煉獄杏寿郎と強情な継子

 煉獄杏寿郎は知っている。
 彼女の血の滲むような努力を。
 
 
 

 未だ日も顔を出さぬ暁の頃、煉獄邸の庭では竹刀が風を斬る高い音が響いていた。一振りの合間に漏れ聞こえてくるかすかな呼吸音は長く、深い。
 ゆうに千は竹刀が振り下ろされた頃、その竹刀を握り締めていた女は、徐に竹刀を真剣に持ち替えた。

 「……」

 そしてまた、振り下ろす。刀が振り下ろされているというのに、今度は辺りが一切の静寂で包まれた。衣の一片が掠れる音さえしない。刀を振り下ろし、その鋒がピタリと止まってからゆうに十秒ほどが立ってから、地獄の釜が開かれたような低く熱い息が女の歯列から吐き出される。それを何遍も何遍も繰り返す。冬の朝にも関わらず、女の周囲にはいつしか陽炎が発生し、霜に濡れた砂利を白く乾き飛ばしていく。
 日が完全に登り切ったのを確認した女は、ふっと息を吐くと刀を鞘に納めた。近寄れば燃やされそうなほどだった闘気はなりを潜め、女はそそくさと竹刀を蔵に戻し、足早に自室へ戻っていく。音もなく閉められた障子の向こうから、手桶の水に布巾を浸けて絞る音が、そして微かな衣摺れの後、再び帯を締める音が聞こえてくる。
 廊下の向こうから足音がして、少年が女の部屋の障子の前で立ち止まった。

 「おはようございます。朝餉が出来ましたよ」
 「ありがとうございます、千寿郎さん」

 障子から出てきた女——つまり煉獄杏寿郎の継子は、今まさに朝の支度が終わったばかりなのだと言わんばかりに溌剌とした笑顔を浮かべている。
 それを、煉獄杏寿郎は見ていた。
 
 
 
 
 
 煉獄杏寿郎は知っている。
 彼女の才の限界を。
 
 
 
 何かが爆発したかのような音がして、道場の畳が一層大きくしなった。背中にしこたまの衝撃を受けた継子は宙に弾んだかと思うと、どさりと鈍い音を立てて仰向けに倒れた。
 継子は苦痛に顔を歪ませたが、しかし何かが揺れ動く空気を感じ、咄嗟に後ろに飛び退いた。彼女が倒れていたちょうど鳩尾の辺りに、師の木刀がまっすぐに叩き降ろされていた。
 当たっていれば間違いなく朝餉が全て吐き出されていたような一撃を不発に終えた杏寿郎は、ぴたりと動きを止めると、その身に滾らせていた闘気をさっと打ち消した。痛みで動けない継子の元へ、笑みを浮かべて足早に歩み寄ってくる。

 「うむ、腕を上げたな!」

 ありがとうございます、と。そう言ったつもりなのだが、腹に力が入らず、蚊の鳴くような声しか出てこない。
 杏寿郎は畳の上に転がっている継子の隣に腰を下ろし、滔々と先ほどの掛かり稽古における問題点を指摘し始めた。
 曰く、踏み込みが足りない。自分より背丈の高い鬼の首を斬るためには、相手の間合いに入るほど深く踏み込まねば刃が届かない。
 曰く、攻撃した後に隙が出来ている。刀を振るった直後も集中を絶やさず、すかさず二撃目へ移行する姿勢を作らねばならない。
 曰く、受け身を取ってから姿勢を立て直すのが遅い。投げられた勢いが死なぬうちに、痛みを殺して立ち上がるのが肝要である。
 師の言葉は継子の脳に直接彫りつけるかのごとく、深く深く刻み込まれる。最後の一言まで記憶してから、継子は上体を起こし、畳の上で正座した。

