臓は今まで聞いたことがないほどの速さで血を送り始めた。
「…………あ、あ、あの、メタナイト様、今、今……!!」
私が荒ぶる胸を押さえながら言うと、メタナイト様はふいっと顔を背け、すぐに仮面を付けてしまった。
「口移しの練習なんて、しなくていい。回復したい時は、私から君に口移しすればいいだろう」
「え……?」
「剣の鍛錬をしてくる。君はケーキでも食べていてくれ」
「あっ、あの!」
バタン、と音を立てて扉が閉まり、私は主のいない部屋に一人取り残された。
机に積まれた菓子を見る。ケーキだけでも10個はありそうだが食べ切れるだろうか。いや、そんなことより。
「メタナイト様が、私に……」
唇をなぞる。その途端、頬が今にも燃えだしそうなくらいに熱くなった。
メタナイト様の唇に触れてしまった、いや、しっかりと口づけを交わしてしまった。今もその感触がありありと残っている。あの温かさ、柔らかさ、そして甘さ——
「あああ……!」
腹の底から訳のわからない叫びが出てきそうになるのを両手で抑え、その場にしゃがみ込む。
メタナイト様は回復したい時は彼の方から口移しすると言ったが、これから先回復アイテムを見つけるたびに今のような行為が行われるのだろうか? 仮面をわずかに横にずらしたメタナイト様が、私の頬にそっと手をかけて顔を近づけてくるのを、私は毎回心臓を爆発させそうになりながら待っていなければならないのか? そんなの、そんなの、
「無理に決まってる……!!」
甘い香りの漂う部屋に、私のか細い悲鳴が響いた。