 「ありがとうございましたッ!」
 「うむ、精進しろよ!」

 去っていく杏寿郎の後姿を見つめ、それが完全に見えなくなったのを確認してから、継子は鼻だけで溜息をついた。
 ——今日も師範に一本取れなかった。
 煉獄杏寿郎に師事して早二年になる継子だが、未だかつて師から一本取れたことは一度たりともなかった。杏寿郎が今まで教えてくれたことは全て手記に残して記憶しているし、毎晩寝る前にはその手記を暗唱できるほど読み返している。師範の指導に加え、毎朝日が昇る前から自主的に鍛錬を積んでいる。
 それでも、継子の実力は炎柱である杏寿郎には到底及ばなかった。さらに一年ほど前からは、鬼殺隊における階級も頭打ちになっていた。分厚い壁が彼女の前に立ちはだかっている。才能の壁だ。
 彼女には才能が足りなかった。
 ない、とまでは言わない。彼女は炎の呼吸も参ノ型までなら会得しているし、全集中“常中”も、この一年半ずっと欠かしたことがない。杏寿郎の指導を受けた継子の中では、かの恋柱に次ぐ優秀さとまで言われていた。
 
 それでも。
 
 道場を出て自室に向かっていた杏寿郎は、角を曲がったところでふと足を止めた。朝に彼女が人知れず鍛錬をしていた庭が目に入る。込み上げてくるのは空虚さにも似た絶望感だった。

 「……足りんな」

 そう呟くと、余計に絶望が深まっていくような気分だった。
 彼女に足りないのは戦闘の才だ。鍛錬の時も、稽古の時も、彼女は決まって手本をなぞっている。杏寿郎と組手をしている時も、彼女の目には杏寿郎が、敵の姿が映っていない。敵を見ているようで、その遠くにある“手本”を見ているのだ。己の頭で考え、己の手で鬼を討ち取る、勝利をもぎ取る、その気迫があの継子にはまるで無い。
 だが、幸い彼女は聡明だし、何より底なしの体力がある。柱になるのは難しいが、このまま杏寿郎の教えを忠実に守り続けるだけでも、数年後には鬼殺隊で甲の階級にまで登り詰めるだろう。杏寿郎が安心して背を任せられる日だって来るかもしれない。
 彼女が音を上げるまでは、杏寿郎も面倒を見続けるつもりだった。

 「頑張ってくれよ」

 受け身の鍛錬を始めたのだろう、再び騒がしくなり始めた道場の方を見ながら、杏寿郎はそう溢した。単なる激励に留まらぬ、縋るような祈りに近かった。
 
 
 
 
 
 文が届いた。
 元継子の一人が死んだ、という知らせだった。
 
 
 
 
 
 
 煉獄杏寿郎は知っている。
 命が儚いものだということを。
 
 その夜、眠っていた継子は何者かの気配が近づいてくることに気づき、はっ、と目を覚ました。そしてそれがよく知っているものであることを察すると、少し逡巡してから、もう一度目を閉じた。
 音も無く障子が開けられる。驚いた継子がほんの少し目を開くと、宵闇に黄金の髪が燃えている。どう見ても、師範である煉獄杏寿郎その人に他ならない。
 しかし様子がおかしい。
 師は何も言わぬまま、継子の枕元に膝をついた。顔に穴が開きそうなほどの視線を感じ、継子は蛇に睨まれた蛙のような気分だった。もはや目を開けるタイミングさえ逃してしまい、緊張が極度に達した継子の眉はピクリ、と痙攣した。

 「……」

 何か言いかけた師範が口を噤んだ。
 どう考えても寝たふりをしていることは露呈しているのに、師は目を開けろとも言わない。師が何を考えて、何をしようとしてこの部屋に来たのか、全く魂胆が読めない継子はいよいよ恐ろしくなって、唇を開きかけた。その時だった。
 唇に柔らかいものが触れた。

 「……!」

 肌より少し高い温度を持つそれが杏寿郎の唇であると理解し、継子は、それでも目を開けることができなかった。どうすればいいのかわからず、掛け布団の下で密かに敷布を握りしめる。俄かに、その手が冷気に包まれた。
 布団が剥がされた。
 息を飲んだ継子をよそに、杏寿郎は唇を離したかと思うと、体を移動させてのしかかってきた。すっ、と師が息を吸い込む音がして、継子は身を強張らせた。

 「君、起きているんだろう」
 「……」

 肺を突き刺されたような気分だった。いや、師に狸寝入りが見透かされていることなどとっくに知ってはいたのだが、改めて指摘されると責められているような気分になり、とても居た堪れない。
 何も言わない継子に、杏寿郎はなおも続けた。

 「目を開けてくれ」

 いっとう優しい声だった。継子が初めて炎の呼吸を発動させた時でさえ、こんな声色で褒められたことはなかった。
 そしてその声がある種の懇願めいたものを含んでいることに気付き、継子は眉をピクリと動かした。

 (どうして)

 ——今ここで、私が目を開けて何になる。
 師範が継子を夜這うつもりなのであれば、継子は寝たふりをして、全て師範の都合通りに振る舞うつもりであった。継子だって馬鹿ではないから、深く眠っていて気付かなかった風を装い、起きた事は墓場まで持っていく所存であった。
 だが杏寿郎の声は、気配は、継子が目を覚ますことを願っていた。普段なら師の要望に応えてすぐ目を開けていただろうが、この時の継子は固く目を瞑ったままだった。
 言葉では言い表せない直感が、目を開けることを拒んでいた。
 師の意志に反し、継子はじっと瞑目して黙り続けた。杏寿郎も、継子が己の嘆願を拒んだことに気が付いたようだった。気まずい沈黙が部屋を包む。

 「……そうか、ならば仕方ないな」

 沈黙の後、師は先程とは打って変わった冷たい声を発した。微かに指先を強張らせた継子は、杏寿郎の手が寝間着の合わせに掛かったことに気がつくと、反射的に声を出さぬよう奥歯をぐっと噛み締めていた。がば、と布が勢い良く開かれる音がして、外気に当てられた胸が寒さで震えた。敷布を掴む手に力がこもる。
 杏寿郎の左手が動く気配がし、その手が柔らかな皮膚に触れた途端、継子は思わず背中をびくりと跳ねさせていた。

 「うっ」

 手が氷のように冷たかった。まるで師の手とは思えないくらいに。
 いくら冬の夜中とはいえ、全集中の呼吸をしていれば体の隅まで血液が巡るから手が冷たくなることはない。まして炎柱ともあろう人が手先を冷やすなど考えられなかった。
 本当に目の前の人間は煉獄杏寿郎なのか?
 疑いだすと急に不安になって、継子は猛烈に目を開け、肉眼で師の姿を確認したくなった。目を開ければそこには何の変哲も無い夜の世界が広がっていて、あああれは夢だったのだと安堵したくなった。もしくは、この無体は精密な血鬼術を使う鬼の仕業であり、目を開ければ異形の鬼が自分の喉を喰らおうと口を開けていてほしい、とすら願った。
 だが。

 (違う……目の前にいるのは、師範だ)

 目尻を涙が伝った。
 今自分の上に跨って好き勝手しているこの男は、どうしても師範なのだ。言動がおかしくても、手が冷たくても、立ち居振る舞いや匂いや纏う気が、確実に師範のそれなのだ。どんな鬼にも真似のしようがない。到底信じ難いが、目の前の男は煉獄杏寿郎であると、そしてその煉獄杏寿郎こそがこのような無体を強いているのだと、継子は信じる他なかった。
 杏寿郎の責め手は止まらない。片手で乳房を揉みしだきながら、もう片方の手で帯を解き、継子の裸体を外気に晒した。いつの間にか、股の間には彼の体が入り込んで脚を閉じられなくなっている。膝から腿を杏寿郎の大きな手が撫で上げ、くすぐったさとむずがゆさに継子は身震いする。
 杏寿郎は継子の触り心地を楽しんでいるかのように、脚から脇腹、そして胸へその手を動かした。思ったより直接的な侵襲が来ないことに継子が胸を撫で下ろしていると、杏寿郎の手が継子の肩を掴み、横を向かせた。顔を近づけているのか、杏寿郎の声が継子の顔のすぐ近くで聞こえた。

 「安心しろ、目を開けたらすぐに止めてやる」

 何をするつもりなのだろう。
 継子が息を潜めて杏寿郎の様子を伺っていた、その時だった。
 耳を生暖かいものが這った。

 「ひッ!」

 継子の瞼が一際大きく震えた。もう少しで目を開けてしまいそうだった。
 師に耳を食われている。
 杏寿郎は継子の耳介をなぞるように舐め、その外周に唇を這わせた。時折軽く歯を立てられ、その度に噛みちぎられるのではないかと継子の背が竦む。それを何度か繰り返した後、杏寿郎の舌がぐっ、と動いた。

 「あぁああっ」

 継子は声を殺すのも忘れ、悲鳴をあげた。
 杏寿郎の舌が耳の穴に差し込まれていた。

 (み、みみ、耳が)

 耳が壊れる。冗談抜きで継子はそう思った。
 舌を動かされる度にとんでもない音量の水音が継子の鼓膜を揺らす。師の唾液が耳道を垂れる感触がして、継子は堪らず敷布を足で踏みにじった。目を閉じているのも余計に良くなかった。直接神経を揺さぶられるような感覚に、快とも不快ともつかぬ何かが継子の背筋を這う。自分がどんな声を出しているのか、それすらもわからない。閉じ切れぬ口の端から涎が垂れた。
 やっと解放された時には、継子は息も絶え絶えで布団に転がっていた。
 目は開けられないし、耳はいたぶられてしまったしで、継子の五感はもうほとんど機能していなかった。師がいつの間にその手を股の間に伸ばしていたのにも気付かず、突然秘所をつぅと撫でられて継子は驚きに身を強張らせた。しかもそこは酷くぬるついていた。
 ぬかるみに足を取られるように、杏寿郎の指が継子の中に入った。何者にも侵入を許したことがない割には、そこは容易く指を受け入れた。

 「んぅう……!」
 「君は愛いな」

 ゆっくりと抜き差しするように指を動かしながら、杏寿郎がふっと笑う声がした。

 「俺を期待させるようなことばかりして」
 「あ、うぅっ」

 指が増やされた。圧迫感に息を詰めるが、すぐに膣が解れて指を受け入れる。遠くでぐちゃぐちゃと水音のようなものが聞こえ、継子は何の音だろうと靄がかった頭で考えた。考えてもわからなかった。ひたすら杏寿郎に翻弄されている。

 「そのくせ俺が一番望んでいるものは与えてくれない」
 「まっ、そこ、は……!」

 杏寿郎の指がある一点を掠めると、継子の全身を電流のようなものが駆け抜けた。継子の反応を見抜いたのか、杏寿郎がそこばかりを執拗に擦る。堪らず腰が跳ね、継子の瞼の裏を星が飛んだ。

 「あっ、ああ、あ——!」

 何か来る。飲み込まれる。
 敷布を掴む腕が筋張った。脚がピンと伸び、内股の筋肉が絞られる様に痙攣する。腹の奥がきゅうと疼いて、中にある杏寿郎の指を飲み込んでしまおうとうねっている。
 頭が真っ白になった。

 「……っは、ぁ……」

 継子を飲み込んだ快感の波は、ほどなく余韻を残して引いていった。全身の筋の緊張が解け、四肢が布団の上に落ちる。
 それでも、継子は目を閉じることを忘れていなかった。

 「……よもやよもや」

 継子の中から指を引き抜いた杏寿郎が、呆れた様にそう言った。

 「ここまでやっても目を開けないとは、君は本当に強情だな。取り返しがつかなくなるぞ」
 (理由を言わない師範が悪いんですよ)

 とは、継子は口が裂けても言わなかった。ここまで来たならもう最後まで行ってしまえと思っていたし、自分も最後まで意地を貫き通すつもりでいた。
 そんな継子の心境を読んだのか、杏寿郎がしゅる、と帯を解く音がした。期待していたわけでもなかったが、継子は自然、ごくりと生唾を飲んでいた。膝の裏を持つ師範の手は、もうすっかり熱くなっていた。

 「何度も言うが」
 「……」
 「目を開ければ必ずやめる」

 そう言って、杏寿郎が継子の中に入ってきた。

 「はっ……!」

 継子は息を忘れた。
 凄い質量だ。痛みと圧迫感で何も考えられない。目の緊張すらわからなくなり、手で目元を隠そうとした継子の腕を、杏寿郎が掴んだ。

 「それは駄目だ」
 「うっ……」

 せめてもの報いに、継子は杏寿郎の顔があるであろう方面から、ふい、と顔を背けた。腕の拘束が弱まる。

 「動くぞ」

 ゆっくりと、継子の中を占領していた杏寿郎が出て行った。かと思えば、また入ってくる。何度も何度も中を割り開かれていく感触に、継子は不規則な息を吐いた。次第に痛みも麻痺していき、そんな継子の様子を見抜いているかのように、杏寿郎が抽送する速度を上げた。
 一つになっているのだな、と継子は改めてそんなことを思った。
 間近で師の息遣いを感じる。燃えるような体温を感じる。きっと自分も、息が上がっている。体が熱くなっている。重なった肌が溶けてしまいそうだ。

 「はぁっ、師範、しは、ん……っ!」

 吐息の合間に、継子は杏寿郎を呼んだ。杏寿郎もそれに応えるように継子の名を呼んだ。
 夢中で手を繋ぎ、舌を絡めた。こんなにも激しく互いを求め合っているのに、捧げ合っているのに、まだ何もかもが足りなかった。押し寄せる快楽にいよいよ耐えきれなくなった継子が脚をぎゅうと杏寿郎の腰に回すと、杏寿郎が継子の腰を両手で掴んだ。

 「ッ、中に、出すぞ」

 それに応えるように、継子は脚に力を込めた。ぐっ、と杏寿郎が息を詰め、継子の奥深くに精を吐く。中で熱いものが脈打っているのを感じ、継子は全身を震わせた。
 顔が見られないのが残念で仕方なかった。

 「……で」

 後処理を済ませた師が、呆れたような声を継子に向けた。継子はまだ目を瞑ったまま、意識を杏寿郎に向けた。

 「まだ目を開けてくれないのか」
 「……」
 「本当はここまでするはずではなかったんだ」

 師範は僅かに申し訳なさそうにそう言った。まあそうだろうな、と継子は思った。最初に寝所に入ってきたときの杏寿郎の様子は、性欲に溺れてというよりはもっと切羽詰まって危なっかしいものだった。
 継子が黙っていると、杏寿郎がもう一度乗りかかってくる感触がした。そして、それこそ恋人にするかのように、優しく頰を撫でた。

 「頼むから目を開けてくれ。最後に君の目が見たい」

 最後。
 その言葉を継子は口の中で復唱した。

 「君は、俺が見た継子の中で誰よりも頑張っている。君が毎朝人に隠れて鍛錬していることだって知っている。君は本当によく頑張っている。
  だが、君は弱い。
  才能がない。とても柱になどなれない。十二鬼月などと戦ってしまえば簡単に殺されてしまうだろう」

 酷い言われようだが、事実なので何も言い返せなかった。師の声は次第に震えだした。

 「鬼の手にかかった人間の末路は知っているだろう。皆血を流しながら苦しんで死ぬ。遺体が欠けるどころか、骨すら残らない者もいる。君が鬼などに刀を折られ、痛みに悲鳴を上げ、無様に喰い殺されるくらいなら、俺がやる。俺が君を手に掛ける。君が鬼に殺されるなんて、俺が耐えられない」

 まだ目を瞑っている継子には、今の杏寿郎がどんな顔をしているのかわからなかった。
 ただ、きっと見た者の心をも引き裂いてしまいそうな悲しい顔をしているに違いない、と思った。

 「私は死にませんよ」

 そう返すと、師は黙った。その沈黙は、何を言っているんだと呆れ返っているようにも、もしかすると本当に死なないのではないかと期待しているようにも聞こえた。
 黙っている杏寿郎に、継子は続けた。

 「賭けをしましょう」
 「賭け?」
 「師範が私の首を絞めて、私が目を開けるか、死ぬかすれば師範の勝ちです。師範が私を殺せないか、私が目を閉じ切ったら私の勝ちです」

 まともな思考の持ち主ならば、何を言っているんだと一蹴するような内容だった。しかし、杏寿郎はそれを真面目に聞いた。いつもの師範がそうするように、継子の話を最後まで聞き、柔らかな空気を纏った。ふっ、と笑ったように息を吐くような音すら聞こえた。

 そして、杏寿郎は本当に、本気で継子の首を絞めた。

 「あ゛っ……!」

 これぞ暴力だ。
 継子は苦しみのなかでそんなことを思った。
 動脈が、静脈が、気管が、圧倒的な力で締め付けられていた。杏寿郎の大きな手が継子の首に均等に力を込めている。息ができない、とか、鬱血する、とか、そんな度合いではなかった。素手で首が潰されそうだ。
 本当に殺しにきている、と思った。
 ここまで来ても、継子は目を開けるつもりは毛頭なかった。だが、今まさに自分を殺しにかかっている師の顔が見られないまま死んでしまうのではないかと思うと、継子は急に気が狂いそうなほど惜しくなった。

 (しはん)

 自然と継子の唇が動いた。それに気付いたのか、師範の手が震えだした。呼吸が乱れだした。
 感覚のない腕を必死に動かし、継子は闇を探って杏寿郎の頰に触れた。濡れているような気がした。

 (あいしています)
 「……!」

 息を飲む音がした。同時に、ぱっと首にかかっていた手が離される。解放された喉から笛のような高い音がなり、わけも分からぬまま継子はげほげほと激しく咳き込んだ。
 咳き込みながら、何か冷たいものが肌に落ちた感触がした。それが師の涙でないことを、継子は祈った。
 
 
 
 
 
 煉獄杏寿郎は知らない。
 彼女の努力するわけを。
 
 
 
 夜明けのほの白い光が部屋に差し込み、目が覚めた。寝坊だ。しかし起床時間が少し遅れたこと以外は、いつもとなんら変わらぬ目覚めだった。
 継子は上体を起こしてしばらくぼーっとしていたが、突然はっと目を見開くと、部屋の隅にある鏡台に這って駆け寄った。そして、寝間着の合わせを開いた。
 首にくっきりとした痣があった。

 「ああ……!」

 それを見るなり、継子の頰はみるみるうちに上気していった。手がわなわなと震えた。
 喜悦に歪む継子の口端を、歓喜の涙が伝った。

 ——あれは夢などではなかった。

 師範と体を繋げたのも、師範に絞殺されそうになったのも、決して継子の見た夢などではなかったのだ。そう思うと腹を蕩かすほどの安堵と、脳を煮やすほどの狂喜が継子を襲った。
 嬉しい、嬉しい、嬉しい!
 継子は今にも庭を駆け回って叫びだしたくなるのを必死で堪えた。代わりに、昨晩杏寿郎につけられた痣を指でなぞった。鋭い痛みが走ったが、それさえ愛おしかった。

 ——私は愛されたのだ。

 誰にも弱さを見せない師範が、誰より明るく前向きな師範が、あれほど弱った声で、私が鬼に殺されるくらいなら自分が殺すとまで言ってくれたのだ。人を守るためにその命を燃やしている師範が、確かに自分を殺そうとしたのだ。その手を汚してまで。
 私は師範の特別になったのだ。
 それは鬼を何匹狩るより喜ばしいことだった。十二鬼月を倒すことより、柱になることより、何より喜ばしいことだった。

 継子は喜びの余り、両の拳を固く握り締めていた。

 師範は知らない。なぜ私が、才も無いのにここまで修練しているのか。柱になれるはずもないのに、なぜ継子の座にしがみついているのか。
 私が努力するのは、師範に愛してもらうためだ。
 私が強くなるのは、師範の愛を一身に受け止めるためだ。
 そこに鬼など存在しない。私は鬼のために継子になったのではない。他の誰でもない、師範のために継子になったのだ。
 一番近くで師の愛を賜るために。

 鏡には恍惚とした表情でしきりに首を触る狂人の姿が映っていた。やがて障子の向こうから千寿郎が朝餉の時間を告げにやってくると、継子はさっと狂人の面を打ち消した。軽やかな足取りで部屋を出て行った。
 
 
 今日も彼女は、朝餉を食って強くなる。
 山を走って強くなる。
 素振りをして、稽古をして、厳しい鍛錬を乗り越えて、強くなる。

 ただ師の愛を受けるためだけに。

2020年12月1日